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あるいは際どく、中国俗習から

 今回は万葉集の巻六に載る集歌984の歌を鑑賞します。ただし、最初は真面目に鑑賞したものを紹介します。題名にあります「あるいは際どく」は後ほどにその解釈を紹介致します。
 では真面目の方をどうぞ。

標題 豊前娘子月謌一首  娘子字曰大宅。姓氏未詳也
標訓 豊前の娘子の月の謌一首  娘子は字(あざな)を大宅(おほやけ)と曰ふ。姓氏は未だ詳(つばひ)かならず。
集歌984
原文 雲隠 去方乎無跡 吾戀 月哉君之 欲見為流
訓読 雲隠り行方を無みと吾が恋ふる月をや君し見まく欲りする
私訳 雲に隠れ行方が判らないと私が心配する、その七夕の月を、貴方は見たいとお望みになる。

  万葉集巻六に載るこの歌は「月」と云うテーマで編集された作品群の中に含まれるものであって、安倍朝臣蟲麿が詠う集歌980の月謌一首から、大伴坂上郎女が詠う月謌三首を経て、この豊前娘子が詠う月謌一首にたどり着き、さらに湯原王が詠う月謌二首でもって、「月」と云うテーマの歌は閉じます。しかしながら、これらの歌は「月」と云う部立のものではありませんから、見方によっては安倍朝臣蟲麿の歌以下、湯原王の歌までの七首がある月見の宴会で詠われた歌ではないかと云う考え方も存在します。少なくとも伊藤博氏はその著書『萬葉集釋注』では安倍朝臣蟲麿と大伴坂上郎女とは同じ宴会に出席していたのであろうとしています。
 他方、伊藤博氏はその『萬葉集釋注』で豊前娘子が詠う月謌一首の解釈が難しいとしてどのような場で詠われたものかの判断を保留されています。真面目の方の解釈をすでに紹介しましたが、ここで伊藤博氏の解釈も紹介します。

集歌984
原文 雲隠 去方乎無跡 吾戀 月哉君之 欲見為流
訓読 雲隠りゆくへをなみと我が恋ふる月をや君が見まく欲りする
意訳 雲に隠れてゆくえがわからないので、私が見たいと心引かれる月(あなた)なのに、その月(あなた)をあなたが見たいとおっしゃるのですか。しかしそれは納得がゆきません。

 はい。実に大変で苦心された解釈です。
 そこで伊藤氏は各種の文献を検討し、同じ豊前娘子が詠う月に関係する歌、集歌709の歌をも検討した上で別の解釈を紹介しています。

集歌709
原文 夕闇者 路多豆頭四 待月而 行吾背子 其間尓母将見
訓読 夕闇は路たづとほし月待ちて行ませ吾が背子その間(ほ)にも見む
私訳 夕闇は道が薄暗くておぼつかなく不安です。月が出るのを待って帰って行きなさい。私の愛しい貴方。その月が出る間も貴方と一緒にいられる。

 巻四の集歌709の歌を前提とした時の伊藤氏の集歌984の歌に対する別解釈。

訓読 雲隠りゆくへをなみと我が恋ふる月をや君が見まく欲りする
意訳 雲に隠れてゆくえがわからないので、私が恋しく思っている月を、あなたも見たいと思っておられるのではないですか。

 真面目の方の解釈は七夕の宴会を想定しましたから月は月齢七日の三日月です。一方、伊藤博氏の別解釈での月は宴会で眺めるはずの月ですから月齢は七日から二十三日位の幅があります。その感覚の差はありますが解釈のベクトルは同じではないでしょうか。
 さて、ここからは大人の詩歌の鑑賞の時間です。「従いまして、国文学を専門とするような御方には向きませんので、よろしく、お願い致します」と云うバカ話はさておきとして、中国の俗習に「照月得子」と云うものがあります。これはおおむね現在の浙江省、寧波市を中心とする地域で特に信じられているものです。内容としましては、インターネット解説では照月得子伝説によると中秋節の夜、不妊に悩む婦女は月が中天に達した際に一人中庭に座り月の光を浴びると程なく妊娠することができるという」とあります。この浙江省を中心とする俗習である「照月得子」と似たものとして「中秋喜孕」と云う言葉があり、これは現在の中国では広く使われる言葉であり、不妊の女性への俗習のようです。
 ここで、「照月得子」の言葉は中国ではこのように解説します。:「浙江一些地方、中秋流行照月得子。久婚不孕婦女、中秋晚上月行中天之際、独自一人静坐于庭院之中、沐浴月光、渇望月宮仙女洒下的甘露使她受孕。」 他にも、宋代の「後山叢談」では、「地上の兎はすべて雌で、月の兎は逆に雄ばかりだから、地上の雌兎は月光をあびて妊娠する」という俗説を載せているそうです。このように中国では古くから中秋の満月と妊娠との俗信は深いものがあります。
 少し脱線しますが、現代中国ではこの「中秋喜孕」と云うことに因んで中秋の満月の当日に妊娠の記念として胎児のエコー撮影や妊婦ヌード撮影を行うようです。日本の犬の日の腹帯と同様な感覚と推測します。ですから、現代もそうですが、中古代の女性にとっては「照月得子」や「中秋喜孕」と云うものは重要で、大切な行事だったのではないでしょうか。それで、中国では今でも中秋節は重要な秋のお祭りです。他方、日本では太古では中秋の満月をお祝いする風習は無かったと思われ、中秋節もまた七夕祭と同じように飛鳥・奈良時代に日本に紹介されたものと思います。
 この話題としています「照月得子」の俗習の中心地とされる浙江省、寧波市は奈良時代から平安時代初期にかけての時代では日本とは重い所縁がある場所で、遣唐使の重要な寄港地であり、また、最澄をはじめとする天台仏教の聖地でもあります。従いまして、この浙江省付近を中心とする俗習や民話が日本に紹介されたとしても不思議ではありません。
 これを踏まえて、もう一度、集歌984の歌を鑑賞してみたいと思います。それに添えて前後となる、安倍朝臣蟲麿、大伴坂上郎女と湯原王が詠う月の歌も紹介します。なお、表記の煩雑さを省くために意訳文は省略します。情景としては安倍蟲麿と大伴坂上郎女とは時雨模様の夕べに山の端に昇る月の出を待っています。そして、山の端の薄雲が月の光で明るく見えるような雰囲気です。
 集歌984の豊前娘子の歌を一つ置いて、集歌986の湯原王の歌は個別に七夕の逢瀬と二十三夜ほどの遅い月の下での逢瀬を詠う感があります。先にも紹介しましたが、このような関係で伊藤博氏は安倍蟲麿と大伴坂上郎女との歌は一つの宴会でのもので、豊前娘子と湯原王とのものは関連性が薄いだろうとの判断です。一方、私は全てが一つの宴会でのものと考えています。

標題 安倍朝臣蟲麿月謌一首
標訓 安倍朝臣蟲麿の月の謌一首
集歌980
原文 雨隠 三笠乃山乎 高御香裳 月乃不出来 夜者更降管
訓読 雨隠(こも)る三笠の山を高みかも月の出で来ぬ夜は降(くた)ちつつ

標題 大伴坂上郎女月謌三首
標訓 大伴坂上郎女の月の謌三首
集歌981
原文 葛高乃 高圓山乎 高弥鴨 出来月乃 遅将光 (葛は、犬+葛)
訓読 猟高(かりたか)の高円山を高みかも出で来る月の遅く光(てる)るらむ

集歌982
原文 烏玉乃 夜霧立而 不清 照有月夜乃 見者悲沙
訓読 ぬばたまの夜霧し立ちておぼろしく照れる月夜の見れば悲しさ

集歌983
原文 山葉 左佐良榎牡子 天原 門度光 見良久之好藻
訓読 山の端のささらえ牡士(をとこ)天つ原門(と)渡る光見らくしよしも
左注 右一首謌、或云月別名曰佐散良衣壮也、縁此辞作此謌。
注訓 右の一首の謌は、或は云はく「月の別(また)の名を『佐散良衣(ささらえ)壮(をとこ)』と曰(い)ふ、此の辞(ことば)に縁(より)て此の謌を作れり」といへり。

標題 豊前娘子月謌一首  娘子字曰大宅。姓氏未詳也
標訓 豊前の娘子の月の謌一首  娘子は字(あざな)を大宅(おほやけ)と曰ふ。姓氏は未だ詳(つばひ)かならず。
集歌984
原文 雲隠 去方乎無跡 吾戀 月哉君之 欲見為流
訓読 雲隠り行方を無みと吾が恋ふる月をや君し見まく欲(ほ)りする

標題 湯原王月謌二首
標訓 湯原王の月の謌二首
集歌985
原文 天尓座 月讀牡子 幣者将為 今夜乃長者 五百夜継許増
訓読 天(あま)に坐(ま)す月読(つくよみ)牡士(をとこ)に幣(まひ)は為む今夜の長さ五百夜(いほよ)継ぎこそ

集歌986
原文 愛也思 不遠里乃 君来跡 大能備尓鴨 月之照有
訓読 愛(は)しきやし間近き里の君来むと大(おほ)のびにかも月し照るたり

 ここで、大人の鑑賞での前提条件を提唱します。安倍蟲麿から湯原王までは一つの観月の宴会の歌であり、その観月は中秋であったとします。ただし、天候は、夕方は夕立などの影響で山の端には雨雲がかかっていますが、夜半にはよく晴れ渡ったと想像します。さらに歌を鑑賞する時に、豊前娘子は湯原王があからさまに好意を寄せた女性とします。
 いきなりの豊前娘子と湯原王との関係に対する仮定のようですが、実は万葉集巻四には湯原王と「ある娘子」との間で男女関係をテーマにした非常にきわどい問答和歌の組歌12首があります。私の個人の感覚で巻四に載るこの「ある娘子」とは、この豊前娘子ではないかと思っています。次に示す12首組歌の中での集歌640では、湯原王は相手の女性を「愛しきやし間近き里」と称し、巻六でも集歌986で湯原王は相手の女性を「愛しきやし間近き里」と称します。歌での女性は虚構の人物でしょうが、それでも虚構をベースとした相聞問答を行った相手は同じ女性と考えています。つまり、巻四の「ある娘子」とは豊前娘子のことです。

標題 湯原王亦贈謌一首
標訓 湯原王のまた贈れる謌一首
集歌640
原文 波之家也思 不遠里乎 雲井尓也 戀管将居 月毛不經國
訓読 はしけやし間近き里を雲井にや恋ひつつ居らむ月も経なくに
私訳 いとしい貴女のいる近くの里を、私は雲居の彼方のように恋い続けているのだろうか。一月と逢うことが絶えてもいないのに。

 すると、集歌980の安倍蟲麿の歌から集歌984の豊前娘子の歌までは十五夜の月が夕立か、何かの雨雲の影響なのか、その月の姿が見えない様子を詠います。この間の五首の歌々の順も内容も筋が通っていることになります。集歌984の豊前娘子が詠う歌のように「観月祭ですから、やはり、貴方が思うように月の姿は見たいですよねって」ことになります。
 ところがところがです。この観月祭に集う人々の間に中国俗習である「照月得子」と云う言葉が浸透していたらどうでしょうか。それも豊前娘子は周知された湯原王の愛人の一人とします。ただし、豊前娘子は標題に紹介されるように字は「大宅(おほやけ)」ですが、時に身分は同音異字となる「公(おほやけ)」だったかもしれません。つまり、官が指定する相手をもてなす遊女(あそびめ)との称されるその種の采女(貢の女性)だったかもしれないのです。好みの女ですが、手の内に囲むという相手ではありません。しかし、宴会の後での夜伽として二人に体の関係が存在しても不思議ではありません。万葉集では大宰府から帰京する大伴旅人を送別する水城での宴に遊行女婦(=遊女)の児島と言う女性が同席しています。時代を考えますと、高級官吏を対象とする采女の身分の遊女と思われます。宴席に集う豊前娘子はこの遊行女婦の児島と似た立場では無いでしょうか。
 そうしたとき、戯言でも「行方を無みと吾が恋ふる月」と若い愛人が云いだせば、それは「私、妊娠しちゃった」と云うことに等しくなります。それに対して「えっ、ほんとに妊娠したの? それって俺の子? だって、お前、遊女だし」て聞き直したとしますと、歌で詠う「月をや君し見まく欲りする」の雰囲気でしょうか。
 しかし、歌の表の顔は違います。雲に隠れて出て来ない月に対して、「観月祭ですよね、やっぱり、月が出て来ないとつまらないですよねっ」と詠ったことになっています。ただ、裏読みすれば、非常に際どい会話です。
 一方、際どく解釈すれば、湯原王は大人です。集歌985の歌を裏読みしますと「それじゃ、今日は特別な中秋の日であるから、そのお前の照月得子のために、お前が満足するまで夜通し、二人でがんばるか」てな調子でもあります。これが、観月の宴で詠われたとしますと、実に際どい歌です。豊前娘子が遊女と云う立場の采女でしたら、宴の後での湯原王への夜伽は規定路線です。宴に参集する人々たちにはそれは当然の理解です。しかし、人々は風流人ですから、つんと澄まして、表歌だけを鑑賞する義務があります。たとえ、目の前で湯原王が豊前娘子を横抱きに抱いていたとしていてもです。
 当然、この解釈では集歌986の歌は宴の御開きの歌となります。そして、これから湯原王と豊前娘子との二人だけの月明かりを浴びながらの閨での宴会が開かれます。
 かように際どく解釈しますと、安倍蟲麿から湯原王までの歌は一つの観月の宴会でのものとつながってきます。ただし、あくまで大人の解釈です。ですから最初に紹介しましたように、「従いまして、国文学を専門とするような御方には向きませんので、よろしく、お願い致します」と云うことになります。
 柿本人麻呂歌集を鑑賞する時、古事記は必須に知るべき教養ですし、中国古典もしかりです。同様に万葉集に載る貴族たちの歌を鑑賞する時、意が取り難い場合は、時に背景に中国古典や俗習があるかもしれません。今回はそのような視点である種の実験として鑑賞をしました。当然、正統ではありません。

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