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大伴家持 ひばりの声 家持の独特な世界観

 五月中旬は野原では雲雀や鶯などの野鳥の季節です。子育てのためか、容易にその鳴き声を聞くことができます。
 ここでは万葉集では非常に珍しい雲雀の歌を眺めてみます。万葉集では雲雀を詠うものは三首しかなく、そのすべてが大伴家持に関係しますし、二首は家持の歌です。紹介の順序は万葉集からすれば逆になりますが、最初に巻二十に載る二首を紹介し、次いで巻十九に載る一首を紹介します。
 
三月三日、檢校防人勅使并兵部使人等、同集飲宴作謌三首
標訓 三月三日に、防人(さきもり)を檢校(けんかう)する勅使(ちよくし)并せて兵部(ひやうぶ)の使人等(つかひたち)と、同(とも)に集(つど)ひ飲宴(うたげ)して作れる謌三首
集歌4433
原文 阿佐奈佐奈 安我流比婆理尓 奈里弖之可 美也古尓由伎弖 波夜加弊里許牟
訓読 朝な朝な上がるひばりになりてしか京(みやこ)に行きて早帰り来む
私訳 毎朝、空に翔け昇る雲雀になりたいものです、奈良の都に行って、人に逢ったらすぐに帰って来よう。
右一首、勅使紫微大弼安倍沙弥麿朝臣
注訓 右の一首は、勅使(ちよくし)紫微(しびの)大弼(だいひつ)安倍沙弥麿朝臣
 
集歌4434
原文 比婆里安我流 波流弊等佐夜尓 奈理奴礼波 美夜古母美要受 可須美多奈妣久
訓読 ひばり上がる春へとさやになりぬれば京(みやこ)も見えず霞たなびく
私訳 雲雀が空に翔け昇る春の季節へとはっきりなったので、都も見えない、霞が棚引いている。
 
集歌4435
原文 布敷賣里之 波奈乃波自米尓 許之和礼夜 知里奈牟能知尓 美夜古敝由可無
訓読 ふふめりし花の初めに来し吾や散りなむ後に京(みやこ)へ行かむ
私訳 つぼみとして膨らんだ桜の花の咲き始めにやって来た私は、その桜花が散ってしまった後に都へ戻って行くでしょう。
左注 右二首、兵部使少輔大伴宿祢家持
注訓 右の二首は、兵部使少輔大伴宿祢家持
 
 雲雀に係る集歌4433の歌と集歌4434の歌は、天平勝宝7年3月3日(755年4月22日)に難波で雛の節句の祝いの宴で詠われた歌です。歌は、宴会の席上で雲雀の鳴き声を聞いて、朝日とともに天空に舞い上がり啼く雲雀のように高く舞い上がれば難波から奈良の都が見えるだろうかとの盛大な誇張から詠ったもので、歌で詠う雲雀に特段の心情が込められているかというとそれはありません。宴会で聞いた雲雀の鳴き声と天高く飛ぶ様から得た、人々が思いもかけない大げさな意外性からのものです。この種の盛大な誇張から詠うものでは、古今和歌集に「末の松山」で知られるものがあり、歌は、貴方が疑う私の浮気心の有無は、まるで浪が大きな松の生える山の頂を越えるみたいなもので有り得ませんと、盛大な誇張から歌を詠うものです。このような人を驚かす盛大な誇張もまた和歌の技法です。ただ、大げさが取り柄の歌ですから、秀歌として注目されたことは無いようです。
 一方、次に紹介する集歌4292の歌は古くから色々な解釈がある歌で、大正末期から昭和初期になって当時の歌人たちにより再評価を受け、大伴家持の代表的な歌とされます。それまでの大伴家持の代表的な歌は平安時代に作られた家持集に載る全く他人の歌を指名していましたが、万葉集の歌の研究が進んできた昭和初期になって、他人の歌を大伴家持の代表作として評価するのは、いかにもあんまりだろうとしての、努力し探し出しての再評価です。
ただし、もし、現代人で神経を病んでいる人が雲雀の鳴き声を実際に聞いたなら、さてその鳴き声に耐えられるかは疑問です。人により日本三騒鳥と指定する雲雀の鳴き声は「ピーチクパーチク」と忙しく高い音での鳴き声で、静かでしみじみとした鳴き声ではありません。万葉集でホトトギスと表記して実際には森の奥で静かに鳴くカッコウの鳴き声を示すのとは違い、集歌4433の歌から推測して、奈良時代の雲雀はやはり現代と同じ雲雀だろうと推定されています。それで机の上で夢想する近代歌人を除いて、本当の野外で啼く雲雀の鳴き声を知っている古くからの歌人は色々と別の解説を展開します。
 
廿五日、作謌一首
標訓 廿五日に、作れる謌一首
集歌4292
原文 宇良々々尓 照流春日尓 比婆理安我里 情悲毛 比等里志於母倍婆
訓読 うらうらに照れる春日(はるひ)に雲雀(ひばり)上がり心悲しも独し思へば
私訳 うららかに輝いている春の日に雲雀が飛び上がる。でも、気持ちは悲しいのです、独りで物思いをすると。
 左注 春日遅〃鶬鶊正啼、悽惆之意非歌難撥耳。仍作此歌、式展締緒。但此巻中不稱作者名字、徒録年月所處縁起者、皆大伴宿祢家持裁作歌詞也。
注訓 春日(はるひ)は遅遅(ちち)にして、鶬鶊(ひばり)正(まさ)に啼く、悽惆(せいちう)の意(こころ)は歌にあらずは撥(はら)ひ難しのみ。仍(よ)りて此の歌を作り、式(も)ちて締(むすば)れし緒(こころ)を展(の)ぶ。但(しかし)、此の巻の中に作者の名字(な)を稱(い)はず、徒(ただ)、年月・所處・縁起を録(しる)せるは、皆大伴宿祢家持の裁作(つく)れる歌詞(うた)なり。
注訳 春の日はゆるゆるのどかにして、雲雀はその季節に鳴く、気鬱の気分は歌でなければ打ち払うことが難しい。そこでこの歌を作り、よって凝り固まった気持ちを解く。なお、この巻の中に作者の名を示さず、ただ、年月・場所・縁起だけを記したものは、すべて大伴宿祢家持の作った歌である。
 
 初めにこの左注の解釈では、この左注を記述した人物を大伴家持とする立場と、そうでないとする立場があります。家持がこれを記述したとする立場での左注の漢文の解釈では、少なくともこの巻十九は家持の編纂と推定します。一方、左注の漢文の「皆大伴宿祢家持裁作歌詞也」の句などの文言や文章構成から家持の文章では無いとする立場では、万葉集巻十九の編纂と家持との関係が、依然、不明となります。素人感覚ですが、この文章の前半は集歌4292の歌に対する評論のみで、後半は巻十九全体の作歌者の推定を述べています。およそ、この文章の構成からは左注を記述した人物は家持ではない他の人物によるものと推定され、文章の趣旨としては集歌4292の歌の鑑賞とその作歌者を大伴家持とする推定を述べたものと考えられます。これは集歌4292の歌の「比婆理安我里 情悲毛」の句における、相互の句のつながりの特殊性によるものと考えられます。
 歌に付けられた左注の解釈から話題を歌の解釈へ戻しますと、躁鬱病の躁状態でなければ、病んだ心に雲雀の鳴き声が心を鎮めるものと聞くのは難しいと思います。まず、晩春の開けた野原で初夏に向けての気持ち良い風や日の光を楽しむ心には向きますが、鬱状態の落ち込む気持ちを慰めるものではないでしょう。
 現実に野原の雲雀の鳴き声を知る伊藤博氏は歌の初句「うらうらに」という言葉に注目します。一般には明るい感覚を持つ言葉なので、その明るい言葉の感覚に対し雲雀と云う高音で素早い鳴き声が向き合うのです。ところが、家持は四句目・末句で「心悲しも独し思へば」と詠いますから、支離滅裂となります。グダグダの処はいかにも家持らしい作品ですが、それでは万葉集を代表する歌人の代表作と持ち上げた人たちの立場は無くなります。当然、平安時代の歌人たちは野原の雲雀の鳴き声を知っていますからこの歌を秀歌とするような間違いをしませんが、一方では秀歌選定の場面で平安後期の段階になると家持自身の歌から見出すことをあきらめて全く他人の歌を家持の代表歌とするような酷い扱いとしてしまいます。
 
『公任三十六人撰』で選出する秀歌:万葉集巻八1446番 家持本人の歌
春の野にあさる雉(きぎす)の妻こひにおのがありかを人に知れつつ
 
『俊成三十六人歌合』と『定家小倉百人一首』で選出する秀歌:全く他人の歌です
かささぎの渡せる橋に置く霜の白きを見れば夜ぞ更けにける
 
 ただ、昭和時代の万葉集の編纂史論や歌論からすると平安時代後期から明治時代期までのように全く他人の歌を家持の代表歌とするような酷い扱いは出来ませんから、そこは頑張って、伊藤博氏は古語「うらうらに」という言葉に「明るさを含みながらも、何か焦躁を誘う霞がかった世界を言い表わそうとしたものと説くことができるのではあるまいか」と、無理は承知の上で「何か焦躁を誘う」の言葉を挟むような相当な努力をして説きます。このようにでも説明しないと、集歌4292の歌は、雲雀の生態と歌の内容が支離滅裂なので、まともな和歌としては成立しません。
 この古語「うらうらに」の解釈を補強するものとして、伊藤博氏は左注の漢文から「春日遅〃」を取り上げ、この中国語「遅〃」が大和言葉「うらうらに」に対応するものであり、中国語「遅〃」は今昔物語などの訓じでは「ウラウラニ」であるから、中国語「遅〃」とは「春の日が長く、進まず、どこかほんのりと霞んだ、そして何かしらそわそわさせられる情況を言ったもの」と紹介します。しかしながら、伊藤博氏であっても雲雀の鳴き声には困ったようで、解説では雲雀の鳴き声を完全に無視をします。
 高校古文の解説では次のように解説するようですが、解説者は現実に野原で雲雀の鳴き声を聞いたのでしょうか。それとも、古今和歌集以降のように、単に季語のような扱いで雲雀に仲春の朝を代表させただけと考えたのでしょうか。困ったことに雲雀は自分の縄張りを主張する為に一度鳴き出すと簡単には鳴き止みません。その場に立ち止まり物静かにしていますと、次から次へと、その忙しく高い声で「ピーチクパーチク」と鳴き立てます。同じ時期の同じ場所で優雅におっとりと鳴く鶯とは全くに違うのです。
 私はヘビメタ音楽で心が和む人間ではありません。一方、電車の中でヘビメタのシャカシャカ音を大音量で流し、音漏れさせるほどのものを聞いて、それで心を落ち着かせる人もいますから、時に、大伴家持はそのようなリズムを好むような人だったかもしれません。それならば、野鳥の中でもそれに近いリズムと声を持つ雲雀の声に「心悲しも独し思へば」としみじみとした心境になれるのでしょう。もし、これがその時の家持の心境としますと、精神心理学的は非常に興味深いテーマになるのではないでしょうか。ただ、それは標準的な和歌の歌心とは全くに違いますから、秀歌として選出することへは「さてはて」です。
 一応、高校古文の解説を紹介しますが、解説者は書斎に籠るのではなく、ちゃんと野原に出て自然を知り、生きて空を飛ぶ雲雀の鳴き声を聞いてから、この種の公的な文章を書いて欲しいものです。
 
現代語訳
のどかに照る春の日差しの中を、ひばりが飛んでいく。そのさえずりを耳にしながら一人物思いにふけっていると、なんとなく物悲しくなっていくものよ。
解説・鑑賞のしかた
この歌は、大伴家持によって詠まれたものです。なんとなく、ふと寂しさを感じることがある。そのようなメランコリーな感じを表した歌です。楽しそうにさえずっている鳥と、作者の物寂しさが対比されています。
また「心悲しもひとりし思へば」の部分は、「物寂しく感じるなぁ。一人で物思いにふけっていると」と倒置表現になっています。
 
 大伴家持の大正時代から昭和時代での代表歌を紹介しましたが、先に示したように家持の代表歌に対するものは時代毎に違います。その時代毎に評価が違うのは家持だけでなく、古今和歌集の仮名序で万葉集の代表歌人とされる柿本人麻呂や山部赤人も同様です。
 その時代毎に評価が違うことについて平安中期と平安末期にあって、当時を代表する歌人が選出した『万葉集』を代表する歌人の秀歌を比較することで、平安貴族たちの万葉歌人への態度を明らかにしたいと思います。
最初に平安中期の代表的な歌人と目される藤原公任が寛弘六年(1009)頃に選定した『三十六人撰』に載る柿本人麻呂、山辺赤人、大伴家持の歌を紹介し、次に、その対比として平安末期の代表的歌人の藤原俊成が選定した『俊成三十六人歌合』及び鎌倉初期の代表的歌人の藤原定家選定の『小倉百人一首』に載る歌を紹介します。
 補足情報として、柿本人麻呂の歌とされるものは『三十六人撰』に十首、『俊成三十六人歌合』に三首が載り、山辺赤人と大伴家持とは、それぞれ、彼のものとされるものが『三十六人撰』と『俊成三十六人歌合』とに三首ずつが載ります。また、『小倉百人一首』には作品名称の通りにそれぞれ一首が載ります。
 ここで、『三十六人撰』には『拾遺和歌集』から人麻呂のものとされる歌が三首ほど採られています。ところで、この『拾遺和歌集』は藤原公任の私歌集である『拾遺抄』を下に編まれた勅撰和歌集と考えられています。その元となった『拾遺抄』では、詠み人不詳の古歌や人麻呂歌集の歌から藤原公任が想像した柿本人麻呂調の和歌を選んだもの、または、『万葉集』の原文歌を彼の解釈で読み解いたものをもって人麻呂のものとしています。従いまして、現在に考えられる柿本人麻呂作品と平安時代人が推定した人麻呂作品とは一致していません。その時代の想定する柿本人麻呂調の和歌像があり、その和歌像に歴史的な和歌を当てて、それを柿本人麻呂作品としたような姿があります。
 参考として藤原公任の時代、時代を代表する藤原道長(966-1026)自身が『万葉集』の写本と校合や訓点付けを行うなど、万葉集原本歌の読み解き作業である「次点」研究が盛んに行われていました。そして、近代になるまで柿本人麻呂を最大に評価したのは、この時代であって、『拾遺和歌集』には柿本人麻呂の歌として百四首(異伝本に載る一首を含めると百五首)が採られています。人麻呂への和歌鑑賞態度を比べてみますと、その後に万葉歌人をあまり評価しなかった平安後期以降とは大きく異なる特異な時代でした。また、和泉式部、清少納言や紫式部が活躍した時代でもあり、女流文学最盛期の背景には藤原道長に代表される天皇の外祖父の地位が重要な意味を持つ摂関政治や平安貴族文化全盛があります。まだまだ、朝廷に仕える貴族たちが政治・経済を実行支配していた時代で、平氏や源氏に代表される武士階級の台頭の契機となる保元の乱(1156)は、ずっと、先、百五十年先の話です。なお、藤原公任は古今和歌集の仮名序に古注を書き入れた人と考えられていますが、この仮名序に古注は紀貫之の和歌論が良く理解出来ていない人物ですので、公任が古注を書き入れた人ならば、万葉集や古今和歌集などの歌の世界の感性とは、ちょっと違う人です。紫式部は公任と全くの同時代人ですが、紫式部の源氏物語での引歌態度からすると万葉集や古今和歌集などの歌の世界の感性を好んだと思われます。
 さて、藤原公任による『三十六人撰』が編まれた時代、寛弘三年(1006)頃に成立した花山院私撰とも考えられていた『拾遺和歌集』を最新のものとして、『万葉集』、『古今和歌集』や『後撰和歌集』が勅撰和歌集として成立していましたし、補足して「梨壷の五人」による『万葉集』への古点付け事業は康保年間(964-968)頃には完了しています。従いまして、『三十六人撰』を編むに於いて、柿本人麻呂、山辺赤人や大伴家持たち、『万葉集』の三大歌人の秀歌を選定するにはこれらの四勅撰和歌集からと云うのが最も相応しいことになります。なお、建前として『古今和歌集』と『後撰和歌集』とは『万葉集』との歌の重複を避けて撰集された歌集と云う性格を持ちます。従いまして、特段の注記が無い限り、『古今和歌集』や『後撰和歌集』から柿本人麻呂、山辺赤人や大伴家持の歌を選定することはありません。秀歌選定にはこのような背景と制約があります。
 追加参考として『三十六人撰』の藤原公任に関わるとされる『拾遺和歌集』は、平安後期の歌人たちには評判が良くなかったようで、『拾遺和歌集』が評価を受けるのは鎌倉時代になって藤原定家が取り上げて以降とされます。その為か、以下に紹介する『三十六人撰』と『俊成三十六人歌合』とでは、人麻呂と家持の秀歌選定に対し両者の好みの色が強く現れています。さらに、章末に紹介する現代歌人が選ぶ代表作とも違っていることが注目です。
 
『拾遺和歌集』の評価:
ウキペデア『拾遺和歌集』より抜粋
成立後約二百年もの間、勅撰集としての評価が得られなかった。ちなみに『拾遺集』のよさを述べ、勅撰集として初めてはっきり認めた人物は藤原定家である。
 
拾遺和歌集の研究(中周子)より抜粋
『拾遺集』は、藤原公任撰といわれる十巻本の『拾遺抄』をもとに、花山上皇の下命によって二十巻に増補、再編纂されて成立した第三の勅撰集であることが、現在では通説となっている。しかし、『拾遺抄』の歌はすべて『拾遺集』に重出していることから、古来、両者は混同されることが多く、のみならず、数々の歌論や秀歌撰を編んだ公任の権威も相侯って、『拾遺抄』は『拾遺集』の秀歌を抄出したものであるとの見方が長らく行なわれてきた。そのため平安中
期以後、『拾遺抄』が尊重される一方、『拾遺集』は軽視され続けてきた。
 
 以上の文化背景の概説を下に、それぞれの秀歌選集に載せられた和歌を紹介します。順に柿本人麻呂、山辺赤人、大伴家持であり、秀歌選集は『公任三十六人撰』、『俊成三十六人歌合』、『定家小倉百人一首』です。また、和歌表記は、比較を前提として定家好みである鎌倉時代以降の「漢字ひらがな交じり表記」とし、平安時代の本来の表記である「清音ひらがな表記」ではありません。
 
柿本人麻呂
『公任三十六人撰』より
①      あすからは若菜つまむと片岡の朝の原はけふぞやくめる
拾遺和歌集巻一春18番 人麿
②      ほのぼのと明石の浦の朝ぎりに島がくれ行く舟をしぞ思ふ
古今和歌集409番 あるいは人丸
③      たのめつつこぬ夜あまたに成りぬればまたじと思ふぞまつにまされる
拾遺和歌集巻十三恋三848番 人麿
④      葦引の山鳥の尾のしだりをのながながし夜をひとりかもねむ
万葉集巻十一2802番 詠み人不詳
『俊成三十六人歌合』より
①      龍田川もみぢ葉流る神奈備の御室の山に時雨降るらし
古今和歌集284番 詠み人不詳
②      葦引の山鳥の尾のしだりをのながながし夜をひとりかもねむ
万葉集巻十一2802番 詠み人不詳
③      をとめごが袖ふる山の瑞垣の久しき世より思ひ初めてき
拾遺和歌集卷十九雑戀1210番 人麿
『定家小倉百人一首』より
①      葦引の山鳥の尾のしだりをのながながし夜をひとりかもねむ
拾遺和歌集巻十三恋三778番 人麿
 
山辺赤人
『公任三十六人撰』より
①      あすからはわかなつまむとしめしのに昨日もけふもゆきはふりつつ
万葉集巻八1427番 山辺赤人
②      わがせこにみせむとおもひしむめのはなそれともみえずゆきのふれれば
万葉集巻八1426番 山辺赤人
③      わかのうらにしほみちくればかたをなみあしべをさしてたづなきわたる
万葉集巻六919番 山辺赤人
『俊成三十六人歌合』より
①      あすからはわかなつまむとしめしのに昨日もけふもゆきはふりつつ
万葉集巻八1427番 山辺赤人
②      ももしきの大宮人は暇あれや桜かざして今日も暮らしつ
万葉集巻十1883番 詠み人不詳
③      わかのうらにしほみちくればかたをなみあしべをさしてたづなきわたる
万葉集巻六919番 山辺赤人
『定家小倉百人一首』より
①      田子の浦にうち出でて見れば白妙の富士の高嶺に雪は降りつつ
万葉集巻三313番 山辺赤人
 
大伴家持
『公任三十六人撰』より
①      あらたまのとしゆきかへる春たたばまづわがやどにうぐひすはなけ
万葉集巻二十4490番 大伴旅人
②      さをしかのあさたつをのの秋はぎにたまとみるまでおけるしらつゆ
万葉集巻八1598番 大伴旅人
③      春ののにあさるきぎすのつまごひにおのがありかを人にしれつつ
万葉集巻八1446番 大伴旅人
『俊成三十六人歌合』より
①      まきもくの檜原もいまだ曇らねば小松が原に泡雪ぞ降る
万葉集巻十2314番 詠み人不詳
②      かささぎの渡せる橋に置く霜の白きを見れば夜ぞ更けにける
家持集257番 作者不明
③      神奈備の三室の山の葛かづら裏吹き返す秋は来にけり
家持集98番 作者不明
『定家小倉百人一首』より
①      かささぎの渡せる橋に置く霜の白きを見れば夜ぞ更けにける
家持集257番 作者不明
 
 以上、平安中期、平安末期、鎌倉初期の代表歌人による万葉三大歌人の秀歌選集を紹介しました。紹介したものから、時代、時代での歌人たちが好んだ歌風や雰囲気を感じ取っていただければと思います。まず、万葉歌人が詠う歌が、時代を超えて常に秀歌とされていなかったことを知っていただけたのではないでしょうか。
 鎌倉時代以降の和歌は和歌道と言うものにより古今伝授等を通じて藤原俊成・定家親子の影響を強烈に受けたとされています。一方、その俊成・定家親子は人麻呂や家持に対し、本人が詠った歌を秀歌としていないと云う非常に興味深い特徴があります。およそ、『万葉集』の歌の言葉の選択や口調は、六百番歌合での評論で語るように俊成・定家親子にとって、受け入れられるものではありません。古今和歌集の仮名序で柿本人麻呂は歌聖であると記述してあるから、嫌や嫌やに許容範囲の歌を拾い上げたような風景です。
そこを踏まえて、今一度、平安時代で最大に万葉集歌人である柿本人麻呂を評価した『拾遺和歌集』での代表的なものと現代で評価するものとを、比較してみたいと思います。
 
1.拾遺和歌集に載る歌
 『拾遺和歌集』には山辺赤人と大伴家持の歌はそれぞれ三首しか採られていません。一方、柿本人麻呂は異伝本に載る一首を含めますと百五首を数えます。ここでは三首を紹介しますが、人麻呂については確実に『万葉集』に載るものを三首、紹介します。
 また、紹介では歌の作者を示します。これは『古今和歌集』以降の特徴でその歌集で柿本人麻呂、山辺赤人や大伴家持の作品と示してもその根拠が不明なものや読み人知れずの歌を本人のものとして採る場合があるからです。ちなみに『拾遺和歌集』では山辺赤人の作品とされる三首中、二首が読み人知れずの歌からの採歌です。
 
柿本人麻呂 三首抜粋
①  拾遺 いにしへに有りけむ人もわかことやみわのひはらにかさし折りけん
万葉集巻七 歌番1118 柿本人麻呂
原文 古尓 有險人母 如吾等架 弥和乃檜尓 插頭折兼
訓読 いにしへにありけむ人も吾がごとか三輪のひのはらに挿頭(かざし)折(を)りけむ
 
②  拾遺 みくまのの浦のはまゆふももへなる心はおもへとたたにあはぬかも
万葉集巻四 歌番496 柿本人麻呂
原文 三熊野之 浦乃濱木綿 百重成 心者雖念 直不相鴨
訓読 みくまのの浦のはまゆふ百重(ももへ)なす心は思(も)へど直(ただ)に逢はぬかも
 
③  拾遺 なる神のしはしうこきてそらくもり雨もふらなん君とまるへく
万葉集巻十一 歌番2513 柿本人麻呂
集歌2513 雷神 小動 刺雲 雨零耶 君将留
訓読 なる神の少し響(とよ)みてさし曇り雨も降らぬか君し留(とど)めむ
 
山辺赤人 三首
①  拾遺 恋しけば形見にせむと我が屋戸に植ゑし藤波今咲きにけり
万葉集巻八 歌番1471 山辺赤人
原文 戀之家婆 形見尓将為跡 吾屋戸尓 殖之藤浪 今開尓家里
訓読 恋しけば形見にせむと吾が屋戸(やと)に植ゑし藤波(ふぢなみ)今咲きにけり
 
②  拾遺 昨日こそ年は暮れしか春霞かすがの山にはやたちにけり
万葉集巻十 歌番1843 詠み人不詳
原文 昨日社 年者極之賀 春霞 春日山尓 速立尓来
訓読 昨日(きのふ)こそ年は極(は)てしか春霞かすがの山に速(はや)たちにけり
 
③  拾遺 我が背子をならしの岡のよぶこどり君よびかへせ夜の更けぬ時
万葉集巻十 歌番1822 詠み人不詳
原文 吾瀬子乎 莫越山能 喚子鳥 君喚變瀬 夜之不深刀尓
訓読 吾が背子をな越し山のよぶことり君呼びかへせ夜し更けぬとに
 
大伴家持 三首
①  拾遺 うちきらし雪はふりつつしかすがにわが家のそのに鴬ぞなく
万葉集巻八 歌番1441 大伴家持
原文 打霧之 雪者零乍 然為我二 吾宅乃苑尓 鴬鳴裳
訓読 うちきらし雪は降りつつしかすがに吾家(わぎへ)のそのに鴬鳴くも
 
②  拾遺 春ののにあさるきぎすのつまごひにおのがありかを人にしれつつ
万葉集巻八 歌番1446 大伴家持
原文 春野尓 安佐留雉乃 妻戀尓 己我當乎 人尓令知管
訓読 春の野にあさる雉(ききじ)の妻こひにおのがあたりを人に知れつつ
 
③  拾遺 久方のあめのふるひをただひとり山べにをればむもれたりけり
万葉集巻四 歌番769 大伴家持
原文 久堅之 雨之落日乎 直獨 山邊尓居者 欝有来
訓読 ひさかたの雨のふるひをただひとり山辺(やまへ)にをれば欝(いぶせ)かりけり
 
2.現代で一般的に代表作と考えられている歌
 以下に三人の代表作とされるものをそれぞれ二首ずつ紹介します。ネット上では柿本人麻呂と大伴家持の代表作品についての記事は容易に見つけられますが、山辺赤人については歌番号318の歌以外のものを探すのは容易ではありません。対して赤人は平安時代に評価が定まり、既に研究が終わったかのような扱いです。その為か、赤人は時代での代表歌のぶれが少ない歌人です。なお、現代の選択は全て『万葉集』に載る本人と表記された歌からのもので、それ以外の歌集からのものはありません。それもまた、現代の特徴的な選択です。
 
柿本人麻呂
巻一 歌番48
東の野にかぎろひの立つ見えてかへり見すれば月傾きぬ
巻三 歌番266
近江の海夕波千鳥汝が鳴けば心もしのに古思ほゆ
 
山辺赤人
巻三 歌番318
田子の浦ゆ打ち出て見れば真白にぞ富士の高嶺に雪は降りける
巻八 歌番1424
春の野にすみれ摘みにと来し吾そ野をなつかしみ一夜寝にける
 
大伴旅人
巻十九 歌番4291
我が屋戸のいささ群竹ふく風の音のかそけきこの夕へかも
巻十九 歌番4292
うらうらに照れる春日にひばりあがり心悲しも独りし思へば
 
 今回、示した時代毎に万葉集三大歌人の代表歌が違うことについて、当時の歌論や歌集の序文から、それぞれの時代の歌人たちが和歌をどのように楽しんでいたかを感じていただければと思います。ただ、明治期から昭和初期に大伴家持を評価した歌人たちは、雲雀の鳴き声を知らなかったようですので、当時、流行した「写生」とは何だったのでしょうか。

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