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サッカーと僕 ~出会いが繋いだ出会いの先に~

12月2日水曜日19時

僕はアルビレックス新潟のホームスタジアムであるビックスワンにいた。

色んな感情が交差する中、1人のサイドバックを追いかけた。
その背中に28番を背負い、その胸には地元への熱い想いを背負うアルビレックス新潟の選手を追いかけた…

サッカーと僕(幼少期)

本題に入る前に少し、サッカーと僕について書いていきたい。

32歳の僕にとって、「憧れの存在」といえば、現在J1横浜FCで活躍するキング

三浦知良

だった。
これはもう同世代の多くがそう答えるだろう。

93年にJリーグが誕生した。
当時、小学校入学前の僕らは公園に集まってはサッカーに明け暮れた。

小学校に上がると、サッカーが上手い子はクラスの人気者だった。
自分で言うのもおかしな話だが、僕もその1人だったと思う。

サッカーをすれば、もちろんキング三浦知良と同じFWの取り合いだった。

「俺、カズ!」
「えー…じゃー、俺、武田!」

なんて会話は毎日のように交わされていた。

そんな中、上手い子の中には、ビスマルクやラモス瑠衣がいたMFを選ぶ子がいて…

物好きな子はペレイラが君臨したDFや菊池が務めたGKを選ぶ子もいた。

それだけ、当時の子供だった僕らにとってJリーグ、その中でも、当時のスター軍団ヴェルディ川崎(現東京ヴェルディ)のメンバーは僕らにとって憧れだった。

そんな僕が、サッカーから離れたのは、転校がきっかけだった。

小学校3年生の時に、隣町の小学校に転校した。

その小学校にはサッカー少年団がなく、サッカーをするという文化も今までいた小学校よりも薄かった。
(そういう意味では、小学校で色んなスポーツを気軽にできる環境整備はこれから大切になっていくとかもしれないと思ったりする。)

友達になった子に

「サッカーうまいな!俺の少年団入らない?」

と声をかけられて、体験には行ったが、なにかしっかりこなかった。

結果的に、僕はバスケットボールを始めた。
理由は1番仲が良かった友達がバスケットボールをやっていて、誘われたからだった。

サッカーと僕(思春期)

僕はバスケットボールに没頭した。
途中、様々な理由から、嫌になって練習に行かなくなったりもしたが…
部活では中学校まで続け、中学校では北海道3位の成績…あと1勝のところで全国大会を逃した。

そして、その年は2002年

そう、日韓W杯が行われた年。

その舞台で光り輝いたのは、黄金世代
小野伸二、稲本潤一、中田浩二…
そして、中心には中田英寿が君臨した。

日本での開催、そして日本の決勝トーナメント進出に僕らも湧いた。

部活を引退した夏休みはみんなで公園に繰り出し、サッカーをした。

同時に当時はウイニングイレブンというゲームも流行っていた。

W杯で活躍した世界中の選手たちを、朝まで画面越しで操作したものだった。笑
(受験勉強はどこいった笑)

そして、僕は高校に進学する。
志望した本命の公立高校には不合格だったが、内心ほっとした。
僕はバスケットボール部のない滑り止めの私立札幌第一高校に進学したし、普通の高校生としてぐだぐだ過ごした。

札幌第一高校はサッカーはもちろん、野球、バレーボール、バドミントン、陸上と様々なスポーツで全国大会に出場している。

僕が入学した2003年には、サッカー部が初めて全国高校サッカー選手権に出場した。

当時は、今ほどユースや街クラブも注目度は高くなく、沢山の生徒が高校サッカー部の門を叩いた。
良いか悪いかは別として、その練習の厳しさに途中で退部するものも沢山いた。

推薦組と一般組を比べれば、やはり推薦組は僕の目から見てもレベルが違ったように感じた。

3年生の年の2005年、高校サッカー選手権の北海道予選に敗退し、サッカー部のメンバーの引退が決まった。
サッカー部のメンバーと仲の良かった僕は彼らとフットサルに明け暮れた。

フットサルでは、バスケットボールのスキルも活かすことができ、ありがたいことに当時は北海道リーグのクラブからお声かけ頂いたこともあった。

もちろんこの頃も休みの日は友人が家に泊まりに来て、朝までウイニングイレブンに明け暮れた。笑

サッカーと僕(青年期)

大学進学で上京した僕は1人の恩師と出会うことになる。

鈴木滋教授

1980年代後半の横山謙三体制での日本代表でフィジカルコーチとして活躍し、その後、浦和レッズなどでも活躍をした。
当時、日本代表で初のフィジカルコーチだったと記憶する。

大学1年から4年まで、僕は鈴木滋教授のもとで多くを学んだ。
サッカーにおけるフィジカルの重要性から、クラブマネジメント、地域との関わり…

社会、生活とサッカー、もっといえばスポーツが関わることで、様々な日常が変わっていく可能性に心が躍ったのを昨日のように覚えている。

そんな恩師のもと、大学院進学を目指し、よりサッカーを深めていこうとしていた矢先、恩師は帰らぬ人となった。(ちなみにその後、筑波を受験した)

当時22歳

葬式の前後の記憶は僕の中でもすっぽりと抜けている。

しかし、恩師との出会いがサッカーをより掘り下げることの喜びを教えてくれ、当時、多くの書籍を読み漁り、Jクラブの練習を見に行ったり、試合会場に足を運び、海外のサッカーを観戦し、戦術、戦略、フィジカル、マネジメントなど、今の自分のベースが作られた。

何より、大学で出会ったかけがえのない仲間も、その多くがサッカーを愛するメンバーであったことは、僕にとって何よりの財産だ。

出会いが繋いだ出会い

前置きがかなり長くなった。
そして、余談だが、僕は今、バスケットボールのコンテンツをいくつか行なっている。

正直、最近のサッカーからはだいぶ疎くなってしまっているが、サッカーに興味を持った時の学びが、今のバスケットボールの活動に活かされていることは言うまでもない。

そんな中で、ある1人のプロバスケットボール選手と出会った。

当時、僕の地元である北海道のプロバスケットボールクラブに所属していた山本柊輔(現三遠ネオフェニックス)である。

彼は筑波大学に一般生として入学して、強豪筑波大バスケットボール部の門を叩き、BチームからAチームにコールアップされ、3、4年時にインカレ連絡に貢献した。

2019年の夏は山本柊輔とさまざまなイベントを行わせてもらった熱い夏を過ごした。

その後、山本柊輔から紹介してもらい、プロラグビー選手の木村貴大と出会った。成田空港で木村貴大と1時間ほど、電話をしたのも本当に昨日ように思い出す。
彼もまた筑波大学のラグビー部の出身で、東福岡高校時代はラグビー部で花園3連覇を達成した。

木村貴大とも様々なイベントをご一緒させてもらった。

そんな2人からよく話題にでたのが、アルビレックス新潟の早川史哉だった。

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当たり前だが、サッカーが大好きな僕は、アンダー代表の頃から早川史哉のことを知っていた。

そんな3人と一緒に話をさせてもらった機会があった。

2011年、U17W杯のブラジル戦の早川史哉のゴールは今も思い返しても鳥肌が立つ。

総会がゴールではないが、そこにいたことに、ボールがきたことに驚いた人は多かったのではないだろうか。
その時は言わなかったが、正確に言うならば、僕は当時吠えていた。笑

「いけ!あと1点!」

そんな気持ちで拳を握りしめていた。

そのことを伝えると、木村貴大が

「アスリートに過去の話は引っ張るもんじゃないっすよ!」

と笑って言われて、反省したのを覚えている。

早川史哉は
「全然大丈夫ですよ」

と落ち着いて返してくれた。

早川史哉が筑波大学に進学した時も、率直に
「あ、大学に行くんだ」
と思ったことも鮮明に覚えている。

今、思い返せば、そうやっていつもどこかで自分の前に現れ、印象に残るところも早川史哉の人としての魅力であり、何かの縁なのかもしれない。

仕事を休んで参加した出版イベント

早川史哉と初めて話したのは、昨年12月に行われた池袋での出版イベントだった。

すでにその書籍を読んでいた僕はどうしても彼の言葉を聞きたかった。
「なにが何でも行きたい!」
と思った僕は、滅多に取得することのない(できない笑)有給をとり、仕事を休んだ。

「そして歩き出す サッカーと白血病と僕の日常」

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サッカーが好きな方でなくても、まだ読んだことのない人は、是非とも手に取ってもらいたい1冊だ。

僕はイベント中、何度も涙を堪えた。
会場には、実際に涙を流す人もいた。

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そして、イベント前後もイベント中も木村貴大と連絡を取っていた。笑
(木村貴大は本当に周りの人を思いやる気持ちに溢れたアスリートだ)

本当に素晴らしい書籍で、素晴らしいイベントだった。

イベント後のサイン会で、山本柊輔と木村貴大と交友を持たせてもらっていることを伝えた。

その1年後、今のように生活が一変しているなんて想像もしていなかったが…

この出版イベントから

早川史哉のプレーをオレンジに染まるビックスワンで観たい

僕の心もまたオレンジに染まっていた。

やっぱりサッカーが大好きだ

12月2日水曜日19時

僕はアルビレックス新潟のホームスタジアムであるビックスワンにいた。

早川史哉のプレーを追いかけた。

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ここで改めて、彼のこれまでの道のりを書くことは控えておきたい。

それらは、彼の書籍を読んで欲しいし、彼が自身の人生と向き合い、綴った言葉を多くの人に感じてほしい。何より、いちサポーターの僕が語ることでもない。

残念ながら、コロナウィルスの影響でスタジアムは4900人ほどと、オレンジに染まる景色とは程遠く、チャントの響かないスタジアムだった。

試合は新潟が先制をしたが、後半スタートとともに連続失点。どこか地に足がついてないような後半の入りだった。

終盤に意地のゴールで同点に追いつき、2-2の引き分けで終了。

正直言えば、アルビレックス新潟のパフォーマンスは前節で昇格の可能性が無くなったことも影響したのか…どこか締まりがなく、前半の30分以降くらいから良いボールムーブからゴールに迫った時間帯で、試合のイニシアチブを持った以外は栃木SCペースだったように思う。

早川史哉もゴールに迫ったシーンもあった。その瞬間は思わず身体が動いた。

ビックスワンにきて感じたことがある。

「やっぱりサッカーが大好きだ」

僕の中で、この数年小さくなっていたサッカーの灯火に、再び火がともった。

そのきっかけはアンダー世代からプレーを見ていた早川史哉だった。

ただただ、サッカーに、新潟という素晴らしい地域に、早川史哉のプレーを中心にアルビレックスのサッカーに、そして早川史哉自身のストーリーに魅了された時間だった。

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今の社会状況の中、新潟に行くことも悩んだが、この場所でサッカーを観ることができて良かった。

きっと、僕らが子供の頃、キングカズに憧れたように、この地で早川史哉に憧れ、Jリーグを目指す子供達がきっと沢山いると思う。

そんな早川史哉もアルビレックス新潟に所属したゴールキーパーの野澤洋輔に憧れた少年だったそうだ。

そうやって、誰かが誰かの憧れになり…もちろん全員が叶うわけではないが、夢が繋がっていく。

こんな時代だからこそ、サッカー、スポーツには人の心を動かす力がある。その力がきっと、苦しい時に、僕らにとって前を向く力になっていく。

ビックスワンで早川史哉のプレーを見て、僕はそう感じた。

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次は、オレンジに染まるビックスワンで早川史哉が躍動する姿を観れる日を楽しみにしている。

そして、現地に行って、コロナ渦でのリーグ開催で、多くの人が協力しあい、試合が開催されていることを改めて体感した。

選手も試合に関わる人々も何かしらの不安がきっとあって試合に臨んでいたはずだ。

それでもいつか、あの時があったからこそ…

未来のどこかで、サッカー界、ひいてはスポーツ界がこの苦しい時期を乗り越え、よりサッカーが、スポーツが僕らの生活に欠かせない力になってくれたら嬉しいと個人的に感じている。

僕にとってサッカーはずっと身近な存在だった。サッカーから学んだこと、サッカーで得た最高の時間がある。

人生の途中にその存在が近くなったり、遠くなったり…

そんな繰り返しはあったし、これからもきっとあると思う。

それでも、

「やっぱりサッカーが大好きだ」

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PS 史哉、青春の味「バスセンターのカレー」は最高に美味しかったです!

スタジアムで食べて、あまりに気になって、バスセンターにも行きました!笑

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