鬱とのつきあい 6 父とその兄弟

私の生家では、叔父や叔母達がしょっちゅう揉めていた。
物心ついた頃には周囲の大人の顔色を見て、揉めそうになる度に道化となっては、場を和ませようとする子供になっていた。

9歳の頃だったと思う。
父と祖母の折り合いの悪さから、叔母が隠居を与えて別居することになった。
引っ越しを手伝ったので、よく覚えている。
一番上の叔母は、私が小さな頃祖父に勘当されていたが、何とか許してもらって出入りしていた。景気の良い時代で、営んでいた店も繁盛していたために、お金に物を言わせて祖父母に隠居所を与えたように記憶している。

そして17歳の時。
弟妹がいきなり我が家を急襲して、家を出て行けと言いだした。中には私を養女に欲しいとまで言っていた叔母もいた。
その時の事は、あまり記憶にない。それだけ衝撃が大きかったのだと思う。自分自身を守るために、ある種の記憶障害が起きたのだろう。

たしかに父は、頑固だし横暴な所もあった。それは認める。
だけど。
自分は尋常高等小学校しか行かせてもらえ無かったにも関わらず、祖父と2人で大工を営みながら7人の弟妹を学校に通わせ、嫁がせた。
自力で大学まで行った叔父もいたが、たった1人である。
母は、小姑と祖母の壮絶ないびりにも、耐えて尽くしてきた人だ。
何の罪で、そんな事を言われなければならないのか?
余りに喧嘩の絶えない人達だったからなのか、再び記憶障害に陥ったのか、何を理由にそんな事を言われたのか思い出せない。

結局父の側に付いたのは、次男と長女と次女。
この時、決定的な溝が兄弟姉妹の間にできてしまった。

19歳になろうとしていた春。
認知症で徘徊を繰り返していた祖父が亡くなった。
最初は交代制のはずだった介護から、一人、二人と逃げてゆき、徘徊する前には殆どの弟妹が介護から外れていった。最後には、長女と次女である叔母と、両親と私達三人兄弟のみが残された。

人とは、いや、父の弟妹たちは勝手な人間で、介護という義務は怠っても相続という権利は主張した。
その為、家と土地の権利は祖父のまま、税金だけは父が払い続けることとなる。

祖母は祖父の死後、娘や息子達の家を転々として生活していたが、最終的には末娘の家に住み着いた。
そして祖母が入院するや、彼女は、驚くべき事を言い出した。
自分が世話をするから、兄達4人に毎月3万円を払えと。
そして月12万円の収入で、家政婦を付けた。
空いた口が塞がらないとはこの事だ。
40年前の12万である。
当時の高卒の新入社員の所得より、はるかに多い。自分が世話をするという意味が、全くわかっていない人だ。

そのくせ、危篤の時も長男グループに連絡は無かった。亡くなった事は分かっていたが、葬式も当然そちらでする物だと思っていたところへ、突然遺体が運び込まれてきた。
祖母は父が追い出した訳ではない。自ら出ていったのである。それを知っていた近所の人達に、葬儀の手伝いを断られたようだった。
当時の葬祭は、町内の手伝いが無ければ実行するのは不可能。そこで、長男なんだからと葬式を押し付けてきたのだ。
幸か不幸か、我が家はしょっちゅう大声で喧嘩をしていたので、喧嘩屋として町内に名を馳せていた。事情を察した人達のおかげで無事に葬式を出せたのだが、その夜また一悶着あった。

祖母の貯金は、祖母の意思として末娘が相続を言い張り、長男派は、兄弟として認めないと宣言されたのである。

それから30年の間、2度ほど相続について相談を持ちかけたが、いずれも話がまとまらないままに30年の時が流れる。
そして、それらは私の鬱病や姉の統合失調症へと結びついているのだ。

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