散らかし適当あれこれ日記1

あああ…暑い……。なんか疲れている。
夏真っ盛りである。自転車をこぐ。蝉がジジジぃ〜とかミンミンミーンとか鳴いているのが聞こえる。

カブトムシがいる木が一本だけある。今日も脇を通ると三匹ほど発見する。
先日夜中通るとカブトムシの匂いが木全体からしていた。
そういえば何人か男の人で体臭がカブトムシみたいな子いたなとちょっと思ったりした。べつに嫌いな匂いではない。。。

昨日、著:碧海寿広「科学化する仏教」
〜瞑想と心身の近現代〜
という本を読み終えた。面白かった。

〜裏表紙から抜粋〜

近現代の仏教は、つねに最先端の科学と接点をもち、自らの可能性を問い直し続けてきた。宗教体験の心理学、禅や祈祷の科学的解明、さらには催眠術、念写、透視の研究まで。ときに対立し、ときに補い合う仏教と科学の歴史から、日本近代のいかなる姿が浮かびあがるのか。ニューサイエンス、オウム真理教事件、そしてマインドフルネスの世界的流行へー、対立と共存のダイナミズムに貫かれた百年史を、気鋭の近代仏教研究者が描き出す。

この百年史の流れの中に、私が生業としているアレクサンダーテクニークもある。(アレクサンダーテクニークの名前はでてこない。)
俯瞰しつつ現代のアレクサンダーテクニーク の取り巻く状況や、自身の位置付け、私自身どのようにアレクサンダーテクニーク を伝えようとしているかなど説明することができそうだなと思い、何か書いてみようと思った。
が、やめた…。思いつき以上のことは書けなさそうだし、それは日記を超えている。何より面倒くさくなってしまった。

※興味深く読んだとこを抜粋しておく

禅と悟りを科学的に解明できると信じる者たちと、宗教と科学とでは、世界へのアプローチの仕方が根本的に異なるという鈴木大拙の考え方と意見が述べられている箇所。

「無心」の世界は科学的な分別ではとらえられず、体験しないとわからない。それは、たとえば「川の岸へ立って、水の流れを眺めて、深いだらうか、浅いだらうか、冷たいだらうか、熱いだらうかと、いろいろと想像をたくましうする」だけでは、川の実態がわからないのと同じことである
宗教では、とにかく飛び込んで見るのである。浅いか深いか、温かいか冷たいか、自分で体験するのである。科学は自分が実地にそれを体験しなくても、いろいろな機械をつくつたり、いろいろな実験をしたりして、体験の世界のほかに概念の世界をつくりあげる。(以下省略)
 
人間を超えた科学の力が支配する世界で、個々人が自己の存在に向き合い直すために求めら
れるもの、それが「禅」だと大拙は言うのだ。
では、禅では自己にどう向き合うのか。大拙いわく、それは「見るものと見られるものとが
一体になる」という方向である。科学は、すべてを外側から客観的に観察するので、こうした
アプローチをとれない。「自己知とは主と客とが一体になって初めて可能なのだ」。この主客1体的な探究の方法によってこそ、自己の本質は理解できる。そうした自己の本質を、大拙は
「人格」という言葉でおさえている。
人格というものは必ず一個の人間の生活の中に如実に生きているものであって、
決して概念的に、科学的に定義せられたものの中にあることはできない。(中略)人格が住んで
いるのはそんな定義の中でなくて、生きた生命の中に棲んでいるのである。この生命が人
間の研究の主題なのだ。(中略)我々がいのちがけで取り組むのは”この生命とはどこにあるのか”” その生命の姿はどんなものか”ということを自分自身で身をもって発見すること以外にはない。

湯浅泰雄の修業論。
道元の言う「只管打坐」の思想について

まず注意すべきことは、禅というものが知的思弁の優位を否定するところから出発する
思想であるということである。いわゆる「只管打座」とは、そういう意味に外ならないで
あろう。視野を拡大していえば、同じことは仏教思想の本質的性格の中に、あるいは東洋
ほか思想の伝統そのものの中に流れている考え方であると言うこともできるであろう。もしそ
うであるとすれば、禅体験の内容を知的思弁によって論理化しようとする企ては、問題の
本末を転倒した態度におちいるのではないかと思われる。
神を、あるいは仏教その他の東洋思想を、禅を、あるいは仏教その他の東洋思想を、札上で知的に学んだり論じたりするだけでは、意
味がない。というより、本末転倒である。
まずは、ひたすら坐禅するなど、とにかく実際にやってみることではじめて意味をなすのが、禅であり、仏教その他の東洋思想の本質だ。湯浅はそのように主張しているわけである。


マインドフルネスブームの昨今。
曹洞宗僧侶である藤田一照のマインドフルネスへの認識の仕方と、意見を述べている箇所。

座禅についての理論的な考察を行った著作で、藤田は、座禅を特定の呼吸法や瞑想法の一種とする理解を退ける(藤田2019)。
現代の瞑想法は一般に、「頭の回転が良くなるとか、こころが落ち着くとか、健康になるという世俗的な目的」や、あるいは「悟りや超越的な智慧を獲得するといったスピチュアルな目的」を喧伝する。だが、道元がとく「只管打坐」の禅の確信は、そうした個人の目的意識から自由になり、ただこの世界に「在る」状態へと自らを解き放つことにあるはずだ。
わたしが言いたいのはそれらの瞑想法がいけないとか間違っているとか、やってはいけないということでは決してなくて、只管打坐の座禅とそれらの瞑想法とは基本的に性格というか質が違う、ものが違うということなのです。これは、優劣の問題ではなく質の違いの問題です。
わたしが思っているのは、よくある両者の混同を避けて、座禅の本来のあり方をはっきりさせたいということです。


「人」の探求へ
・反復される歴史

本書を通読してきた読者であれば、以上に概観したマインドフルネスの現状や、その仏教と
の関係には、どこか既視感があるはずだ。近現代の日本で既になされてきたことが、現在、か
たちを微妙に変えながら、日本を含めた世界中で反復されているのである。
何が反復されているのか。まずもって、仏教の性質や瞑想の効能を科学的に検証し、これら
を仏教の枠内から科学の領域へと移そうとする運動がある。
明治の心理学者である元良勇次郎は、自らの参禅体験をもとに禅の心理を考究し、そこから
得られた見識を、教育に役立てようとした。元良はまた、人間の哀しみを癒やすための方法と
して、催眠術が仏教その他の宗教に取って代わる可能性を示唆した。そして、元良と同時代に
催眠術を科学的に研究した人々は、僧侶による加持祈薩の力や、坐禅がもたらす精神状態は、
催眠術でも再現できると主張した。また昭和初期には、 空海が日本に広めた真言密教を、心理学ないしは生理学的な観点から再許価し、これを日本国民の心身と道徳の改善のために用い
うとした科学者もいた。
さらに、戦後になると、坐禅の効能を脳波測定などの科学実験に基づき解明する、禅の科学
が台頭する。その担い手たちは、ときに自分たち科学者こそが、伝統仏教の僧侶よりもむしろ、今後の禅のあり方を正しく見通せると公言した。それからしばらくの後、瞑想中の脳波測定から確認された a 波の健康改善などへの効果を、仏教とは無関係に宣伝する本が、多くの日本人を魅了した。
現在流行中のマインドフルネスもまた、仏教瞑想のうち科学的に見て有効そうな部分を確か
めながら、仏教色を取り除くかたちで設計し直された瞑想法である。仏教と科学をめぐる日本
の近現代史を知る者にとって、そこには当然、既視感がある。
また、仏教の科学化に対して異論を示す仏教者がときに出現するという構図も、日本の近現
代史と現在のマインドフルネス·ブームで共通する。(以下省略)


昼飯を食べ、ねっ転がりウトウトしていたらイメージが流れこんできた。
部屋の中でエアガンを何百発と放ち散らかし、チンチラに向かってBB弾を回収してこい!と命令している。怯えた顔でチュチュ〜!とチンチラ(意味わからん( ̄▽ ̄;))
ちなみに寝てるわけではなく、半分起きている。疲れている時…完全な眠りに移行できない時など、覚醒状態から眠りの状態への狭間で起こる。今日は久しぶり。

ジェラートを買う。
いつものワッフル生地のコーンはなく、カップしかないそうだ。(コロナの影響)
なんだかソレは不完全に思えた。
そのちょっとした不満感が、完全なるワッフル生地つきのジェラート食べたい欲に自分を走らせるのではと心配したが、意外に満足した。
杞憂であった。

日記といえど少し疲れた。もっと適当にしよう。今日はおしまい。

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