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当時15歳だった。『17歳の地図』を聞いた時の衝撃を忘れない。果たして自分が同じ年齢になった時、こんな言葉を紡ぐことができるのだろうかと。

尾崎豊は私よりも3歳年上である。当時の中学、高校は荒れていた。私が通っていた中学でも、たくさんの窓ガラスは割れ、校内を不良たちが闊歩し、タバコの吸い殻があちこちに転がっている。

そんな悪環境の中学をやっと卒業し、高校に通い始めた夏頃だった。テレビで流れていた『17歳の地図』のPVを見てガツーンと叩かれたような気持になった。

なぜかミツバチ、砂丘で夕日をバックに立つ尾崎。かっこよすぎる。ルックスも抜群、さらに青学高等部といえば、全国に名の知れた高校。たぶん偏差値も高い。それを中退?歌手?何それ?と思った記憶がある。

当時は洋楽を聞く方がかっこいいという風潮があり、日本の音楽を聴く人たちは「下」に見られていた。でも、そんなの関係なくのめりこんでいき、アルバム『17歳の地図』『回帰線』を来る日も来る日も聞いていた。

でも、3枚目のアルバム『壊れた扉から』で、急失速が始まったように思う。高校を中退し、時間が経過するに従って彼の中のモチベーションがなくなっていったのかもしれない。

最後のアルバムとなった『放熱への証』リリース直前の1992年4月25日、彼は他界した。ちょうど、私の社会人1年目の初任給の日だった。

自分が尾崎から卒業する運命を感じた日だった。

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