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魏志倭人伝を勝手に読む

 魏志倭人伝の魏志は、中国の歴史書「三国志」のうちの魏の国に関する史実を記した部分の通称を指し、その三国志(魏書・呉書・蜀書)は晋の陳寿により著作されています。また、原本として扱われるものが南宋紹熙刊本です。そこでの文章は句読点などを持たない1行19文字で連続して表記します。そのため、日本で紹介される日本式白文漢文とは違う漢文章です。末文に案を載せていますので参照ください。
 加えて注意が必要なのは、魏志倭人伝は邪馬壹國女王の許への旅行記ではありません。あくまでも魏国に保管されていた倭人に関わる資料を取りまとめたものですので、著作者である魏国の次の時代の晋国の時代の陳寿が倭人を知っていないとか、邪馬壹國を訪問していないと言う指摘や議論はその人が中国の歴史書とは何かを知らないことを自慢するようなものです。魏志倭人伝とは魏国に保管されていた倭人に関わる資料を取りまとめたものです。また、魏書からすると魏国と邪馬壹國とは中華思想による冊封関係を持ちますから、古代の交通困難な時代にあっても相当数の相互に交通した実態があります。単発的な一度二度程度の交流ではありません。
 もう一つ理解しないといけないのは、公式の使者が相手国を訪問する場合、使者の訪問日程と実移動日程とは一致しません。相手の国に入国すると、そこで到着の報告を行い、相手国の承認を得てから相手国内の移動を行い王都に到着します。日本訪問では海上移動から陸上移動への荷物の積み替えなどの日数も考慮する必要があります。旅程をただちに距離に換算は出来ないことを理解する必要があります。つまり、朝鮮半島の魏国帯方郡の郡庁から邪馬壹國までの役人の標準旅程は「都水行十日陸行一月」ですが、推定の距離は「自郡至女王國萬二千餘里」であることを理解し、これがただちに標準旅程を換算式で距離に置き換わるかどうかは保証されないのです。
 魏志倭人伝では魏国帯方郡の郡庁から狗邪韓國:七千餘里、對海國:千餘里、一大國:千餘里、末盧國:千餘里の海上移動と、その末盧國から伊都國:五百里、奴國:百里、不彌國:百里の陸上(+内水)移動を明記しています。「自郡至女王國萬二千餘里」からすると、不彌國から邪馬壹國までは単純計算では千三百里になります。ただ、陸上や内水を行くのに不彌國から邪馬壹國の間に目ぼしい集落が全くに無いとは考えにくいために、「萬二千餘里」対して帯方郡から末盧國までのそれぞれの「餘里」を考慮すると、餘里が百五十~二百里ほどもあるのなら、不彌國から邪馬壹國まではおよそ五百里になります。この考えの背景に、後段に置かれた「南至投馬國水行二十日・・・南至邪馬壹國女王之所都水行十日陸行一月」の文章を、魏国帯方郡の郡庁から投馬國に至るには水行二十日、また、邪馬壹國の女王の都のところに至るには水行十日陸行一月の旅程であると、並立的に読む可能性が否定できないのです。この可能性では九州北部から内陸を千三百里も南に進むと水行二十日の地域と重なる可能性が出て来ますし、また、日本の山がちな地形を踏まえた古代の陸上道路事情からすると千三百里も内陸を行くのは合理性がありません。また、末盧國(松浦)から伊都國(糸島)の間は五百里ですが、ほぼ、松浦湾を渡り、名場越で山を越えて唐津に出て唐津湾を糸島に渡る順路でしょう。内水路と陸路との複合ですが大船を使うほどの距離ではありません。
 ここで、魏志倭人伝の読み方で昔から指摘されていることで、比定する地域と海上移動距離から倭人伝の1里は魏朝時代の短里であり、だいたい80m弱ではないかと考えます。帯方郡(ソウル付近)から狗邪韓(プサン付近)までの海上距離が約600kmなので七千餘里の約560kmは誤差の範囲でしょう。また、狗邪韓(プサン付近)と對海國(浅茅湾)とが約90km、對海國(浅茅湾)と一大國とが約90kmも誤差の範囲です。
 倭人伝で距離が明記されている最後の地点である不彌國は不弥国です。また、不彌國から邪馬壹國までの距離は不記です。ただ、不彌國は不弥国であり現在の福岡県糟屋郡宇美町付近ではないかと考えますと、先の距離計算からすると邪馬壹國はこの不弥国:福岡県糟屋郡宇美町付近からおよそ五百里、40kmの地点にあることになります。可能性で山越えを勘案して飯塚・田川方面です。
 ちょっと、話題を転じて、卑彌呼の時代となる弥生時代後期から末期、熊本の菊池川/白川流域は当時の日本では最大級の製鉄地帯です。朝鮮半島から鉄片を輸入しての加工ではなく、鉄鉱石からの製錬された鉄の生産です。その原料は阿蘇黄土と称される阿蘇カルデラ内に形成された褐鉄鉱が浸食・流され河口付近で堆積して生まれた褐鉄鉱です。この褐鉄鉱を用いた製鉄では摂氏400~600℃と言う極低温となる温度領域での製鉄が可能です。この種の褐鉄鉱は地域によっては葦などに付着して高師小僧とか、パイプ・ベンガラとも呼ばれることがあります。また、阿蘇黄土は焼結後に粉砕すると鉄丹:ベンガラになり、これは邪馬壹國の特産品である朱丹です。
 なぜ、この話題を提供したかと言うと、卑彌呼の時代では魏国は中国の山東半島と朝鮮半島の帯方郡とを結ぶ渤海湾横断の海上ルートを持っており、この海上ルートを航行する帆走大型船なら朝鮮半島の帯方郡から倭国の末盧國まで、現代ですと仁川、群山、木浦、釜山、対馬、壱岐、松浦と経由しても、順風なら5日程度、風待ちをしても10日程度で航海が可能です。その松浦から反時計周りに平戸、西海、長崎、天草、島原、熊本/玉名ですと、難所の多い航路ですが風待ちをしても10日程度で航海が可能です。つまり、帯方郡から南方水行20日の位置に熊本/玉名が位置します。
 卑彌呼の邪馬壹國連合国の人口第二の製鉄拠点が投馬國であり、それが熊本の菊池川/白川流域にあったとしますと、魏国が邪馬壹國連合国の鉄鏃などの兵器製造能力や武装に興味があるのなら魏国の武人が訪れても不思議では有りませんし、そこから帯方郡庁までの時間距離は非常に重要な情報です。先に説明しましたが、「南至投馬國水行二十日・・・南至邪馬壹國女王之所都水行十日陸行一月」の文章を、魏国帯方郡の郡庁から投馬國に至るには水行二十日、邪馬壹國の女王の所都のところに至るには水行十日陸行一月の旅程であると並立的に読む可能性です。参考として投馬は古語中国語ではdu-mma「づむ/どむ」と読み、この読みに関して熊本の玉名地方の菊池川流域西岸に古代では交通の要所だった大水(おほ-つむ)と言う古代地名があります。その対岸にあるのが有名な江田船山古墳ですので、古代では相当な勢力が盤踞した地域です。つまり、この地域を投馬國と比定しても、その重要な条件である五萬餘戶の人口を満たすことは可能ですし、魏国帯方郡の郡庁から見て南に位置します。
 話題を戻して、一般に邪馬壹國への道中の奴國とは奈良時代の儺県(なのあがた)、現在の福岡市・春日市・那賀川市付近の那賀川西岸地域であろうと考えられています。奴國の比定地としてその条件である二萬餘戶の地域としても油山丘陵東側の地域はそれにふさわしいと思います。推定でこの奴國から見て東側に位置する那賀川対岸の大原山と三郡山とに挟まれた山麓入り口部に不彌國があったと思われます。つまり、飯塚・田川方面の入り口です。
 これを踏まえると、奴國と不彌國とを結ぶラインである那賀川の上流域が「此女王境界所」と推定が可能となります。他方、私の推測で人口五萬餘戶の投馬國が有明海の熊本/玉名にあったとしますと、人口七萬餘戶の邪馬壹國、人口五萬餘戶の投馬國、人口二萬餘戶の奴國の連合軍に対抗でき、また、奴國と不彌國とを結ぶラインの南に狗奴國が位置するとしますと、そう、あの吉野ケ里遺跡が狗奴國だったのではないかとなります。
 実にアハハの推論ですが、非常に都合の良いことには吉野ケ里遺跡は卑彌呼の次の時代の女王の壹與の時代となる魏国正始年間(西暦250年)頃に、いきなり、滅亡・消滅するのです。狗奴國が吉野ケ里遺跡にあり、壹與女王の邪馬壹國連合軍に負けたとすると、時代と歴史がぴったりと重なるのです。おまけで、吉野ケ里遺跡の地は古代地名では神崎郡で、その神崎郡には元告と言う里があります。この元告は「もとおり」と読みますが、私の酷い妄想から元告を「元の告」とすると、「告(こく)」は「狗奴(こぬ/この)」の訛とも考えられます。吉野ケ里遺跡はその遺跡群から前史の長い歴史を持つ大規模なのですが、壹與の時代に、突然、消滅するという非常に私の妄想には都合がいいのです。
 小話として、魏国から晋国時代の漢字「次」には「次,舍也。又處也。」の意味がありますので物事の順番を示すとは決めつけることが出来ません。一方で「又」の漢字には「又,猶更也。」の意味がありますので、地理の内容での列記では地理上の順番を示します。現代日本語漢字での意味合いと魏国から晋国時代の『説文解字』で扱う時代の漢字の意味合いが違うことを理解する必要があります。つまり、「次有斯馬國次有已百支國次有伊邪國次有都支國次有彌奴國次有好古都國次有不呼國次有姐奴國次有對蘇國次有蘇奴國次有呼邑國次有華奴蘇奴國次有鬼國次有為吾國次有鬼奴國次有邪馬國次有躬臣國次有巴利國次有支惟國次有烏奴國次有奴國」の「次有斯馬國」での「次」は「又處也」であり、「斯馬國なる処が有る」と解釈すべきとなります。標準的な「次に斯馬国が有る。」と比べると、現代日本語からすると「次」の文字が順番の意味を持たないのなら微妙に解釈での意味合いが変わります。
 また、「官有伊支馬次曰彌馬升次曰彌馬獲支次曰奴佳鞮」の文章で、「官有伊支馬」は「官庁として伊支馬は有る」ですし、「次曰彌馬升」は「官舎を彌馬升と言う」です。人名では無いことになります。つまり、邪馬壹國には役所が4種類に区分され運営されていたことになります。そこが投馬國の「官曰彌彌副曰彌彌那利」の「長官を彌彌と言い、副官を彌彌那利と言う」との違いです。
 雑談の追加で、「女王國東渡海千餘里復有國皆倭種又有侏儒國在其南人長三四尺去女王四千餘里又有裸國黑齒國復在其東南船行一年可至」、「参問倭地絕在海中洲島之上或絕或連周旋可五千餘里。」とあります。邪馬壹國が田川方面にあり、豊前の苅田・行橋から東に千餘里ですと周防地域です。この地域の人々は邪馬壹國の人々と同じ体形であり言葉を使う倭種です。さらに東に四千餘里ほど進むと大阪湾に行き着き、そこは侏儒國で神武東征での土蜘蛛と呼ばれる体の小さな人たちが住む地域です。
 その紀伊半島から東南の海上を1年ほど行くと別の裸國や黑齒國が有るとします。奈良時代ですが南西諸島は奈良の平城京や大宰府に朝貢の形で貿易関係を持ち、また、弥生時代には既に九州や南西諸島の支配者はゴホウラ・イモガイ等の奄美群島以南に生息する南海産大型巻貝類を素材とする装身具を身に付けます。およそ、紀伊半島から四国、その四国から南九州に、さらに南西諸島に連絡するとその先となる台湾やフィリピンへの交通はあるのです。
 魏志倭人伝からしますと、魏国帯方郡の役人の認識では、倭人の住む地域の範囲は九州北部から瀬戸内海・大阪湾沿岸までの可能性があります。その時代、吉備地方や畿内地方に邪馬壹國に対抗するほどの大きな勢力があったとの認識はないようです。瀬戸内海から大阪湾沿岸までの地域は、まだ、アメリカ独立戦争前に似た神武東征の前の大和の郷々の世界です。ちなみにアメリカは1720年代から英国による植民地化が進み1776年に英国軍に勝ってのアメリカ独立宣言です。ここからすると植民から2世代程度で本国を凌駕する可能性はあるのです。倭の五王の中華への歴史登場は永初2年(421)ですから十分に時代は有りますし、有名な箸墓古墳の築造時期については奈良県立橿原考古学研究所が行った炭素14年代測定法によるものでは紀元280~300年(±10~20年)と推定しています。神武東征が卑彌呼の時代前後の大乱を契機にするなら、十分に時間は有ります。
 実にアハハの妄想の魏志倭人伝の勝手読みです。なお、「南至投馬國水行二十日・・・南至邪馬壹國女王之所都水行十日陸行一月」の一文を並立で読むのは私の独創ではありません。これは“季刊「古代史ネット」第2号、特集「水行十日陸行一月」をめぐって、塩田泰弘”からのパクリです。このように引用先を示しましたから、この文章はパクリだと追及しないようにお願いします。

中國哲學書電子化計劃より引用
《倭人傳》の恣意的な表記に変更したもの。
倭人在帶方東南大海之中依山島為國邑舊百
餘國漢時有朝見者今使譯所通三十國從郡至
倭循海岸水行歷韓國乍南乍東到其北岸狗邪
韓國七千餘里
始度一海千餘里至對海國其大官曰卑狗副曰
卑奴母離所居絕島方可四百餘里土地山險多
深林道路如禽鹿徑有千餘戶無良田食海物自
活乖船南北巿糴又南渡一海千餘里名曰瀚海
至一大國官亦曰卑狗副曰卑奴母離方可三百
里多竹木叢林有三千許家差有田地耕田猶不
足食亦南北巿糴又渡一海千餘里至末盧國有
四千餘戶濵山海居草木茂盛行不見前人好捕
魚鰒水無深淺皆沉沒取之東南陸行五百里到
伊都國官曰爾支副曰泄謨觚柄渠觚有千餘戶
世有王皆統屬女王國郡使往來常所駐東南至
奴國百里官曰兕馬觚副曰卑奴母離有二萬餘
戶東行至不彌國百里官曰多模副曰卑奴母離
有千餘家
南至投馬國水行二十日官曰彌彌副曰彌彌那
利可五萬餘戶
南至邪馬壹國女王之所都水行十日陸行一月
官有伊支馬次曰彌馬升次曰彌馬獲支次曰奴
佳鞮可七萬餘戶自女王國以北其戶數道里可
得略載
其餘旁國遠絕不可得詳次有斯馬國次有已百
支國次有伊邪國次有都支國次有彌奴國次有
好古都國次有不呼國次有姐奴國次有對蘇國
次有蘇奴國次有呼邑國次有華奴蘇奴國次有
鬼國次有為吾國次有鬼奴國次有邪馬國次有
躬臣國次有巴利國次有支惟國次有烏奴國次
有奴國此女王境界所盡其南有狗奴國男子為
王其官有狗古智卑狗不屬女王自郡至女王國
萬二千餘里。


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