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【感想】カンテレドラマ『大豆田とわ子と三人の元夫』第10話(最終回)

いやはや異次元の最終回

そもそも先週の第9話がほぼ最終回みたいなテイストだった。
まぁでも最近はそういう最終回がボーナストラックみたいなドラマも結構あるよねと思って見始めたら

狂っているとしか思えないw
その後は

そう、最終回はとにかく反復、反復、反復。
そもそも本作は「主人公が3回結婚して3回離婚した」という設定から始まった物語。
だから締めくくりにも反復のモチーフがふさわしい。

・貰った帽子を被って写真撮影(第1話の反復)
・Wi-Fiまだ?
・謝る練習
・いざ謝罪に行った先での何度も店に行かされる
・やっぱもう1日泊まる
・私やっぱり医者になる
・松前漬け問答
・あなたに自転車の乗り方を教えなかった
・外れた網戸(本作の中でも特に印象的な反復)
・とわ子の家に潜む恋敵を探す(第1話の反復)
・英字新聞シャツ(第1話の反復)
・ボウリング(第1話の反復)

このまま第1話に回帰していくような感覚すら覚える。
(円環といえばドーナツ、ドーナツといえばカルテットなんて妄想も放送中にはしていたw)
そこに本作をずっと彩ってきた伊藤沙莉の最後のナレーション(願わくば本編にもカメオ出演してほしかった)が告げる「〜ができるようになった」登場人物たち。
幸せな結末 from ラブジェネレーション

そういえば主題歌のあの手法も一種の反復か、とこれ書きながら思った。

STUTSかっけぇw

第6話でかごめの死を描いて視聴者の度肝を抜いた本作だが、よく考えたら第1話からとわ子の母親の死は繰り返し描かれていた。
それを回収する際にジェンダーの話(西園寺くんの男性封建的な考え方の描写も合わせて)をサラッと絡めてくる辺りは近年の作品で社会的テーマを扱ってきた坂元裕二の面目躍如である。

さらに唄のこの台詞

可哀想なおばあちゃん
おばあちゃんが生きた人生は私の未来かもしれないんだよ?

これは第7話で小鳥遊に最新の物理学を引用してまで言わせたこの台詞と呼応する。

過去とか未来とか現在とかそういうのってどっかの誰かが勝手に決めたことだと思うんです。
時間って別に過ぎてゆくものじゃなくて、場所っていうか別のところにあるみたいな。
人間は現在だけを生きてるんじゃない。
5歳、10歳、20歳、30、40、その時その時を人は懸命に生きてて、それは別に過ぎ去ってしまったものなんかじゃなくて。
あなたが笑ってる彼女を見たことがあるなら、彼女は今も笑ってるし、5歳のあなたと5歳の彼女は今も手を繋いでいて。
今からだっていつだって気持ちを伝えることが出来る。
人生って小説や映画じゃないもの。
幸せな結末も悲しい結末もやり残したことも無い。
あるのは、その人がどういう人だったかっていうことだけです。
だから人生には2つルールがある。
亡くなった人を不幸だと思ってはならない。
生きてる人は幸せを目指さなければならない。
人は時々寂しくなるけど、人生を楽しめる。
楽しんでいいに決まってる。

そう、我々もまた本作を「終わった」と形容してはならない。
大豆田とわ子と三人の元夫、その他様々な魅力的なキャラクターたちは今も生き続けている。
(この辺の話は本作に限らず「作品の永遠性」というテーマに繋がるんだけどそれはまたいつかの機会に)

こちらこそ「ありがとう!」である。

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