散らかし適当アレコレ日記8

状態がいいと思える時ほど比例して文章が書くのを難しく感じる。多くの人にとってどのくらい普遍性があるかわからないが、同じような事を言っている人を何人かは知っているので私特有のものでもないとして話を進める。

状態がいいと思うとき、
それは言語にまつわる領域の活動が鎮まり沈黙してしまったかのようだ。こういう時は読書などもうけつけない。
普段は言語領域はそこそこ活発であり、思考や感じること、考えることに忙しい。

わたしがいい状態という、、
いわゆる心身統一状態にあるとき、楽な状態のとき、身体のつながりがある状態のとき、
様々な言い方やレベルがあり何と呼んでいいか正直よくわからないが、
そのような状態にあるとき、内外共にただつながっているように感じる。そしてそれで充足してしまう。(妄想と言われてしまえばそれまでだが)

思うのはスラスラと書けてしまうとき、
繋がりのなさゆえの不安を埋めるようにして、
書いているのではないかということだ。
こういう時傾向として熱中し興奮しやすい。私の場合、チョコやコーヒー、コーラなどの刺激物などを欲する。
そしてボタンをかけ違いながらもズンズンと突き進み、気づけば盛大にこんがらがってしまっている。
そしてそれは避けたいなとも思ったりする。

ひとつ体験をあげよう。
面倒なので多くは割愛するが、
コミュニケーション能力をアップさせたいと切に願っていた時期があった。
コミュニケーションがいい感じに成立しないのは(いい感じとは?当時非常に曖昧な捉え方しか出来なかった)私の能力不足であって、より能力をアップさせたいと思った。また全ての他者と深い関係性と交流をもつべきだと考え、それらに対して様々なアプローチを試みた。

私がアレクサンダーテクニークの教師養成コースに通い始め二年ほど経ったころである。
私の中の設定では長い間、他者は完璧にコミュニケーションを体現できる存在であり、私だけが不完全である。ゆえに自身の能力アップさせる必要があると思い試みてきた。
が、実際は全然そんなことなかった。(当たり前である)
他者もまた不完全さを持ち合わせていた。またコミュニケーションは互いにより生まれるものであるように思えてきた。そういった事が徐々にわかっていった矢先にある理解が訪れた。
それは私はそもそも他者にそれほど興味はなく、ことさらコミュニケーションを深めたいと思っていなかった。
また、自身の能力の問題と捉えたのは、
地に足がついてないゆえであり不安であったからだ。解という実体あるものが欲しかった。
地に足を着ける代わりに、
安心感という感覚があると錯覚し求め、そこに至るための解があると信じて問題を自らつくりあげた。(=コミュニケーション力がアップすれば問題解決)
実際は必死に足をバタつかせていただけであった。
身体の状態が整っていく過程で漠然とした不安はなくなっていた(歳を重ねたというのもあるかもしれない。)。
降りてみればなんてことはない。まるで関係なかった。そこに自身が想定した実感というものもなかった。


自由さとは利便さを求める過程で断ち切ってしまった不自由さへ、再び出向くことでもあると思う。

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