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私のお母さん

家族シリーズ第二弾

父に続き母について書いていこうと思います。

そう、忘れないように・・・。

私の母は1944年8月28日生まれ
鹿児島県で生まれました。

1歳で終戦を迎え、ものや食べ物が手に入らない時代に育ちました。
その当時皆がそうであったように、大変な貧乏生活を強いられていたようです。

父親(私の祖父)は出稼ぎで福岡に行ったっきり帰ってこず、いつしか仕送りも途絶え、気づかないうちに祖母は離婚され戸籍がいつの間にか実家に戻っていたらしく、祖父は再婚。
知らず知らずの間にシングルマザーとなっていた祖母は大変な苦労をして母達4人姉妹を育てたそうです。

給食がない時代貧乏で持っていくお弁当がなく、お昼の時間教室にいるのが辛くて海辺で遊んでいた事や、さつまいもやかぼちゃを姉妹で取りあって食べたことや、漁協に禁止されている砂浜での貝掘りを見つからないように掘りに行ったことや、裏山に焚き木を拾いに行って売りに歩いた子供時代の話を良く聞かされて育ちました。

戦後の日本人の本当の苦労を子どもの頃から教えてもらい、平和で豊かな時代に生まれた有り難さを噛み締め育ちました。

そんな貧乏や祖父の仕打ちにめげず、活発で明るく足の早かった母。
中学3年生の時鹿児島県の陸上競技大会100メートル走で3位に。
学校の成績もまぁまぁ良かったらしいのですが、家が貧乏で高校進学を断念。中学卒業後、黄金の卵を運ぶと言われた就職列車に乗り、岐阜の紡績工場に就職。それでも夜間の高校に通いながら高校卒業の資格を獲得。

逆境に負けないパワーとパッションはこの母からもらったと思っています。

その後も職を転々としながら上京。

21歳で父と出会い結婚。
22歳で兄、25歳で上の姉、26歳で下の姉、29歳で私を産み、4人の子を持つ母となりました。

まぁまぁ稼いでくる1級建築士の夫を持ち、4人の子供を持てたことは幼い頃の苦労が報われた瞬間であったろうと思います。

どんなに貧乏で惨めでも、なにくそっ負けるかっ‼️と歯を食いしばって耐えて生き抜いた母には私は未だに足元にも及びません。

母の私達に対する教育もそれが反映されていたと思います。

兄が高校生の時、野球部で丸坊主のくせにパチンコ屋でタバコを吸いながらパチンコを打って補導された事が知れたとき、監督にボッコボコに殴られて帰って来て(今じゃありえない(汗))「俺野球辞める。みんなに迷惑かけられない」と兄が言うと、「お前の野球に対する思いはその程度か‼️野球部で練習させてもらえなければ辞めるのか!野球が好きで辞めたくないなら毎日走ってバッティングセンターに行って一人で打ってこい‼️金なら出してやる‼️」となけなしのパート代から毎日バッティングセンターで使う金を渡し、その後兄は許され野球部もお咎め無しとなり、3番ライトでレギュラーになり、翌年最後の強豪ひしめく神奈川県大会で東海大相模を破り準決勝で惜しくも桐蔭学園に破れるも、3位に。当時私は小学生でしたが、県立の弱小チームが勝ち上がる勇姿を目の当たりにさせてもらい、また母の偉大さを思い知ったのでありました。

48歳であの忌まわしい事件(前回のnote見てね)があったり、父の闘病を支えたり、自身も乳がんやリウマチといった大病を乗り越えたり、波乱万丈ではありましたが、父の残した遺族年金と家を手にして今は悠々自適に元気に暮らしております。

父と顔を合わせてくらすのが辛くて、母に何故父と離婚しないのか聞くと
「経済的な事が1番だけれど、私は父がいなくてしなくていい苦労と悔しい思いをした。あなた達に同じ思いはさせられないから」と答えてくれました。

私はここだけは母のようになりたくないと反骨精神を新たにしたものです。

時代は変わる。

手に職をつけて、自立するのだと。

母には申し訳ないが、こんな目にあっても三くだり半つけて子供を連れて出ていけない人間にはなるまいと決意したのでした。

しかしながら父を最後まで看病し、看取った母は人生に勝ったのだと思う。

あらゆる困難に全力で立ち向かい、逃げずに闘って試練に打ち勝ってきた姿は神々しい。

欠点があるとすれば
ものが捨てられない(家片付かない)
そして意外と金遣いが荒い(笑)

私は見た目も中身も母にそっくりだと言われ48年。

早くに死んだ父の分も人生を謳歌し、まだまだ長生きしてもらいたいと心から願っている。


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