ご飯のおかず論争
食べ物の好みが違うというのは、なかなか面倒なものですね。
たとえば、実家で夕食にトンカツが出ると、父はトンカツ用のソース、母はウスターソース、兄と僕は何もつけず、妹は醤油で食べる。調味料程度であれば冷蔵庫から持ってくるだけだが、これがご飯の「おかず」ともなれば話は変わってくる。
以前、大阪に住んでいる友達の家に遊びに行ったら、当たり前のようにお好み焼きとご飯が食卓に登場した。「これがうちのスタイル」ということなので、ありがたく頂戴したが、個人的にはお好み焼きとご飯は別々に食べたい。みなさんも同じような経験はありますか?
英語ではこのような主義主張を「プリンシプル」という。僕にはこれといってプリンシプルと呼べるものはないが(もちろん、いくつかの個人的主張は持ち合わせている)、誰かと食事でも仕事でも共同作業をするときに「これが私のプリンシプルだから、譲れない」といわれたら、けっこう困る。
こういうとき、もっと高い視点から客観的に判断できればいいんだけれど、まだまだそのレベルには到達できていない。まあ、妥協することだけが解決策とは限りませんが。
『私は貝になりたい』(1959年)
ご飯つながりかはさておき、思い出すのはフランキー堺主演(中居くんじゃありません)の『私は貝になりたい』。捕虜虐殺の容疑でBC級戦犯として逮捕され、絞首刑に処せられていく映画だ。主人公清水豊松の明るさと、収容所の暗さ・課せられた状況の悲惨さが絶妙にマッチしていて、見るたびにやるせない気持ちになってしまう1本です。
考えてみれば、ご飯のおかず論争も、国家の主義主張も同じようにプリンシプルのぶつかり合いといえるだろう。お互いに自分は正しく、相手が間違っていると思っている。妥協という道はあるけれど、結局はぶつかり合いを繰り返す。
清水豊松も捕虜虐殺の疑いをかけられるが、実際のところは定かではない。だからこそ、彼は絞首刑への階段を登っていくときに「もう人間には生まれてきたくない。生まれ変わるなら、深い海の底の貝になりたい」とつぶやくのだ。
じゃあ、ぶつかり合いが必要ないか、と問われると、僕はそこまで断言する自信はない。なければないで良いのかもしれないけど(戦争のような規模の大きいものはないほうがいい)、ぶつかり合いによって物事が前に進むこともあるからだ。身も蓋もないけれど、ケース・バイ・ケースとしか、いえないのかもしれない。
結局は、「美味しい」が勝ってしまう
ご飯のおかずからプリンシプルのぶつかり合いまで、話がだいぶ横道にそれてしまったが、結局はお好み焼きをご飯と一緒に食べても「美味しい」んですよね。意外に見える組み合わせも、食べてみると案外イケる。結局はプリンシプルなんて、そんなものなのかもしれない。
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