散らかし適当あれこれ日記 2

8時に目が覚める。
昨日は初めて日記を書いたのだが中々頑張ってしまったようだ。目の奥に突っ張りのようなものを感じる。身体に強張りがある。
朝ごはんは那須の味噌汁。那須の甘みがでていて美味しい。
子どものころは那須に興味なんか殆ど興味示さなかった。
このオタンコナスが!!という使われ方をするぐらいだから子ども達の間でも全然地位なんか低かったんじゃないかな。
今はわりと好物のひとつになっている。フライパンで炒めた那須に生姜をのせ醤油をかけるのもいいし、炒めた那須に甘い胡麻味噌をかけ、大葉の刻みをのせたりするのもいい。また天ぷらも好きだ。
味噌汁を飲み終え、クーラーで冷えた身体もどこか温まった気がした。

今日も多分なく暑い。。。
外にでる。
活動している人が多い。ペンキ屋のおっちゃん、犬の散歩してる人、ケルヒャーで何かを掃除してる人。ケルヒャーからでる水は気持ち良さそうであった。ああなんならこちらにホースをむけてかけてほしい。
水圧で背中を掻いてほしい…(水鉄砲の水圧が背中にあたると、背中を掻いてもらってるようで気持ちいいことありません?)
と一瞬思ったが何事もなかったように通り過ぎた。

チョコモナカジャンボを買う。バリザク感が美味しい。
モナカ系アイスはこの季節あたりハズレが大きい。店によりモナカがフニャッとなってしまっているからだ。運んでる途中で一度溶けているのではないかと思われる。(実際は知らんけど)
その中ではチョコモナカジャンボは当たりハズレが少ないような気もする。
いや、、ほんと気がするだけ、、、
生地が違うのだろうか、、、、、わからん。

気をつけようという言葉がある。今日もラジオから流れてきた。
気をつけるという言葉は頭脳的な発想である。
それ自体は別に悪いことではない。
日々の生活では気をつけることで防げることもたくさんある。ただ同時に身体的理解には至るのを邪魔してしまう。
身体的理解では気をつけるという発想は生まれない。身体的理解とは状況に身を浸してるうちに自然と解が訪れる類のものである。
至ることで、そうとしか考えられなくなるということ。
気をつける人は気をつける事で、身体的理解が訪れるのを邪魔してしまう。
頭的理解は、相対的な理解の仕方であり、自分の身を場にいながらからも除外して考える。
特権的観察者。神的視点。

リラックスしていることは身体的理解への大事な要素のひとつである(緩むわけでもなく緊張するでもない状態)
リラックスすることで身体は外へ開かれる。

本が届いた。
英語の本。分厚い。ニューエイジ運動とはどういう運動であったのか調べたいと思い取り寄せたが、、読むのが正直面倒である。
日本語訳はあるにはあるが、もう販売してないのか3万オーバーになっている……。。やはり訳すしか…。

夜少し歩く。歩くために自転車をわざわざ降りる。
自転車をマイペースに漕ぎつつ進んでいく爽快感も好きだが、地に足をつけて外を歩くのもまた気持ちいい。
自転車を漕いでいる時とは浮かび上がる町の風景が変わってくる。テクテクと歩く。
家に近づく。夜帰ると隣家のネコがたまにゴロゴロしてることがある。
いるかな?と期待したけどいなかった。

ただいま。。。

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