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映画『東京自転車節』は映像版自己エスノグラフィーか?~阿部真大(2005)「バイク便ライダーのエスノグラフィー」と比較して

映画『東京自転車節』 観てきた。
お薦めです♪
スマートフォンとアクションカメラ「GoPro」で撮った作品というのも興味を引いた。今はこんな装備で映画が撮れるのね!

27歳の主人公で監督でもある青柳拓さんのセルフドキュメンタリー。
実家のある山梨で代行タクシーの仕事をコロナ禍で失い出稼ぎに上京。
彼には映画大学に通った550万円の奨学金返済が重くのしかかっているのだ。
2020年4月上京した青柳青年はコロナ禍で緊急事態宣言下の東京をウーバーイーツの配達員として自転車を漕ぐ。
ミレニアル世代とZ世代のちょうど狭間にいる心優しき主人公は、今の若者を象徴しているいるようにみえた。

同じ宅配便がモチーフのケン・ローチの『家族を想うとき』(私は昨年観た)が映画の中で語られる場面が出てくる。「ケン・ローチさんのいってることわかるけど正論を言ってるだけじゃん! 僕は奨学金を返さなきゃいけないんだ。稼がなきゃならないんだ。稼がせてよ‼」という。
やぶ蚊に腕を刺されながらも必死で生きる蚊に血を与えようと優しくやぶ蚊に語り掛けたりする。
新宿と思われる歩道のベンチで大部屋俳優のおじさんに声をかけられたり、池袋の公園のベンチで、東京が空襲で焼け野原になったことを語るおばあさんとのやりとりも受け入れようとする主人公の優しさが見える。

ウーバー配達員はきつい仕事だとよく分かるが、作品は悲壮感を前面に出してはいない。
ちょっと稼げると友だちの家の居候をやめてアパホテル(1泊2500円)に移る。そこでアパの社長の元谷芙美子やその夫の書いた刷り物を読み「挨拶は大事なんだよなあ」と受けとめて、配達のたびに挨拶を心掛けたりする。実に素直なのだ。しかし、コロナ禍の中で置き配が大半。ドアが開いても手だけを出して受け取るという今どきのスタイルで、挨拶をしようにもできない。「ウーバーイーツってもっと人と人をつなぐものだと思ってた」と青柳青年は語る。「あの大都会の状況下、さっそうと自転車で配達する姿が、人と人をつなぐヒーローに見えたんです。搾取されている現実も感じましたが、それでも働く人たちにリスペクトしたかった。」。「やりがい」というよりも労働への真摯さがある。

普通の若者の感覚が自然に表現されているし、誕生日にデリヘル嬢をお願いしてみたもののお金が足りなくて。。。、最後はガード下の路上で寝ることになったりと自虐的なコメディにも見える。
作品はセルフドキュメンタリーだが、これは映像版自己エスノグラフィ ともいえるのではないかと考えた。

阿部論文(2005)との比較

阿部真大の論文「バイク便ライダーのエスノグラフィ 」(2005)と比較してみたい。阿部(2005)は、自身が東京大学大学院を休学して自分が好きなバイクでできるバイク便ライダーのバイトに就いた経験をもとに、エスノグラフィーの手法でこの論文(修士論文)を描いている。16年の年月が同じ配達員という仕事の捉え方のどこを変えたのだろうか?
個人事業主としてのライダーの置かれた立場は何ら変わりない。怪我をしても自転車がパンクしても全て自己責任で自己負担だ。労災の保障はない。収入は普通に8時間働いても東京都の最低賃金に満たない。
阿部論文に見られた、バイク好きの青年たちが法令違反ギリギリを追求した運転をすることを極めるようなバイク便ライダーたちの「趣味の労働化」はこの作品には見られない。それは自転車とバイクの違いかもしれない。ウーバーの配達員は自転車を趣味にはしてなく道具と考えている。「電動がいいよ」と仕事の効率性を高めるために仲間と語る場面はあるが、趣味としてのこだわりではない。

また阿部論文の歩合給バイク便ライダーたちは、普通のサラリーマンより稼ぐ「ミリオンライダー」に憧れ、目指している。そのために法令違反ギリギリの走りを極めるのだ。しかし、ウーバー配達員は専業の者もいるというが、月20万~30万円程度だという。走り方の達人を目指すというより、ウーバーのシステムをいかに攻略して多くを稼ぐかを目指しているように見える。まさにゲームなのだ。

阿部論文のもう一つの結論である「仕事のゲーム化」は阿部論文のころよりかなり進んでいる。ウーバーイーツはITの発達によりスマホアプリを使って合理化されたスマートなシステムになっている。なかでも”ボーナス”がつく「クエスト」というシステムが際立っている。3日で70件の配達をこなすと体はボロボロになるが報酬が割高になるのだ。スマホゲームをやるのが当たり前になった現代、仕事のゲーム性はますます高くなっている。ゲームをクリアした「達成感」という「アメ」に中毒になってしまうのではないかと思われる。ゲーム中毒と同じだし、それを利用したシステムともいえる。青柳さんもウーバーゲームシステムを探究して「攻略」したいと考えていた。ウーバーが料金システムを変更し、どういう配達を行うといくらになるかが不明瞭になったことに対し、不満を持っているとインタビューで語っている。料金システムが明快でないと攻略作戦が立てにくいからだが、それ自体既に会社が仕組んだゲーム性にはまっている証しだといえる。

本田由紀は『軋む社会』(2011)で阿部論文のバイク便ライダーを例に挙げて「やりがい搾取」という言葉を生み出した。しかし私にはウーバー配達員は「やりがい」を搾取されているようには見えなかった。彼らは仕事にやりがいを感じているとは思えないからだ。それは趣味の労働化ではないからだ。彼らはやりがいではなく、ひたすら生活のために「稼ぐ」ことだけを目的としているように見えた。加えてゲームの中毒性である。ゲーム性に踊らされていると考えれば、「やりがい」ではなく巧みなシステムに搾取されているといえる。

青柳さんは、インタビュー記事でウーバーの働き方の自由さを語っている。「いつでもどこでもどのタイミングでも」働けるという制約のなさだ。隙間時間を使ってできる仕事なのだ。青柳監督自身も映画を撮るという”本職”を持っているので正社員として被雇用者になるつもりはないようだ。制約なく金を稼ぐ副業として、ウーバーイーツは最適なのだ。
それにウーバーイーツ・ユニオンができたら、「『ユニオンのヤツら、何勝手に言ってるんだ。そんなこと言ってたら、雇用化の流れが進んじゃうじゃねえか』とか、『服装自由とかクエストとかUberの面白さがなくなっちゃうじゃねえか』っていう声が配達員側から出てるんですよ。『自己責任でいいじゃねえか!』『それよりも俺たちに自由を!』って。そういった意見に共感してしまう自分もいますが。。。」なのだそうだ(月刊スパ2021.10.30 https://nikkan-spa.jp/1789000/2)。青柳さんもウーバー以外のバイトはやりたくないという。はたしてこれをどう捉えるべきか。ニーズのある働き方なのか、ウーバーゲーム中毒患者のわめきなのか。

阿部論文のバイク便ライダーと異なるもう一つの点は、ウーバー配達員は出勤するオフィスがなく指示をする上司がいないということだ。ウーバーイーツの配達員登録をスマホでやる場面が出てくる。配達の指示はなく、アプリで近くに配達の案件があると知らせが表示されると自分で拾うシステムだ。つまり配達員が相手にしているのは、会社のAIなのだ。阿部論文ではオフィスで仲間と談笑する場面があるが、ウーバー配達員にはそれがない。もちろん他の配達員と知り合いになることはあるが、望まなければ人間関係を作らずにひとり孤独に仕事をすることができる。他の配達員がどのようなやり方をしているか、どれくらい稼いでいるか、といった情報はネットやSNSから得るらしい。
青柳さんは「ひとりでできる仕事なので、そのことに救われている人、助けられている人も多いんじゃないかと思います。実際、引きこもりから卒業できた人もいるそうです。」ともいう。人間関係が苦手な引きこもりの人には向いているのかもしれない。

そして青柳さんは「帰ろうとしたら(呼び出し音が)『鳴る』ことも演出のひとつと言えるかもしれません。注文の音が鳴るとボタンを押したくなってしまうんです。雨の日にはひっきりなしに鳴ります。その時に自分が求められているという多幸感があるんですね。」(講談社 FRaU(フラウ)2021.07.10 https://gendai.ismedia.jp/articles/-/85081?imp=0)とも語っている。これは「やりがい」というよりむしろ承認欲求に近いのではないだろうか。
人との関わりが苦手なのに自分の存在感を認識したいという想い、そんなものを満足させてくれる働き方なのかもしれない。それに働き方の自由度が加わるのだ。だから副業したい人や明日の食い扶持を稼ぐ必要のある人たちからのニーズがあるのだろう。これが阿部論文(2005)の頃との違いである。ゲーム性が増しているのは気がかりだ。ウーバー配達員の場合、既にゲーム性から中毒性の段階へ行入り込んでいるのではないだろうか。

ウーバーイーツ的働き方で社会の未来はどうなる

濱口桂一郎氏(独立行政法人労働政策研究・研修機構所長)はウーバーイーツ配達員の働き方を「タスク型就労」だという。個人事業主であるため、「雇用」ではない。つまり配達員はジョブを切り分けた配達という「タスク」を請け負っているということだ。
情報通信技術が大幅に進歩して、AIで誰にどのタスクをやらせるかを割り振れる時代になった。ウーバー配達員のような労働を「プラットフォーム型労働」というのは、人間がいちいち指揮命令せずに、タスク単位でコントロールする仕組みだから。産業革命以前の職人や日雇いの請け負い労働と同じカタチだそうな。

濱口氏は、「今後、会社で働く労働者の行動を全部AIが指示できるとすれば、大激変になります。まとまったジョブをやるという雇用契約で安定した生活を送れたのが、バラバラのタスクになってしまいます。」「今はウーバーイーツの話だけれど、AIが個々の労働者のタスクの指揮命令をすることになると、中・長期的なジョブという契約に立脚して成り立っている社会は崩れるのではないでしょうか。」(弁護士ドットコムニュース2021.10.17 https://www.bengo4.com/c_5/n_13676/)と語っている。
一部のハイエンドはジョブ型雇用でキラキラ働き、圧倒的多数のローエンドは産業革命以前のウーバー的働き方で、明日を食べるためだけにAIに指示されて「ゲーム」に踊らされて、やりがいもなく必死で日銭を稼ぐ社会になるのだろうか?

青柳青年が大阪からウーバー配達員をやるために上京してきた外国人と思われる2~3人のグループから声をかけられるシーンがある。「だれでも、どこでも」働ける仕事であることがよく分かる。そしてコロナ禍で職を失った人たちがたどり着く受け皿にもなっているのだ。

多様な働き方はあってもよいし、今の社会のニーズに応える働き方や最新の通信技術やAIを駆使した働き方の変容があるのも悪くない。複数の仕事を持ちながら自分のやりたいことと生活の両方を維持する生き方は、これからのキャリアのあり方の一つになっていくだろう。一つの会社に雇用されてそこでやりがいと生活の安定を付与され、満足のいく人生を送れる人はそれでいいが、そうした例はほんの一握りだ。多くは自分らしさを打ち消して働き安定を得ている。
しかしこのままハイクラスとロークラスが分離していく社会にはしたくはない。今の流れはその方向へ進んでいる。
私はウーバーイーツに代表される「タスク型就労」を考える場合、働き方+キャリア形成の問題と労働問題を分けて考えるべきだと思っている。つまり「タスク型就労」は社会ニーズに対してあってもいい就労形態であり、複数の仕事を持ちながら生活とやりたいことのキャリア形成を維持する生き方だと思う。労働のゲーム性も中毒にならない程度なら悪くはない。解決すべきなのは賃金の低さや労災等の補償という労働問題の方ではないかと考える。コロナ禍でエッセンシャルワークとして生活維持になくてはならないサービス業がクローズアップされたが、そうしたサービスの対価としての賃金が低すぎる。ウーバー配達員もまたエッセンシャルワークの一つともいえるだろう。タピオカ一つを雨の中必死で届けるシーンをみると、こんな料金でいいの?と疑問に思わざるを得ない。

映画のなかで青柳青年が語る「焼け野原」となった東京と豊かな自然のある山梨のシーンが対比される。山梨にはウーバーイーツはなく、そうした労働労働によるハイエンドとローエンドの「分離」がないからだ。
コロナ禍で行き過ぎた資本主義の将来の姿が浮き彫りになった。この映画はその姿を映像でリアルに描いている。便利さと自由に麻痺して見えなかったものが見えるようになった。このまま進んでいいの?ほんとにいいの?と映画に問いかけられているように思えた。
今の時点で行き過ぎた資本主義の歪んだ社会に気づいて流れを変えれば、将来は違う社会にできるかもしれない。

ラストシーン

ラストシーンは、政治へものを申したいのか?と思わせる。
このような過酷な労働を選択せざるを得ないのは果たして「自己責任」なのか。青柳青年がたどり着いたのは、自己責任だけでないはず、だから「政治に関心を持とう」ということのようだ。いや今まで政治に関心を持ってこなかった自分を変えようというという決意なのかもしれない。

青柳さんはインタビューで、ウーバーの働き方は「空き時間利用できる自由さ」が魅力だが長続きするものではないとも語っている。自身の中毒性を理解しながらも一歩引いた見方をしている。つまり、自己エスノグラフィーの描き方だ。夢中になって「クエスト」に挑み自転車を漕ぐ自分と、それを眺めるもう一人の冷静な自分がいる。ラストシーンは、自分を眺める青柳監督が演出して撮ったようだ。「政治に関心を持とう!」がこの映画版自己エスノグラフィーの結論なのだ。

最後に、この作品はコロナ禍で緊急事態宣言下の2020年4月~6月の首都東京の風景を映像として残したという点でも価値があるのではないかということを付け加えておく。

<参考文献>
阿部真大(2005)「バイク便ライダーのエスノグラフィー――危険労働にはまる若者たち」、『ソシオロゴス』29号
阿部真大(2006)『搾取される若者たち――バイク便ライダーは見た!』集英社新書
本田由紀(2011)『軋む社会 教育・仕事・若者の現在』河出文庫




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