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「調整文化と挑戦文化」という切り口でものごとを捉え直すと見えてくるものがある

「トヨトミの逆襲」という小説があります。フィクションですが、この本が、今の日本で世界に通用する数少ない会社であるトヨタをモデルにしていることは、読んだ人なら誰でもわかるでしょう。

実際に起こっている出来事などを想起させる、ストーリーを構成する一つひとつの情報がかなり細かいところまで書かれているため、極めてリアリティのある本に仕上がっています。

ということは、モデルになった会社であるトヨタ、および主人公のモデルである豊田章男氏の世間に与えるイメージに影響がある可能性の高い本であることも間違いないでしょう。

この本は、フィクションという体裁は取りながら、一般に公開されている事実にはかなり忠実に描かれているように見受けられます。しかし、起こった出来事は事実であっても、例えば人の感情や思い、出来事の背景などは著者の想像で描かれているはずです。ところが、読者はそのことを忘れます。

つまり、フィクションであることは承知していても、モデルが実在しており、しかもこのようにリアルに描かれていると、「実際もこの通りだったんだ」という印象を持ってしまいがちです。そういうところに見逃せない問題が潜んでいるように私は思います。

■ものごと(事実)をどういう切り口で捉えるか

例えば、従来の慣例を破る幹部人事が断行されるという話が出てきます。  その事実を、社長である主人公が自分の好き嫌いを押し通す強権政治として描くのか、能力や経営チームの役割といった当たり前の判断を優先し、「慣例に捉われることのない常識を破る人事」をした、と捉えるのかでは、もたらされる印象が天と地ほどに違います。

今の日本に必要とされているのは、間違いなく従来の慣習に捉われない適材適所の人事です。しかし、この本では主人公の断行した人事を強権政治的、つまり通俗的な「お友達人事」ふうに描いているのです。

また、主人公である社長は、創業家出身であることだけが取り柄、という典型的なお坊ちゃんとして描かれています。にもかかわらず、本の締めくくりは主人公がトップにふさわしい悟りを突如得て、新しい道を切り拓くカリスマ経営者になる、というストーリーに仕立てられています。そこに至るストーリーにまったく整合性がありません。

そのほかにも、経営陣は権力者にゴマをすり、タテマエはともかく、本当のところはわが身が大事で、保身と出世に走っている集団として描かれています。

これらの描写はたしかに日本の会社ではよくありそうなこととして、ビジネス小説などでもしばしば登場する経営風景ではありますが、読者はトヨタのことだと思うでしょう。しかし、本当にトヨタもその程度だとしたら、日本企業の中で唯一世界に通用しているトヨタという会社は存在し得ないと思います。

■トヨタの中で息づく「調整文化」と「挑戦文化」とは

今回私がこの小説を取り上げたのは、トヨタという会社がそもそも「現場発の挑戦文化の強い」会社であった、という私の仮説に大きな意味を見出しているからです。

トヨタは挑戦文化が強い会社ですが、その一方で、あれほどの大企業ですから、守りの文化である“本社発の調整文化”も同時に強い勢力を持っているのもまた当然であることが想定できます。トヨタ本社の広報の姿勢などを見聞きしてそういう印象を私も強く持っていました。

つまり、「現場発の挑戦文化」と「本社主導の調整文化」がぶつかり合ってきた、という永年の歴史を持っている企業の具体例がトヨタという会社なのだ、というのが私の仮説です。

そうした切り口で見てみると、トヨタの経営陣の中にも、調整文化的に行動する一群と、挑戦文化的な体質を持った一群がいることが想定できます。どちらがより強い勢いを持つかはその時々の状況によって違ってきたということです。

豊田章男氏が世の中に登場した十数年前、多くのトヨタの関係者が持っていたのと同じように、「本当に創業家が復帰することになっていいのだろうか」という疑念を私も持ちながらその推移を見ていました。そのあたりのことは当時の私のブログに書いています。

しかしその後、豊田章男氏が発していくメッセージなどを見ていくうちに、彼は本社発の調整文化と戦ってきているのだ、という認識が私に生まれてきたのです。

例えば、現場出身の社員はいくら優秀であっても基本的に課長止まり、という階層構造がしっかりしているのが従来のトヨタであり、また多くの日本の大企業でした。本社発の調整文化が強い力を持っていたトヨタではそれを変えることは簡単ではなかったはずです。

しかし、今は違います。最近では現場出身であっても優秀であれば副社長にまでなる人物が出てきているのは、こうした変化のわかりやすい例です。

■「調整文化と挑戦文化」という切り口で組織の動きを捉える

いずれにせよ、同じように事実をつむいでいっても、その事実をどういう見方で解釈するかによっては、まったくといってもいいほど違った印象がもたらされる、ということに改めて気づかせてくれたのがこの本でした。

主人公の社長の言動を血筋だけで社長になったお坊ちゃん社長だからとステレオタイプに捉えるのか、旧来の慣習を挑戦文化的に打ち破るチャレンジと捉えるのかでは、景色がまったく違って見えてきます。

つまり、漫然とただ見るのでなく、「調整文化と挑戦文化」という切り口で組織の動きを捉えるなら、一つひとつの現象に本質的な違いが見えてくる、ということです。

岐路に立つ日本企業、そして日本に生じている様々な現象を、「調整文化と挑戦文化」という切り口で捉え直すことの重要性について考える機会を、今こそ持っていただければと思います。

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