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紅顔は美女なのか

 万葉集に山上憶良が詠う有名な「日本挽歌」と云う歌群があります。その前置漢文に「紅顏共三従長逝」と云う一節があり、「紅顔」という言葉が詠われる歌の人物を示すものとして使われています。この前置漢文の「紅顔」の言葉は和歌「日本挽歌」で詠う主人公を解説する重要なキーワードですので、和歌「日本挽歌」を鑑賞する時、「紅顔」の言葉を正しく解釈することが要請されます。
 そこで、この前置漢文で使われる「紅顔」の言葉の解釈について調べますと、岩波書店 新日本古典文学大系では「妻の桃色の顔は」、小学館 日本古典文学全集では「うるわしい美貌も三従の婦道とともに」、集英社文庫 伊藤博「萬葉集」では「妻の麗しい顔色は」、講談社文庫 中西進「万葉集」では「弱年の紅顔は」となっています。脚注で「少年の顔色」と記す中西進「万葉集」の解釈以外は「紅顔」の言葉を女性の顔の形容としています。およそ、中西進を除いて、万葉集研究者の間では「紅顔」と云う言葉を「女性の顔の形容」と理解することが共通の認識と思われます。
 ここで、この「紅顔」の言葉の意味を考える前に大江朝綱(886~957)と云う人物を紹介します。彼は万葉集の歌の解釈に大きな影響を与えたと推定される人物です。この万葉集に山上憶良が詠う有名な「日本挽歌」と云う歌群があります。その前置漢文に「紅顏共三従長逝」と云う一節があり、「紅顔」という言葉が詠われる歌の人物を示すものとして使われています。この前置漢文の「紅顔」の言葉は和歌「日本挽歌」で詠う主人公を解説する重要なキーワードですので、和歌「日本挽歌」を鑑賞する時、「紅顔」の言葉を正しく解釈することが要請されます。
 この前置漢文で使われる「紅顔」の言葉の解釈について調べますと、岩波書店 新日本古典文学大系では「妻の桃色の顔は」、小学館 日本古典文学全集では「うるわしい美貌も三従の婦道とともに」、集英社文庫 伊藤博「萬葉集」では「妻の麗しい顔色は」、講談社文庫 中西進「万葉集」では「弱年の紅顔は」となっています。脚注で「少年の顔色」と記す中西進「万葉集」の解釈以外は「紅顔」の言葉を女性の顔の形容としています。およそ、中西進を除いて、万葉集研究者の間では「紅顔」と云う言葉を「女性の顔の形容」と理解することが共通の認識と思われます。
 この「紅顔」の言葉の意味を考える前に大江朝綱(886~957)と云う人物を紹介します。彼は万葉集の歌の解釈に大きな影響を与えたと推定される人物です。この大江朝綱は紀貫之(866~945)とほぼ同時代の人物で、インターネットでは次のように紹介される人物です。社会面では律令行政実務の頂点に立ち、また、文化面では当時の漢文漢詩を主流とする唐風文学をリードした人物です。
万葉集に山上憶良が詠う有名な「日本挽歌」と云う歌群があります。その前置漢文に「紅顏共三従長逝」と云う一節があり、「紅顔」という言葉が詠われる歌の人物を示すものとして使われています。この前置漢文の「紅顔」の言葉は和歌「日本挽歌」で詠う主人公を解説する重要なキーワードですので、和歌「日本挽歌」を鑑賞する時、「紅顔」の言葉を正しく解釈することが要請されます。
 示した前置漢文で使われる「紅顔」の言葉の解釈について調べますと、岩波書店 新日本古典文学大系では「妻の桃色の顔は」、小学館 日本古典文学全集では「うるわしい美貌も三従の婦道とともに」、集英社文庫 伊藤博「萬葉集」では「妻の麗しい顔色は」、講談社文庫 中西進「万葉集」では「弱年の紅顔は」となっています。脚注で「少年の顔色」と記す中西進「万葉集」の解釈以外は「紅顔」の言葉を女性の顔の形容としています。およそ、中西進を除いて、万葉集研究者の間では「紅顔」と云う言葉を「女性の顔の形容」と理解することが共通の認識と思われます。
 この「紅顔」の言葉の意味を考える前に大江朝綱(886~957)と云う人物を紹介します。彼は万葉集の歌の解釈に大きな影響を与えたと推定される人物です。この大江朝綱は紀貫之(866~945)とほぼ同時代の人物で、インターネットでは次のように紹介される人物です。社会面では律令行政実務の頂点に立ち、また、文化面では当時の漢文漢詩を主流とする唐風文学をリードした人物です。

平安中期の学者、漢詩人。玉淵の子。江相公と号した音人の孫で、後江相公と称された。延喜十一年(911年)に文章生となり、次いで丹波,信濃ほかの地方官や刑部少丞、民部大丞、左少弁など太政官の下役を歴任し、承平四年(934年)に文章博士を兼ねた。さらに天暦七年(953年)に参議,正四位下に至った。博学多才で作詩や書をよくし,その詩文は『扶桑集』『和漢朗詠集』『本朝文粋』『本朝文集』ほかに収録される

 この大江朝綱が作詩した歌に「王昭君」があり、その発句が和漢朗詠集に収められています。この和漢朗詠集は「藤原道長の娘威子入内の際に贈り物の屏風絵に添える歌として編纂され、のちに藤原公任の娘と藤原教通の結婚の際に祝いの引き出物として贈られた」と解説されるように、載せられるものは女性の教養のために知るべき文学作品を選抜し、それを「女手(平仮名)と男手(漢字)」とで両表記したものです。その和漢朗詠集に載る「王昭君」を紹介します。

和漢朗詠集 雑 王昭君
すゐたいこうがんきんしうのよそほひ
なくゝゝささいをたづねてかきやうをいづ
翠黛紅顔錦繍粧 泣尋沙塞出家郷
発句 大江朝綱(886~957)

 大江朝綱の詠う「王昭君」では、「紅顔」は歌の主人公である王昭君を示します。王昭君は中国四大美人の一人と称される前漢の後宮の宮人ですので、大江朝綱は漢語の「紅顔」を美人の貌の形容として理解しています。
 この大江朝綱の「王昭君」の作品の直後、義孝少将(藤原義孝)が「紅顔」と云う言葉を使って漢詩文を作っています。この句は和漢朗詠集の「無常」と云う区分で載せられていますが、その全文は伝わっていません。そのため、21歳で病死した当代随一の美男子であった藤原義孝 本人の辞世を詠うものか、本朝第二の美人と称えられた麗景殿(冷泉院の第二皇女:尊子内親王)の20歳での夭折を嘆じたものかの議論があります。前者では「紅顔」は藤原義孝を示し、後者では麗景殿を示すことになります。(注;平安期の本朝第一の美人は右大将藤原道綱母、第三の美人は不明)

和漢朗詠集 雑 無常
あしたにはこうがんありてせろにほこれども
ゆふべにははくこつとなりてかうげんにくつ
朝有紅顔誇世路 暮為白骨朽郊原
中陰願文 藤原義孝(954~974)

 ただ、大江朝綱が「王昭君」で詠う「紅顔」の言葉を女性と解釈することが平安後期以降の教養人の基準となったようで、鎌倉時代の平家物語には「清嵐浸膚翠黛紅顔色漸衰蒼蒼波眼穿外土望郷涙難押(晴嵐 膚を侵し、翠黛紅顔 の色 やうやうにおとろへ、蒼波 まなこをうがち、外土望郷の涙 押さへ難たし)」、室町時代の太平記には「この驪姫、ただ紅顔翠黛、眼を迷はすのみにあらず」と云う文章が現れます。大江朝綱は「王昭君」で「翠黛紅顔」と詠い、平家物語では同じく「翠黛紅顔」、太平記では「紅顔翠黛」と、美人の貌の形容を詠いあげます。この「翠黛紅顔」の言葉とは「濃緑の眉墨を美しく施し、血色の良い若々しい肌の女性」を形容したものなのでしょう。およそ、藤原定家たちが活躍する平安末期から鎌倉時代初頭には、日本語の「翠黛紅顔」が定着していたと推定されます。この日本語となった「紅顔」の言葉と意味が現代にまで受け継がれたと思われます。
 ところで、先の藤原義孝の中陰願文の対象者を麗景殿と比定するのは「朗詠江注」以降のこととされ、その比定の時期は校注者の大江匡房没年の天永2年(1111年)が成立の下限とされています。少なくとも、十二世紀初頭には既に平安貴族たちは「紅顔」の言葉を女性と理解していたと思われます。その為か、日本独特に藤原義孝の中陰願文の解釈として若き女性の麗景殿の夭折を悼むと云うものになったと考えます。
 そして、この背景と解釈から十二世紀初頭以降の和歌を嗜む人々は「日本挽歌」に載る「紅顔」の言葉を解釈したと推定します。
 さて、ここで万葉集が詠われた飛鳥・奈良時代の人々が「紅顔」と云う言葉を、どのように理解していたかを考えてみたいと思います。その時代、遣唐使の一員や大使に任命された山上憶良(660~733)、阿部仲麻呂(698~770)、藤原清河(710?~778)たちの事績を思う時、飛鳥・奈良時代の人々は晋・唐時代の漢文・漢詩に親しんでいたと考えられます。そこで、その時代の漢詩から「紅顔」と云う言葉の意味を調べてみますと、文末に紹介するような有名な漢詩を見つけることが出来ます。ここで、劉廷芝が詠う漢詩「代悲白頭翁」は、「紅顔の美少年」の言葉の由来になったものです。
 紹介する漢詩で劉廷芝は「寄言全盛紅顔子」や「伊昔紅顔美少年」と詠い、そこに青老の対比を示し、李白は孟浩然の人物を示すに「紅顔棄軒冕」と詠います。さらに杜甫は「紅顔騎竹我無縁」と少年の風情を詠います。紹介するように唐漢詩の「紅顔」の言葉には「女性」のイメージはありません。あくまでも、少年や若い男性を示します。もし、唐漢詩で美人を形容するならば「娥眉」や「紅頬」が相応しいようです。
 劉廷芝と山上憶良とは同じ時代人で、「代悲白頭翁」が評判になっていた頃、山上憶良は遣唐使随員として長安に赴いています。従って、山上憶良は、当時、評判であった「代悲白頭翁」を知っていたと推定します。つまり、「寄言全盛紅顔子」や「伊昔紅顔美少年」のフレーズから、「紅顔」が意味することを正確に知っていたと思います。
 対して、平安初期の教養人である大江朝綱は李白や白居易が詠う「王昭君」、劉廷芝の詠う「代悲白頭翁」を知っていたと思いますが、平安貴族の感性で美しい女性の形容は「娥眉紅頬」ではなく、「翠黛紅顔」だと感じたと推定します。中国美人と大和美人の化粧方法とが違い、また美人の基準も違っていたことから、その美人を形容する言葉が変わったと推理します。つまり、およそ「翠黛紅顔」の四文字熟語ならば和製漢語として女性を示し、「紅顔」の二文字ならば漢語本来の若い男性を示すと理解するのが、平安初期時代の教養と考えます。
 このように推定しますと、飛鳥・奈良時代の人々は平安時代の大江朝綱による造語「翠黛紅顔」を知らないことになり、彼らは「紅顔」の言葉を若い男性を示すと理解するだけとなります。
 ここで日本挽歌の前置漢文で詠われる「紅顏共三従長逝」と云う一節に戻ります。以上に見て来ましたように「紅顔」が若い男性を示すのなら、「三従」はその若き男性の妻となります。すると、日本挽歌の主人公は若き夫と共に亡くなった若妻を悼む歌と理解しなければならなくなります。こうした時、どうして、この「紅顔」の解釈に大伴旅人の老妻や山上憶良の老妻と云う説が生じたのでしょうか。実に不思議な事です。やはり、十二世紀初頭以降、正しく万葉集が理解出来なくなった為でしょうか。
 こうした時、現代の「専門家」の立場は、どうでしょうか。インターネットが発達した条件下では、古典の原文の入手は非常に容易になっています。また、原文に対する訓読や解説なども、多く、インターネット上で入手が可能になりました。さらに学際研究のスタイルが進み、特定分野の権威が旧来のようにその分野を権威によって新説や対立説を押さえることは困難になって来ています。無批判に伝授継承を根本に据えることが出来なくなった現代の「専門家」には、それを所与とした論文引用主体の研究スタイルでは、熱心な読書家として身内受けをしても、それを記録に残すことは危険な時代になったと思います。
 さて、山上憶良が詠う「日本挽歌」と云う重大な題を与えられた詩歌を、我々は今まで正しく鑑賞して来たのでしょうか。もし、日本挽歌を神亀五年頃に亡くなった大伴旅人の妻、坂上郎女を悼むものとして解釈するものがあるならば、それは前置漢文で歌の主人公を暗示する「紅顏共三従長逝」を全く理解できていないことの証となります。万が一、前置漢文と大和歌の長歌とで全く別なものを示して良いと云う考えがあるなら、それはそれで支離滅裂です。
 すでに昭和も遠く成りました。色眼鏡を外して万葉集を鑑賞すると、本当の歴史と人々の訴えが聞こえてくるのではないでしょうか。

参考資料紹介
日本挽歌 抜粋
(前置漢文 序)
盖聞、四生起滅、方夢皆空、三界漂流、喩環不息。所以、維摩大士在手方丈、有懐染疾之患、釋迦能仁、坐於雙林、無免泥亘之苦。故知、二聖至極、不能拂力負之尋至、三千世界、誰能逃黒闇之捜来。二鼠走、而度目之鳥旦飛、四蛇争侵、而過隙之駒夕走。嗟乎痛哉。
紅顏共三従長逝、素質与四徳永滅。何圖、偕老違於要期、獨飛生於半路。蘭室屏風徒張、断腸之哀弥痛、枕頭明鏡空懸、染均之涙逾落。泉門一掩、無由再見。嗚呼哀哉。
愛河波浪已先滅
苦海煩悩亦無結
従来厭離此穢土
本願託生彼浄刹

序訓 盖し聞く、四生(ししやう)の起き滅ぶることは、夢の皆空しきが方(ごと)く、三界の漂ひ流るることは、環(たまき)の息(や)まにが喩(ごと)し。所以(かれ)、維摩大士は手に方丈が在りて、染疾(せんしつ)の患(うれへ)を懐(むだ)くことあり、釋迦能仁(のうにん)は、雙林に坐して、泥亘(ないをん)の苦しみを免るること無し。故(かれ)知る、二聖の至極も、力負(りきふ)の尋ね至るを拂ふこと能はず、三千の世界に、誰か能く黒闇(こくあん)の捜(たづ)ね来(きた)るを逃れむと。二つの鼠走り、目を度(わた)る鳥旦(あさ)に飛び、四つの蛇争ひ侵して、隙(げき)を過ぐる駒夕(ゆふへ)に走る。嗟乎(ああ)、痛(いたま)しき哉。
紅顏は三従と長(とこしへ)に逝(ゆ)き、素質(そしつ)は四徳と永(とこしへ)に滅ぶ。何そ圖(はか)らむ、偕老(かいらう)の要期(えうご)に違ひ、獨飛(どくひ)して半路に生きむことを。蘭室(らんしつ)の屏風は徒(いたづ)らに張りて、腸を断つ哀しび弥(いよいよ)痛く、枕頭の明鏡空しく懸りて、染均(せんゐん)の涙逾(いよいよ)落つ。泉門一たび掩(おほ)はれて、再(また)見るに由無し。嗚呼、哀しき哉。
愛河(あいか)の波浪は已先(すで)に滅え
苦海の煩悩もまた結ぼほることなし
従来(このかた)、この穢土(ゑど)を厭離(えんり)す
本願(ほんがん)をもちて、生を彼(そ)の浄刹(じょうせつ)に託(よ)せむ

王昭君 (和漢朗詠集より)
大江朝綱(886~957)、平安中期 村上天皇頃の貴族・学者
翠黛紅顔錦繍粧 翠黛(りょくたい)紅顔(こうがん) 錦繍(きんしゅう)の粧(よそおい)
泣尋沙塞出家郷 泣いて沙塞(ささい)を尋(たづ)ねて家郷(かきょう)を出(い)づ
辺風吹断秋心緒 辺風(へんふう)吹き断つ秋(あき)の心緒(しんしょ)
隴水流添夜涙行 隴水(ろうすい)流れ添う夜(よ)の涙行(るいこう)
胡角一声霜後夢 胡角(こかく)一声(いっせい) 霜後(そうご)の夢(ゆめ)
漢宮萬里月前腸 漢宮(かんきゅう)萬里(ばんり) 月前(げつせん)の腸(はらわた)
昭君若贈黄金賂 昭君(しょうくん)若(も)し黄金(おうごん)の賂(ろ)を贈(おく)らば
定是終身奉帝王 定(さだ)めて是(こ)れ終身(しゅうしん)帝王(ていおう)に奉(ほう)ぜん

五言絶句
王昭君  李白(701-762)
昭君拂玉鞍 昭君、玉鞍を拂(ふう)し
上馬啼紅頬 上馬、紅頬に啼(てい)す
今日漢宮人 今日、漢宮の人
明朝胡地妾 明朝、胡地の妾

雑言古詩
王昭君  李白(701-762)
漢家秦地月 漢家、秦地の月
流影照明妃 流影、明妃を照らす
一上玉関道 一たび玉関の道に上り
天涯去不帰 天涯、去って帰らず
漢月還従東海出 漢の月は還りて、東海より出づるも
明妃西嫁無来日 明妃は西に嫁して、来る日は無し
燕支長寒雪作花 燕支、長寒にして、雪は花と作り
娥眉憔悴没胡沙 娥眉、憔悴して、胡沙に没す
生乏黄金枉図画 生きては黄金に乏しく、枉げて図画(とが)せられ
死留青塚使人嗟 死しては青塚を留めて、人をして嗟かしむ

王昭君  白居易(772~846)
満面胡沙満鬢風 満面、胡沙鬢(こさびん)に満つる風
眉銷殘黛瞼銷紅 眉は残黛(ざんたい)を銷(さ)き、瞼(かほ)は紅(べに)を銷(さ)く
愁苦辛勤憔悴盡 愁苦(しゅうく)辛勤(しんぎん)して憔悴(しょうすい)し尽くれば
如今卻似畫圖中 如今(いま)ぞ卻(かえ)って画図(がと)の中に似たり

王昭君(その二)
漢使却回憑寄語 漢使(かんしき)却回(きゃくかい)し憑(よ)りて語を寄す
黄金何日購蛾眉 黄金何(いずれ)の日か蛾眉(がび)を購(あがな)はむ
君王若問妾顔色 君王若(も)し妾(しょう)の顔色を問わば
莫道不如宮裏時 道(い)う莫(なか)れ宮裏の時に如(し)からずと

 代悲白頭翁 白頭を悲しむ翁を代(あらわ)す
劉廷芝(又は希夷:651~679)、初唐の詩人
抜粋 第二章部分
古人無復洛城東 古人、復(また)洛城の東に無く
今人還対落花風 今人、還って対す落花の風
年年歳歳花相似 年年歳歳、花相(あい)似(に)たり
歳歳年年人不同 歳歳年年、人同じからず
寄言全盛紅顔子 言を寄す、全盛の紅顔子
応憐半死白頭翁 憐(あわれ)む応(べ)し、半死の白頭翁
此翁白頭真可憐 此の翁、白頭真に憐むべし
伊昔紅顔美少年 伊(こ)れ昔、紅顔の美少年

贈孟浩然 孟浩然に贈る
李白(701-762)、盛唐の詩人
吾愛孟夫子 吾は愛す孟夫子(もうふし)
風流天下聞 風流(ふうりゅう)は天下に聞こゆ
紅顔棄軒冕 紅顔(こうがん)、軒冕(けんめん)を棄て
白首臥松雲 白首(はくしゅ)、松雲(しょううん)に臥(ふ)す
酔月頻中聖 月に酔いて頻(しき)りに聖(せい)に中(あた)り
迷花不事君 花に迷いて君に事(つか)えず
高山安可仰 高山(こうざん)、安(いずく)んぞ仰ぐ可けんや
従此揖清芬 此(ここ)より清芬(せいふん)を揖(ゆう)す

清明二首
杜甫(712-770)、盛唐の詩人
抜粋 其一前半部分
朝来新火起新煙 朝来(ちょうらい)新火(しんか)、新煙(しんえん)を起こす
湖色春光浄客船 湖色(こしょく)春光(しゅんこう)、客船に浄(き)よし
繍羽銜花他自得 繍羽(しゅうう)花を銜(ふくみ)て、他(か)れ自得(じとく)し
紅顔騎竹我無縁 紅顔(こうがん)竹に騎(の)る、我縁(えん)無し
胡童結束還難有 胡童(こどう)の結束(けつそく)、還(ま)た有り難く
楚女腰肢亦可憐 楚女(そじょ)の腰肢(ようし)、亦(ま)た憐む可し

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