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ワインとソムリエ

 おいらワイン好きである。酒は何でも好きだが、ワインでなければダメな気分とかシチュエーションがある。ワインについてはソムリエならずとも好きな人は好みのワインとがそのワインに対する知識などがあるものだ。かく言うおいらもかつてはワインを扱う商社に名前だけだが席を置いたこともあるし、ボルドーの畑を片っ端から回ったことやナパバレーで作り手と語り合ったこともあるし、日本ソムリエ協会のある資格さえ持っていた。
 つまりワインについては人にとやかく言われたくなく、そうだと言って人に知識をひけらかすような馬鹿でもなく、要は黙って好きなワインを飲ませて欲しいと思うのである。
 ここで登場する悪役が日本ソムリエ協会認定のシニアソムリエ、ソムリエ、ソムリエールなどの資格を持つ人たちのうちのごく一部の方たちである。この方達、資格を取る、あるいは維持するにはワインを扱う飲食店に勤務をする必要があるわけで、ワインリストからセレクトしている時、いかにもお助けしましょうか的な顔でそばに立っている人たちである。
 ワインは高い方が旨い確率が高いが、もっと大事で忘れてはいけないことは人間はメンタルな生き物であるということ。ワインに限らず、その時の気分により、一緒に呑むあるいは食事する人により、あるいはシチュエーションにより、同じ物でも味は全然違って感じるということである。
 例えて言えば気に入らない奴と食う数万円の会席料理より、笑顔が素敵な女の子と食べる600円のラーメンの方が断然旨いのだ。これは太陽が東から昇るのと同じくらい間違いない真実なのである。
 ワインを置いてあるレストランで食事をするとしよう。ワインを飲む事になりワインリストに目を落とす。その時ソムリエなどの有資格者がそばに立っていても何も言わなければ別に良いのだが、リストを見てから10秒と立たずに今日はこれがおすすめでございますと最高にコスパ(この場合原価に対する売値)の良い(ということは客からみれば最低の選択肢)を勧めて来る場合がある。同席者もいる場合雰囲気を壊したくないので「いえ、自分で選びますので」とやさしく言っても引き下がらない場合さえある。
 実際ソムリエなどの有資格者でも得意分野があり、それ以外はほとんど基本の知識しかない人もたくさん見受けられる。だからソムリエバッチ付けてるからすべてに詳しいと思うのは勝手だが、現実はそうではないのだ。
 昔の話で恐縮だが良く取材でヨーロッパに行っていたが、パリの某有名レストランで、現地の女性と食事していたときの話。店の奥の特別席で所謂ブルジョアの方々が6人でパーティーしていた。すると、ワインリストからビンテージのラトゥールともう一本(ラベルが見えなかった)を持って来させ、それをマグナム用のデキャンタに両方どぼどぼと注ぎ込んだ。
 凄いことするなあと思ってそれとはなしに観察していると隣の女性が彼らの会話を同時通訳してくれたのだが「いつもそれね」「これが一番旨い」と会話していた。やっぱり本場のリッチな方のやることは違うなーと感心したものだ。きっと美味しいんだろうと思う。なぜならその時彼らは料理は残していたけどワインは一滴残さず綺麗に飲んで帰ったからね。
 それでこの話を後日友人のソムリエ氏にしたら即答で「ワインへの冒瀆ですね」と言い放った。そこでおいらは「そうやって飲んだことある?」と聞いてみたら「あるわけないですよ」と言うわけだ。
 飲んだことないものを、美味しいか美味しくないか試したこともないのに、その人たちの行為をワインへの冒瀆と切って捨てるソムリエ氏。身銭を切って数十万するワインを2本混ぜて飲んでみて始めて評価ができると思うのだがどうだろう。
 面白いことに、この話をすると資格者も商社などのワイン関係者もワイン通という人たちもみんなそんな反応である。何故おおらかに「それはやろうと思ってもやれないですけど、さぞ美味しいんでしょうね」と言えないんだろう。
 その辺からワインを飲むときは、自分勝手に飲むのに限る。ソムリエのその時の都合や価値観で飲みたくもないワインを飲まされたのではたまった物ではないと思うようになったのだ。
 美味しいワインは素敵な人と笑いながら飲むのが一番。たとえテーブルワインでもどれだけ美味しいことか。逆に物知り顔のソムリエがそばにいて、つまらないオヤジと飲むワインはたとえ高いワインでも美味しいと思ったことは残念ながらない。(いやそれでもモンタルチーノはうまかったけどね)
 それこそがその場の雰囲気とその時の気分により味が変わる人間の本質なのではないだろうか。

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