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56年間で一番怖くて不安な1月~令和6年能登半島地震

先日初めて防災リュックを準備した。
完ぺきではないけれども、防災士のYouTubeをみながら準備してみた。
マンションで住み続けないといけないことを想定し、断水の場合のゴミ袋とペット用トイレシートでの即席トイレの準備もした。
準備しながら思った。
その時、3匹いる猫たちのことどうしよう?
連れて出るには3匹もいる。
黒猫は極度の怖がりで多分大暴れして抱かせてもくれないだろう。この子たちを置いていく?トイレマットをリビング中に敷き詰めカリカリの餌と水を鍋やボールにあるだけ入れて置いていく?
それをやっている余裕があるのだろうか?

いや、一緒に運命を共にするつもりでマンションに残る?
いざという時自分はどういう行動をとるのだろう。
想像するだけで悲しくなってきた。

元旦だから災害は起きない


元旦だから災害は起きないと思っていた。
多分大概の日本人ならそう思っていたに違いない。

今年の元旦も
SNSではあけましておめでとうとともに、美しいお節料や、初もうでの様子がアップされていたし、例年と同じ穏やかな元旦を過ごし、そうやって終わっていくと思っていた。

私は今年は友人の貸別荘にお呼ばれしていた。
11月の終わりごろだったかに決まり心待ちにしていた。
15時にチェックインしたら、夕飯までお酒やおつまみをつまみながら過ごそうと思って、準備したお節料理をとりわけ、いつもは買わないチーズと、缶ビールなどをかごにいっぱい入れて準備していた。

予定通りに行動していたら?

本当は13時すぎに家を出る予定だった。
その日夜勤と思っていた息子が日勤であったことがわかり、それでも大みそかは夜更かししたので、朝起きて長男とお節を広げ例年通り「明けましておめでとう」とあいさつを交わし、お雑煮を食べた。いつもなら次男家族が来ていたはずなのだが私が遊びに行くと言ったので2日の夜に来ることになりいなかった。
お節を食べ終わったのが9時頃だったか。

出発まで少し時間があるからちょっと寝ておこうとコタツでうとうとし、目が覚めると11時ごろだったと思う。
もうやることもないしと友人に予定よりも早く体が空いたと電話を入れた。
それなら早めにでようということになり、予定より1時間ほど早く出発となった。

チェックインは15時だから早すぎるかもしれないしどこかでお茶でもと言いながら、その日は元旦、やっているところも少なく、ナビを見たら15時ちょっと前に到着予定と出るので、それならこのまま行ってしまおうと、いつも寄っていた海沿いのカフェも通り過ぎ、14時50分ごろ到着しそのままその日過ごす部屋に入り荷物を広げてくつろぐ準備を始めていた。

北陸自動車道を南下し、福井で下道に入り、海沿いの道を走り、越前海岸が見下ろせる崖の上にある貸別荘で心待ちにしていた宴が始まった。

1時間が経った頃、友人は自分たちの建物の目の前の露天風呂の様子を見に行った。私はトイレに入って手を洗いドアを開けようとしたときだった、スマホがけたたましくなった。「あ、地震がくる?」と思ったすぐに、ぐらっと一瞬動き、その数秒後いや数分後だったかに立っていられないくらいの揺れが襲って、ついていたテレビから緊迫したアナウンスが流れてきた。
「命を守る行動をしてください」
「津波が来ます。東日本大震災のような津波が来ます」
ヘルメットをかぶったアナウンサーが繰り返していた。

ほどなくして震源が能登とわかり、息子たちの安否が気になった。ところが何から考えていいのか頭がパニックになっていた。長男から本棚が倒れぐちゃぐちゃになった部屋の様子がLINEで送られてきた。次男から「おかん、もう福井についてるんか?大丈夫か?」と連絡が入った。
次男の電話の後、長男に電話をしたがさすがの長男もパニックなって「部屋からでれないかもしれん。でも体は大丈夫や」と言っていたが、そのあと、リビングにいた猫たちが気になって何とか部屋から出て各部屋のチェック状況を送ってくれた。
連絡がつかない三男は、その時クリーンルームが汚染された可能性があるからと身一つで寒い廊下で待機させられていたそうだ。半導体を製造する精密大型機械のメンテナンスを行う三男。狭い機械の間で作業をしている話をいつも聞いていたので連絡が取れるまで生きた心地がしなかった。

テレビからは陥没やひび割れた道路があって危険なこと。
高速道路が閉鎖されたこと。
そして、津波警報。
越前海岸が目の前にいたけれども、とりあえず高台。
「帰ろうか?」
との話も出たけれども、もうすでに外は真っ暗で危険だと判断し、翌朝朝食をとってから帰ると決め、その日は予約してあったフレンチをいただき、遠くに鳴り響く津波のサイレンを聞きながら眠ることとなった。

福井県越前産本日の鮮魚旬の三国産野菜と供に。
いつも通り穏やかにテーブルを回っていた岩崎シェフのおかげで
気持ちの落ち着きを取り戻すことができました。

翌朝、家族に連絡を取るとすでにコンビニには水やパン、カップラーメンなどが売り切れていること、した道もところどころひび割れや陥没が起こっている情報が入ってきた。

帰り道に1月2日から空いているドラックストアがあるというので、水や食料を車に積めるだけ買って下道を帰ってきた。
金沢には何事もなく到着し、自宅マンションで降ろしてもらい、友人夫婦は一度家に戻って着替えてから能登の実家の様子を見に行くと別れた。

1月2日空は何事もなかったかのように晴れ渡っていた。
本来なら初詣日和になったはず。

自宅マンションのエレベーターは地震の後止まっていて、昨日飲むどころではなかったビールや食べ物の入ったかごと、泊る用の荷物を抱え10階まで階段を使ってあがった。
とにかく家の中が心配だったので、息は切れたけれども上がり切り、玄関を恐る恐るあけた。


玄関には割れた植木鉢が2重に袋に入れておいてあった。
リビングは倒れたものなどがすでに脇に寄せられ、テーブルの上には三男が仕事帰りに調達したお菓子やカップラーメンが積まれていた。
キッチンにはアルミホイルに包んだおにぎりが数個おいてあった。三男が気を利かせて夜中に大まかに片づけをしながらご飯を炊いて握っておいたらしい。後で聞くと仕事にも持って行ったらしい。

冷蔵庫が20㎝ほど前に出ていたが、カウンターの上にのっていた電子レンジは落ちなかったらしい。
茶碗類、調味料はまったく無傷。
洗濯機が底上げしていた台からずり落ちていた。

長男の部屋が一番ひどく、本棚が倒れ、大きなパソコン本体が飛んだらしいが、本人はベッドの上で寝ていてそれらの影響を受ける位置にいなかったらしい。

仕事部屋は思ったほどではなかった。
年末に急に仕事部屋の模様替えを思い立ち、胸の高さの棚の上にあったパソコン本体を足元に移動していたため、パソコンは無事だった。

もし、模様替えをしていなかったらパソコン本体は棚から落ち
その前にあったモニターを直撃しモニターも壊れていたと思う。

銀猫はキッチンの隅で壁に向かって座り一晩中動かなかったようだ。
怖がりの黒猫も椅子の下でうずくまっていたそう。
三毛は比較的普通にリビングを歩き回っていたそうだが、落ち着きはなかったらしい。
私が帰ると安心したように寄ってきた。

猫たちは地震後もびくびくと震えていて、なぜか、洗濯機横の棚の一番上で一日を過ごしていた。
そういえば、オープンラックのその棚のものは何一つ落ちていなかった。猫は安全な場所だと察知したのかもしれない。

正月ということもあり、食料のストックはいつもよりあったし、電気も、水道もガスも使えたので2日に後片付けを終わらせ後は普通に暮らすことができた。
頻繁に起こる余震のたびに体が硬直し辛い日が続いたけれども、いつもと同じように暮らせること以外望むことはなかった。

価値観を改めて考えてみる

息子たちと、猫たちと
今日一日無事に過ごすこと。
過ごせたこと。
それが、何よりも望むことなのだと
今一番思う。
もしもの時、今回のように家族がバラバラでいることの怖さを知ったが、大概はバラバラでいることの方があたりまえで。
ただ、現代スマートフォンがあるおかげで、そして、ギリギリそれが使えているおかげで連絡がとりあえる素晴らしき時代に生きているコト。
日々目に見えるもの、触れるものはありがたさであふれているということ。ありがたきことであって、当たり前ではないということ。
何を感じてどう生きるか。

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