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万葉集 熟田津の歌への別なる解釈

 万葉集にあって歴史と絡めて昔から色々と物議を交わして来た歌が、次の額田王が詠う熟田津の歌です。そして今もその物議の決着が着いていないようです。この歌の歴史的な背景を気にしなければ普段の大宮人による秋の十五夜での舟遊びのような感のある歌ですが、この歌に歴史的背景を認めるか認めないかで、見方が大きく変ってきます。そこが面白いわけです。しかし人により歴史解釈が大幅に違うので、その人それぞれの歴史解釈の論拠を説明しないと、それぞれが解釈した歌の論説自体が成り立たないような非常に解釈の振れが大きい難しい歌でもあります。
 私は歴史的背景を認める立場ですが、歴史的背景を認める立場のその中でも非常に普段の解釈からすると特異な位置です。
 
後岡本宮御宇天皇代 天豊財重日足姫天皇、後即位後岡本宮
標訓 後の岡本宮の御宇の天皇の代、天豊財重日足姫天皇、後に即位し後岡本宮
額田王謌
標訓 額田王の歌
集歌8
原文 熟田津尓 船乗世武登 月待者 潮毛可奈比沼 今者許藝乞菜
訓読 熟田津に船乗りせむと月待てば潮もかなひぬ今は漕ぎ出でな
意訳 熟田津に船出をしようと待っていると、潮時もちょうどよくなった。今、このときに船を漕ぎ出そう。
左注 右、檢山上憶良大夫類聚歌林曰、飛鳥岡本宮御宇天皇元年己丑、九年丁酉十二月己巳朔壬午、天皇大后、幸于伊豫湯宮。後岡本宮馭宇天皇七年辛酉春正月丁酉朔壬寅、御船西征始就于海路。庚戌、御船、泊于伊豫熟田津石湯行宮。天皇、御覧昔日猶存之物、當時忽起感愛之情。所以因製謌詠為之哀傷也。即此謌者天皇御製焉。但、額田王謌者別有四首。
注訓 右は、山上憶良大夫の類聚歌林を検(かむが)ふるに曰はく「飛鳥岡本宮の御宇(おんとき)の天皇の元年己丑、九年丁酉の十二月己巳の朔(つきたち)の壬午、天皇と大后、伊豫の湯の宮に幸(いでま)す。後岡本宮の馭宇(おんとき)の天皇(すめらみこと)の七年辛酉の春正月丁酉の朔(つきたち)の壬寅、御船西征して始めて海路に就く。庚戌、御船、伊豫熟田津の石湯の行宮に泊(は)つ。天皇、昔日より猶ほ存れる物を御覧(みそなほ)し、當時(そのかみ)、忽(たちま)ち感愛(なつか)しみの情(こころ)を起す。所以(ゆへ)に因(よ)りて歌を製(つく)りて詠(くちず)さみ哀傷(なつかし)みと為す」といへり。即ち、此の歌は天皇の御(かた)りて製らしし。ただ、額田王の歌は別に四首あり。
注訳 右の歌については、山上憶良大夫の記す類聚歌林を検討して云うには「飛鳥岡本宮で統治なれたの舒明天皇の統治元年己丑、九年丁酉の十二月己巳の朔(つきたち)の壬午(14日)に、天皇と大后は、伊豫の湯の宮に御幸なされた。後岡本宮で統治なれた斉明天皇の統治七年辛酉の春正月丁酉の朔の壬寅(6日)に、天皇が御座なされた御船は西征して始めて難波の湊から海路に就く。庚戌(14日) に、御船は伊豫国の熟田津の石湯の行宮に停泊した。天皇は、昔日よりなほ残れる物を御覧になり、その当時の出来事を思い出され、懐かしい想いをなされた。そこで、昔の思い出から歌を作り口ずさみ、懐かしい思い出となされた」と伝える。つまり、此の歌は天皇が語られて作らせた歌です。ただし、額田王の自身の歌が別に四首あり。
 
 この歌は、左注の解説から斉明天皇御代の斉明七年(661)正月に伊予国熟田津の石湯の行宮で詠われていることになっていますので、日本書紀の記事を参考にすると斉明七年(661)正月の時代感では「百済の役」と称される新羅への大和懲罰軍の派遣に関わる事件の場面で詠われた歌となります。なお、有名な「白村江の戦い」は、「百済の役」の中での一方面軍の戦いを示し、「百済の役」と言う戦争全体を示すものではありません。
 この百済の役とは、660年に百済が唐軍(新羅も従軍)に敗れ滅亡します。その後、百済国遺臣の鬼室福信らによって百済復興運動が展開し、救援を求められた大和国は662年5月に新羅攻略と百済復興支援を掲げて大和で人質状態であった百済国王の遺児豊璋にその護衛となる阿曇連比邏夫連等を付けて朝鮮半島に送り参戦します。戦況からは翌年の663年8月の白村江の戦いで敗戦し、百済国王豊璋は高句麗に亡命します。この百済国豊璋の亡命で百済は消滅し、また、大和国も同年9月に朝鮮半島から撤収します。この662年5月から663年9月までの間の戦役を百済の役といいます。つまり、白村江の戦いは百済の役の中での一つの戦闘シーンです。
 先の熟田津の歌の解説は、山上憶良の類聚歌林を引用して舒明天皇御代の舒明元年(628)と9年(637)とに、斉明天皇が夫である舒明天皇と連れ添って過去に二度ほど訪れたことのある伊予の湯に、その斉明天皇御代の斉明7年(661)正月に再び訪れたと云います。その時に、以前に舒明天皇と連れ添って訪れた三十年前の思い出の品がいまだに残っていたのを見て懐かしんだ斉明天皇が歌を口ずさみ、その口ずさみの歌が集歌8の歌であると言います。つまり、斉明天皇の口ずさみした歌を和歌として整え残したのが額田王と云うことになります。
 この歌の左注をそのままに受けると、この歌と百済の役での新羅への大和懲罰軍の派遣とは直接には関係が無いことになります。つまり、左注によると従来に考えられていた九州(娜大津)への軍船の出航の場面とこの歌とは直接には関係していないことになりますが、ただ同時に斉明天皇がそれを見て懐かしんだと言う肝心の三十年前の思い出の品も歌には詠われていません。歌の内容と左注とは一致していませんし、新羅への大和懲罰軍の軍団を乗せた外航航路の軍船団の船出の雰囲気もありません。実に不思議な歌と左注なのです。それで、古来、物議を交わしてきていますし、左注に「但、額田王謌者別有四首」と記すことで、斉明天皇の懐かしみとは何かの疑問から逃げているのでしょう。
 すると万葉集が編纂されたときに、宮中には斉明7年(661)正月に伊予国熟田津の石湯の行宮で祭祀采女だったと思われる額田王によって、出軍の寿歌の捧呈と戦勝祈願の神事をおこなったとの伝承があったと思われます。それを示すのが集歌8の額田王の歌ではないでしょうか。熟田津と言う土地を誉める歌を奉げて神に祈る姿です。
 集歌8の額田王の歌が出軍の寿歌の捧呈と戦勝祈願の神事と考えますと、困ったことに歴史では斉明天皇一行は難波からの新羅への大和懲罰軍の出軍の途中に、この伊予の石湯行宮に1月14日から3月25日頃まで長期に渡って滞在しています。これが物議を醸す原因になっています。長期滞在ですから、その間に大宮人達の余興としての夜間の舟遊びを楽しんだのではないかとか、後の世の平安貴族の生活等からの類推で色々な解釈が出てきています。
どうもその背景には「白村江の戦い」の評価と解釈があるようです。歴史に載る「白村江の戦い」の軍と「百済の役」の主体となる新羅への大和懲罰軍とにおいて歴史認識に誤解と混乱があるから、額田王の熟田津の歌の解釈も混乱しているのではないでしょう。そこで、斉明天皇の時代から天智天皇の時代の大和軍団による百済への義勇軍や新羅への大和懲罰軍の様子を見直してみます。
 最初に天智2年(662)5月の百済への援軍/義勇軍から確認していきます。まず理解していただきたいのは、日本書紀から「白村江の戦い」の部隊と「百済の役」の主体となる新羅への大和懲罰軍の部隊とは別組織だったことです。白村江で戦った部隊に大和朝廷からの百済への軍事顧問団とその隷属部隊が参戦していますが、これは正式には百済王豊璋の指揮下にある軍隊です。ところが任那・新羅へと進軍した「百済の役」の主体となる新羅への大和懲罰軍の部隊は大和朝廷の直接の指揮下の部隊です。
 日本書紀から軍編制を確認しますと、百済王への軍事顧問/護衛団は次の通りです。
 
百済王豊璋送使 将軍:阿曇連比邏夫
軍団規模:軍船百七十艘
百済軍事顧問/護衛団 団長:大山下狭井連檳榔
補佐:小山下秦造田来津
軍団規模:兵約五千人
増強百済救援軍 将軍:蘆原臣君
軍団規模:兵約一万人(?)
 なお、資料で表記の違いがありますが秦造田来津は朴市田来津と同じ人物と見做しています。さらに唐軍進出に対抗して増強軍として蘆原臣君が率いる百済への救援軍は、その百済への渡海前に白村江の戦いが起き、白村江の戦いでの敗戦と百済王豊璋の高句麗への亡命を受けて百済への派遣は中止になったと思われます。つまり、大和軍として白村江の戦いに参戦したのは狭井連檳榔と秦造田来津とが率いる百済王への軍事顧問/護衛団の兵力約五千人だけだったのです。
 一方、「百済の役」の主体となって新羅国に攻め込んだ大和懲罰軍は古来の大和の軍編制に則り三軍編制で、次のような組織になっています。
 
前軍(先鋒軍団) 大将:上毛野君稚子
補佐:間人連大概
軍団規模:兵約九千人
中軍(中段軍団) 大将:巨勢神前臣譯語
補佐:三輪君根麻呂
軍団規模:兵約九千人
後軍(後詰軍団) 大将:阿倍引田臣比邏夫(阿曇連比邏夫)
補佐:大宅臣鎌柄
軍団規模:兵約九千人
 
 ここで兵力や装備などの理解を深める為に百済の役頃の朝鮮海峡を横断する軍船などの状況を見てみますと、日本書紀の欽明天皇15年(554)の大和船では平均で兵士が25人/隻と軍馬が2.5匹/隻を乗せた数字、天智天皇元年(662)の百済王とその大和からの護衛部隊の渡海作戦では兵士では30人/隻(除く水手)の数字、天智天皇10年(671)の郭務悰が率いる中国軍船では総員からの平均で43人/隻の数字を見出すことが出来ます。他方、続日本紀の天平宝字5年(761)の対新羅戦争での動員計画では一隻当たりの乗員は兵士103人に水手41人の数字となっています。欽明天皇15年、天智天皇元年、天智天皇10年のものは戦闘艦を、天平宝字五年のものは遠洋航海の商用船/遣唐使船を下にした兵員輸送艦と考え、天平宝字5年のものを兵員輸送艦と言う特殊例とすると、東アジア諸国の戦闘艦は水手も戦闘要員とすると定員約40人程度の大きさと考えられます。
 もう少し調べますと、天平宝字5年(761)に、迎藤原清河使たち11人が安禄山の変により唐から帰国が出来なくなったとの通報を受けて藤原清河の救援に向かった時、唐が示した藤原清河の帰国許可条件を日本の朝廷に報告する為の緊急帰国の際、唐側が用意した船は越州所属の差押水手官が指揮する船です。沿岸警備隊所属の船ですからこれを軍船に準じたものと考えると、船長八丈(24m)の船を指揮官・下士官9人、射手を含めた水夫30人の計39人が操船したと記録します。これが当時の軍船の標準形なのでしょう。この船の大きさや総員数は百済の役での中国軍船や郭務悰の倭訪問の中国軍船と似たものとなっています。
 ちなみに天智天皇2年(663)の百済の役での白村江の海戦で、旧唐書と三国史記とを総合すると孫仁師が率いる唐水軍は齊兵七千人、船百七十艘の数字があり、平均42人/隻となります。これは天智天皇10年(671)の郭務悰が率いた大和訪問の中国船の平均43人/隻とほぼ同等です。参考として白村江の海戦で対抗した百済・大和連合軍は秦造田来津を攻撃隊長とする大和兵五千人に舟八百艘の数字があり、これは平均6.3人/隻となります。資料からすると白村江の海戦では中国海軍と大和軍とが戦ったようで、それぞれの同盟軍となる新羅軍や百済軍は互いに陸軍として岸で戦況を見守っています。また、旧唐書では「船」と「舟」の書分けがあり、漢字表記では「小曰舟、大曰船」と解説しますから、中国海軍は外洋渡海の軍船を使い、対する自前の軍船を持たない秦造田来津が率いる大和軍は地元百済の漁民から徴発した漁舟を使ったと考えられます。秦造田来津達は日本海軍の大将のような阿曇連比邏夫とその配下の軍船百七十艘により兵員輸送された形で百済へと渡っていて、自前の軍船による自力での百済渡海ではありません。
 ここで脇道に逸れますが、大和の正規の軍船を調べる過程の中で百済の役の直前となる、斉明6年(660)に阿曇連比邏夫は軍船二百艘を率いて粛慎国を攻撃します。その阿曇連比邏夫はすぐの天智元年(662)に軍船百七十艘を率いて、百済王豊璋と主将狭井連檳榔、副将秦造田来津が率いる大和軍で構成する護衛隊五千人の百済への輸送作戦を行っています。この日本書紀の記事からすると、百済への渡航時に百済王の護衛部隊として長期駐留する予定の秦造田来津の部隊は自前の軍船を持っていないことが判りますし、この朝鮮渡海で使用した大和軍の軍船は操船水手を除いて兵卒30人/隻の規模です。先の白村江の海戦時の平均6.3人/隻の舟の規模とは全くに違います。まず、紹介しましたように大和軍も正規の海軍軍船は定員約40人程度の大きさのもので、唐水軍の軍船と同規模と推定できるのです。
 追加参考で、白村江の海戦時の大和軍兵力五千人の根拠として、護衛部隊輸送の翌年に勃発した百済の役では、天智天皇2年(663)に三軍団・正副六将軍による大和軍中核部隊となる二万七千人の渡海作戦を行っており、それぞれの将軍は自前の軍船百五十艘ほどを率いて、各々の国内支配地域を出発し、博多付近に集結したと推定されます。つまり、総勢八百から九百艘の軍船集団による渡海作戦だったと推定されます。この正副六将軍による中核部隊は新羅本国への攻撃部隊であって、白村江の海戦に参戦するために事前に新羅戦線を離脱し、朝鮮半島南東部から海路転進して朝鮮半島南西部にある白村江に向かったとの記述はどこの国の歴史書に有りません。また、海戦敗退直後に実施した百済敗残の人々と大和軍の撤収や帰国への集結地から推測しても、大和軍の新羅攻撃を任務とする中核部隊の朝鮮半島南西部戦線への転進は確認できません。また、あるべき大和軍の撤収への追撃戦や朝鮮海峡海域での海戦の記録が中国側や朝鮮側にも無く、日本書紀などにも記録が無いのです。
 加えて、日本書紀では増強して来た中国軍に対応する為に、別途、廬原君が約1万の軍を率いて、百済(白村江)方面に派遣される予定となっていますが、白村江の海戦までに到着したとの記載がありません。ここからしても、白村江の海戦の勃発が廬原君の着任以前の出来事なら秦造田来津の部隊は大きな軍船集団を保有していないのです。
 ちなみに新羅を攻撃する中核部隊の上毛野君稚子は関東地区、間人連大蓋は丹後半島地区、巨勢神前臣訳語は近江・若狭地区、宗像一族と同族の三輪君根麻呂は大和地区と玄海地区、阿倍引田臣比邏夫(阿曇連比邏夫)は越前・越中地区、和邇一族と同族の大宅臣鎌柄は大和・河内地区に支配地を持つ一族です。このようにそれぞれの将軍の支配地域は全国に分散していますから、その支配地域から博多湾への集結手段として各将軍は自身の動員する部隊の移動の為にも軍船を保有する必要があります。つまり、それぞれが大規模な軍船動員能力を持つ豪族です。加えて、百済の役に先立つ、推古天皇御代の推古10年(602)には来目皇子を総大将として兵二万五千人による朝鮮海峡の渡海を前提とした新羅戦争を計画した前例がありますから、斉明4年(658)の唐・新羅の盟約成立の報告を受けて開戦準備をしていますと、天智2年(663)までには朝鮮海峡の渡海を実行するための軍船は整っていたと考えます。
 ここで目を転じて百済王への軍事顧問/護衛団についてみてみると、日本書紀の記事からは百済王豊璋と軍事顧問/護衛団とは作戦を進める上で意思の疎通が悪かったようで、朴市田来津(秦造田来津)は州柔(つぬ)の要塞に籠り持久戦を進言しています。対して、百済王豊璋は短期決戦による百済国の全面的な復興を目指して増強目的の百済救援軍である蘆原臣君が率いる1万の新たな大和軍団の到着前に、唐軍との決戦を踏まえてその前線基地となる避城(へさし)への前進を主張し実行しています。このため、白村江の戦いに狭井連檳榔や秦造田来津たち軍事顧問/護衛団が積極的に参戦したかどうかは不明ですし、増強目的の蘆原臣君の軍勢が戦局に間に合ったかどうかについても不明です。各国の歴史書は此処のところを詳しくは語っていません。ただ、参戦した軍船の数だけです。
 一方、白村江の戦い前後で、大和軍団で組織する新羅への懲罰軍は任那を回復し、新羅本土に向けての進撃中でした。この戦局下では秦造田来津が進言した州柔の要塞での篭城戦が有利なはずです。また、新羅に対する大和懲罰軍は陸戦の陸軍であり海軍ではありません。ここからすると蘆原臣君が率いる増強目的の百済救援軍の兵も陸軍の可能性が高いと思われます。私はこの増強目的の百済救援軍は、ちょうどその時、軍事空白地帯であった朝鮮半島南西部の占領が目的の増強軍ではないかと想像しています。もし、この想像が正しいのなら百済王豊璋が援軍となる陸軍部隊の蘆原臣君の到着を待たずに、唐水軍との海戦となる白村江の近郊の避城へ進軍したのも一つの作戦です。
 ただしかし事実としては白村江の戦いで敗戦したのは、百済遺臣の軍と百済軍事顧問/護衛団の軍だけなのです。このため復興したばかりの百済が再度の滅亡後、取り残された百済遺臣と住民は安全を求めて大和懲罰軍を頼って任那・伽耶方面に移動し、最終的に大和朝廷の懲罰軍の大和への引き上げに合せて難民・移住しています。このような情景があるがために唐・新羅・日本の各歴史書に「白村江の戦い」以降に朝鮮海峡で海戦が無かった理由と思います。「白村江の戦い」で大和軍が全軍壊滅するような事態なら、唐・新羅海軍は朝鮮海峡を封鎖するはずですが、それをしていませんし、また、しようとした形跡もありません。軍事的には対大和軍の戦いは海峡争奪戦でもあるはずです。
 ここで歴史を確認するために、この「白村江の戦い」の前段階に遡って見ますと、大和朝廷は斉明6年(661)9月5日に百済の達率(たちそつ)からの百済滅亡の通報を受けて、翌7年(662)正月6日に九州への下向を開始、3月25日に九州(娜大津)に到着しています。なお、日本書紀では斉明紀と天智紀では、多少、記事の混乱があり、百済王豊璋の百済での王位着任が、斉明紀の斉明7年9月説と天智紀の天智元年5月説がありますが、私は百済への義勇軍の派遣を考えて斉明紀の斉明7年9月説を採用します。
 日本書紀の天智紀からすると、熟田津の歌が詠われた斉明7年8月に大和朝廷は百済・高句麗救援軍を派遣しています。その編制は次の通りです。
 
百済・高句麗救援軍 二軍編制
輸送隊 將軍:大花下阿曇連比邏夫
前軍(先遣隊) 将軍:小花下河邊臣百枝
軍団規模:兵九千人(?)
輸送隊 将軍:大花下阿倍引田臣比羅夫(阿曇連比邏夫)
後軍(本隊) 将軍:大山上物部連熊、大山上守君大石
軍団規模:兵九千人(?)
 
 天智2年の新羅懲罰軍の軍団構成を元に百済・高句麗救援軍を率いる将軍の格から各軍団の構成兵員を公称九千人と考えました。つまり二個軍団の都合、公称一万八千人規模の派遣です。この百済・高句麗救援軍とは別に、大和朝廷は百済王豊璋の護衛を兼ねた軍事顧問団五千人を派遣しています。斉明7年9月の段階で、大和朝廷が送り込んだ軍団は三個軍団で公称では総勢二万三千人規模としていいのではないでしょうか。
 なお、百済・高句麗救援軍は、百済残党の兵と百済・高句麗救援軍との協同作戦により百済は国を回復し、新羅・高句麗・百済の三国が小康状態を保ったために、天智元年の早い時期に日本に引き上げたと思われます。想像で百済・高句麗救援軍のそのままの残留では、その後の朝鮮半島での大和朝廷軍の人数が五万人規模までに膨れ上がりますから、天智元年の後半では大和朝廷の朝鮮派遣軍は、百済軍事顧問団の五千人だけと思っています。
 では、この軍団派遣と準備の軍令はどこで出されたのでしょうか。
 百済・高句麗救援軍や百済軍事顧問団の軍構成は、大和地方や九州地方の豪族を中心とする血縁地縁による部族部隊とされています。間人連大概が率いる丹後半島の氏族や蘆原臣君が率いる東海の氏族も参加していますが、私は大和地方と九州地方の豪族が中心と思っています。まだ、律令体制による班田農民からの徴兵軍では無いでしょう。さらに軍の派遣の準備開始は斉明6年10月頃からですが、大本営はどこに置いたのでしょうか。私は臨時大本営を伊予の熟田津石湯行宮に置いたと思っています。ちょうど、大和と九州の中間点に近く交通の要所でもありますし、大型船の泊地も十分です。
 ここで一部の専門家は日本書紀や古事記は信用できない文献として、飛鳥・奈良時代の大和朝廷の人は瀬戸内海も満足に航行できずに地乗り航法しか出来なかったとしています。このために、地乗り航法の航路から外れる伊予の熟田津石湯行宮へは寄り道としています。一方、万葉集の歌や日本書紀の記事等からは難波と筑紫は瀬戸内海の沖乗り航路を使用し伊予の熟田津石湯行宮は芸予海域から防予海域での重要な寄港地となっています。およそ、天智天皇や大海人皇子たちは朝鮮半島へ数万の軍勢で渡海する軍事構想にあって大和の軍船が瀬戸内海を地回り航路でしか航海が出来ないなんて思いもよらなかったでしょう。
 なお、現在の歴史の解釈では万葉集の遣新羅使の歌などを引用して一部の専門家の案が正統になっていて、当時の船は瀬戸内海の沖を直線的に航海できなかったが朝鮮海峡は無理なく渡海できたと解釈することになっています。そして、大船が瀬戸内海を直線的に航海するのは平安晩期以降とするのが約束です。歴史書や平安時代初期の延喜式に載る徴税や旅程などの規定に矛盾しますが「古代文学での常識」としての約束です。
 
集歌8
原文 熟田津尓 船乗世武登 月待者 潮毛可奈比沼 今者許藝乞菜
訓読 熟田津に船乗りせむと月待てば潮もかなひぬ今は漕ぎ出でな
 
 この歌に示す月模様は3月の月齢21日から22日位の月ですから、半月の月が夜半12時位に昇って来ます。参考で旧暦での斉明7年3月21日は新暦4月28日に当たります。月齢としては夜間出港には向かない月ですが、旧暦晩春の日の出を考えれば早朝の出港準備には困らない程度の月ですし、新暦の4月28日ですから日の出は5時少し過ぎですので、払暁の4時過ぎにはそろそろ出港が出来るはずです。
 朝鮮動乱の時期に、大和朝廷の政府首脳はこの熟田津石湯行宮で2月間の日々を送っています。そして、「潮毛可奈比沼(潮もかなひぬ)」なのです。このとき、国内全域で朝鮮出兵の準備が急速に進められています。総勢二万三千人規模の軍団の九州娜大津への集結完了は9月ですから、動員令による一部の先遣部隊は6月前後には九州娜大津へ集結を開始していると思われます。古代でも、当然、朝鮮海峡の渡海を予定する大規模な動員には数ヶ月はかかるはずです。
 つまり、国内での手立ては全て打って、事態の進行を待つ段階まで来たのが斉明7年3月20日頃ではないでしょうか。従って、熟田津の歌とは「やる事はやった。さあ、行くぞ。」、こんな雰囲気での歌と私は思っています。
 
集歌8
原文 熟田津尓 船乗世武登 月待者 潮毛可奈比沼 今者許藝乞菜
訓読 熟田津に船乗りせむと月待てば潮もかなひぬ今は漕ぎ出でな
意訳 熟田津から船を乗り出そうと遅い月の出を待っていると、月も出て潮も都合が良くなってきた。さあ、漕ぎ出そう。
私訳 熟田津で朝鮮に出兵するための対策を立てて実行してきたが、全ての出陣への準備が願い通りに整ったし、この遅い月の月明かりを頼って出港の準備をしていたら潮も願い通りになった。さあ、今から出港しよう。
 
 いわゆる、「白村江の戦い」の大和の軍勢は、百済王の要請と承認を受けた軍事顧問/護衛団で、王都の位置の論争でも判るように百済王の指揮下に入っているような形で日本書紀では記述されています。新羅への大和懲罰軍は、別働部隊として大和朝廷による任那復興に主眼を置いた動きをしていますが、なぜか百済の最終滅亡後にはあっさり軍を引いています。出兵した各豪族は、百済・高句麗・伽耶難民を分配することで利益を見出したのでしょうか。
 穿って、当時の大和朝廷は大和民族の単独の王朝だったのでしょうか、それとも場合により、皇極天皇以降は大和朝廷とは大和・百済連合王国の形で、大和・百済連合王国が百済への義勇軍を派遣したが、その根拠となる百済王家と百済義勇軍が滅んだため、義理の無い大和民族は新羅と和解して大和に引き上げたのでしょうか。なぜか天武天皇系の皇族や蘇我系の氏族は新羅との協調を求め、天智天皇系や藤原系の氏族は百済との連合を求めます。日本書紀はその天智天皇系や藤原系の氏族の視点で書かれた史書であり、一方の古事記の大和民族を主体とするものとは若干ずれがあるようです。
 なお、天武時代頃から豪族に対して朝廷の力が勝ってくると朝鮮半島からの難民・移民は朝廷配下に納められ、東国開発の原動力とされるようになります。それらの多くの難民・移民は百済系の人々が中心ですから、建前上、対新羅戦争の対策ですと百済遺臣が先頭に立つのが筋となります。そして、東国の住民は朝廷直轄の百済系の難民・移民が中心です。朝廷としては、筋や建前として優先的に東国人を防人に使うのがやり易かったのではないでしょうか。それが兵の強弱とは別に「白村江の戦い」時代の兵の構成と奈良時代以降となる防人の兵の構成が違う理由ではないでしょうか。


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