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万葉集 柿本人麻呂とおほきみつの位

 万葉集の有名な歌人に柿本朝臣人麻呂がいます。今回は、彼の身分について考えてみたいと思います。
 その人麻呂は、古今和歌集の仮名序で「おほきみつのくらゐ」、真名序では「柿本大夫」と呼ばれています。ここから、「おほきみつのくらゐ」の意味する「正三位」はさて置き、古今和歌集が編纂された当時の認識は「柿本大夫」の表現から殿上人たる「従五位下」以上の官位を持つ官僚だったと推測されます。なお、平安時代も時代が下るにつれ、「大夫」は「五位」に限定するように解釈が変化しますが、ここでは奈良時代から平安時代初頭の「大夫」の意味である「従五位下」以上の官位を持つ官僚として解釈します。
 一方、続日本紀には従四位下の官位で死亡した柿本朝臣佐留の記録があります。この柿本朝臣佐留の「佐留」は元明天皇の好字令から好字二文字で「猨」を表記したものと思われ、日本書紀に現れる小錦下(従五位相当)の位を拝受した柿本朝臣猨と同一人物と考えられます。すると、柿本佐留の活動時期や死亡時期からしますと、万葉集の人麻呂と正史に載る佐留とは同時代人で、共に従五位下以上の殿上人を意味する「大夫」です。
 この「大夫」については、万葉集 巻二 集歌135の歌で人麻呂自身が「大夫跡 念有吾毛」の言葉を使っており、その歌が万葉集の巻二に採歌されていること自体から推定して、歌が詠われた時代やその歌を万葉集に取り入れた時代を通じて、人々の認識は人麻呂が「大夫」だったと考えられます。この認識が真名序の「柿本大夫」です。つまり、柿本朝臣人麻呂の記録は正史にはありませんが、殿上人たる「従五位下」以上の官位を持つ官僚だったことは確実と考えられます。
 また、柿本朝臣人麻呂は、平城京や平安京よりも大きな規模を持つ飛鳥藤原京を建設し、その時代を指揮した太政大臣高市後皇子命の葬儀にあって、朝廷を代表して葬送の挽歌を詠った人です。また、その時代の中心的な皇族たちへ和歌を献上する、葬儀での挽歌を詠う、持統天皇の地方行幸で和歌を献上する、これらの姿から、政府中枢に関わる人物だったことも確実です。それで、人麻呂が歌で自身の立場を「大夫」と表現しても、また、万葉集の編纂にあっても不適切では無かったのでしょう。
 そうした時、その柿本朝臣と云う氏族を考えますと、小錦下(従五位相当)以上の貴族階級が少なかった飛鳥藤原京時代、同時期に二人の「大夫」を輩出するとは考えにくいことです。律令体制での正規の五位以上の貴族階級の法定の人数は大宝律令では146人程度で、飛鳥浄御原宮令の時代であれば陸奥国や長門国以外の多くの国守は大山(六位相当)級の扱いですので、国守を抜くと103人程度になります。つまり、柿本朝臣人麻呂と柿本朝臣佐留(猨)とは、皇親政治の時代の皇族を含めた五位以上の貴族が100人程度の時代に五位以上の格を持つ貴族です。それで、柿本姓の一族として同時期に二人は貴族に成れない、任命されないだろうと考える訳です。従いまして、ここでは佐留(猨)を姓氏録に載る本名とし、人麻呂を世間での通称となる仮名と推定します。
 次に下記の表を見て下さい。これが奈良時代に歴史に現れる柿本朝臣一族の事跡です。柿本臣と云う氏族の規模と相続関係から、官人登用や選叙での特権を約束される「朝臣」の姓は柿本朝臣佐留の直系の家系に限られると想定します。ここで、従五位下への昇階年代に注目しますと、建石が神亀四年(728)正月であり、市守が天平二十年(748)二月です。そこには、ちょうど二十年の間隔があります。これらの記事の年代から推測して、佐留、建石、市守の三人には祖父・親・長男の関係が見出せると仮定することが可能ではないでしょうか。
 つまり、ここで提案する二つの仮説、「柿本朝臣佐留は柿本朝臣人麻呂と同一人物である。佐留、建石、市守の三人には祖父・親・長男の関係が見出せる」を、今後の議論の出発点としたいと思います。なお、浜名は「外従五位下」の官位などに注目して、彼は蔭位では長男ほどには優遇されない建石の弟(または、養子筋)で、市守に対しては叔父にあたると推定します。また、小玉は黒玉として東大寺修二会の過去帳に登場するように東大寺大仏にかかわる一族ですが銅の鋳物師の頭領と思われるため考察からは外します。
 
和銅元年(708)四月            従四位下    柿本朝臣佐留 卒す
神亀四年(728)正月            正六位上    柿本朝臣建石 従五位下に昇叙
天平九年(737)九月            正六位上    柿本朝臣浜名 外従五位下に昇叙
天平十年(738)四月            外従五位下 柿本朝臣浜名 備前守に叙任
天平二十年(748)二月        正六位上     柿本朝臣市守 従五位下に昇叙
天平勝宝元年(749)閏五月 従五位下     柿本朝臣市守 丹後守に叙任
天平勝宝元年(749)十二月 正六位上     柿本小玉 外従五位下に昇叙
天平勝宝二年(750)十二月 外従五位下 柿本小玉 外従五位上に昇叙
天平宝字元年(757)六月     従五位下     柿本朝臣市守 安芸守に叙任
天平宝字五年(761)十月     従五位下     柿本朝臣市守 主計頭に叙任
天平宝字八年(764)正月     従五位下     柿本朝臣市守 従五位上に昇叙
 
 建石は従五位下への昇叙の記録だけで歴史から消え、浜名もまた備前守への就任記事を最後に歴史から消えます。そこで、比較的記事の多い市守にスポットを当てたいと思います。彼は、天平中期以降に歴史に登場し、最終的に主計頭の官職と従五位上の官位に就いています。中級氏族である柿本朝臣一族としては、まずまずの役職官位を頂いたものと考えます。
 この市守は表に示すように天平二十年(748)二月に正六位上から従五位下に昇叙し、その翌年に丹後守に叙任されています。そして、天平宝字五年(761)十月に主計頭に叙任しています。先の仮定で佐留、建石、市守の三人には祖父・親・長男の関係が見出せるとしますと、市守は蔭による出仕で、二十一歳の時、従五位下柿本朝臣建石の子として、嫡子の長男では従八位上、庶子では従八位下から官人生活がスタートします。正式の選叙期限四年で常に優秀とされた場合、従五位下になるのは嫡子では九階級を昇る三十六年後、五十七歳の時となり、庶子では十階級を昇る四十年後、六十一歳の時となります。これでは主計頭への叙任が嫡子で七十歳か、庶子では七十四歳となります。まず、職務と年齢を比較すると、これはあり得ません。(注:継嗣令から嫡子を嫡妻の長子と解釈しています)
 なお、佐留と市守との間に親子関係を想定しますと、佐留の死亡時期から推定して天平二十年時点で市守が一番若い場合で四十一歳です。佐留は天武十年(681)に小錦下(従五位下相当)に昇叙していますから、市守が長男だった場合、佐留のその後の昇叙を考え、佐留が従四位下の場合で従七位下、正五位上の場合で従八位上からの出発となります。その場合、四十一歳で従六上又は正七位下にしか到達しません。これでは天平二十年(748)二月に正六位上から従五位下へと昇叙した史実と合いません。従五位下へと昇叙に合わせるため、天平二十年時点での市守の年齢を八歳から十二歳ほど増すことも可能ですが、その場合、主計頭への就任年齢が六十歳以上の高齢になります。これもまた、難しいと思います。
 では、逆算をしてみましょう。朝廷の実務官僚としては重要なポストである主計頭(現在の財務省主計局局長)への叙任を五十五歳と仮定してみます。すると、天平二十年(748)二月の時点では四十二歳となり、蔭の立場での官人生活二十一年目となります。つまり、五回の選叙を経て従五位下に昇叙したことになります。ここからすると正七位上が柿本市守の官人生活の出発点となります。蔭による二十一歳での出仕とすると、三位の祖父の庶孫であれば規定では正七位上が与えられます。もし、嫡孫であれば従六位下での出仕となり、順調な出世では四回の選叙で従五位下へと昇叙ができます。およそ、三十七歳のこととなります。その場合、主計頭への就任は五十歳です。これですと、一番、油の乗りきっている年齢です。
 律令制度の選叙令からの逆算結果から、祖父が三位でなければ柿本朝臣市守が五十歳代で主計頭に就任することは難しいことが判りました。そこでもう少し、周辺の様子を見てみます。柿本市守に前後して主計頭に就任した人物を探してみますと、記録が明らかものでは次のような人物が天平九年から順に就任していることが判ります。
 
阿倍朝臣吾人      従三位阿部朝臣広庭の子又は近親者
石川朝臣牛養      従三位石川朝臣石足の子又は近親者
秦忌寸朝元          辨正法師の子、辨正は遣唐学僧、長安で死亡。朝元のみ帰国
阿倍朝臣鷹養      従三位阿部朝臣広庭の子又は近親者
柿本朝臣市守      柿本朝臣佐留の孫?
多治比真人木人  正二位多治比真人嶋の孫又は近親者
石川朝臣己人      従三位石川朝臣石足の孫又は近親者
宍人朝臣継麻呂  光仁天皇の側近か?
百済王武鏡          従三位百済王敬福の子
 
 宍人朝臣継麻呂と秦忌寸朝元を除きますと、三位以上の人物を出した一族の子や孫筋の人物です。従五位下相当職の主計頭への就任は、およそ、蔭位の制度からの昇叙が背景にあったと推定されます。こうした時、日本の律令制度下では養子縁組に対する制限は緩く、養子であっても蔭位制度の恩恵は受けられました。従いまして、一族で優秀な人物であれば近親者の蔭位の恩恵を受けたと推定しても間違いはないと考えます。
 一方、秦朝元の父親辨正法師は唐の玄宗皇帝と碁を打つ仲であったと伝えられているような優秀な学僧で、留学先の唐で還俗させられ現地の女性に子を産ませています。その子の一人が秦朝元です。朝元は養老二年ごろ遣唐使の帰国に同行する形で帰朝しています。その後、天平二年には語学教授に任命され、その翌年の天平三年に正六位上から外従五位下へと昇叙しています。これは、山上憶良の例からすると、遣唐使随員の功績に準じる形での特進などがあったと考えられます。なお、歴史上では宍人朝臣継麻呂のように、光仁天皇即位の論功行賞の報奨のように三月間だけ主計頭に就任した人物もいますが、これは検討から除外しました。宍人朝臣継麻呂は若狭守を経て宝亀八年正月に主税頭になりますが、これまた翌年宝亀九年七月には宮内少輔に出されていますので、ちょっと、特殊な人事です。それ以前では実務官僚の任官については光仁天皇以前にあっては、おおむね、標準考課の年限以上を務めての交代です。
 このように律令制度の選叙規定からすると五十歳代までに主計頭に就任することは、親が、その子が出仕する以前に五位以上の官人でなければ特段の事情がない限り困難です。特に市守の場合、主計頭への就任以前に従五位下の官位で丹後守と安芸守に就任していますから、先に見たように親となる柿本建石が市守の出仕以前に正四位でなければ、先に検討した市守の昇叙の条件を満たしません。ところが、続日本紀では天平九年頃から任官の記録は詳しくなりますが、そこには柿本建石の昇叙や叙任の記録はありません。建石は早い時期に死亡したか、従五位下で止まったと思われ、市守の出仕以前に正四位以上だった可能性はないと考えます。
 そこで、市守の祖父筋に当たる柿本朝臣佐留に従三位が与えられる可能性を検討してみます。
 柿本一族は祖を鏨着(たがねつき)大使主とすることから古代では鉱山や冶金に関わる種族と推定され、また、東大寺大仏建立の鋳物師の頭領として柿本小玉が外従五位上に報奨・叙勲されるように、銅などの金属の精錬に深くかかわる一族です。一方、長門国大津郡には柿本人麻呂が帰京の途中に海難に遭遇したとの伝承が残り、万葉集には石見国で海難死を示唆する標題を持つ歌が残されています。最初に提案しました仮説に戻りますが、柿本朝臣佐留=柿本朝臣人麻呂としますと、従四位下柿本朝臣佐留は公務での帰京の途中に長門国大津郡から阿武郡の沖合で海難死したとの推測が可能となります。ちなみに飛鳥浄御原令時代の長門国は陸奥国と大宰府と並ぶ重要国で国守は従四位格が当てられていて、大宝2年(702)に、三輪君高市麻呂は従四位上の位で長門国守に就いています。従四位下の柿本朝臣佐留の死亡は和銅元年(708)ですので、柿本朝臣佐留=柿本朝臣人麻呂と考える時に長門国から石見国沿岸部に人麻呂の死亡説があるなら、つまり、佐留が長門国守の現役時代に公務で海難死した可能性が考えられるのです。
 奈良時代には銅や鉄の鉱山の開発は国家の財政でした。朝廷は銅銭を流通させ、官人には鉄鍬を報酬の一部として支給しています。銭は米や必要な物資と交換され、物資は官途に使用されます。その通貨流通の基盤を支えたのは日本銀行金融研究所 貨幣博物館が指摘するように長門国大津郡から美祢郡の銅です。奈良時代を通じ、長門国の銅鉱山は東大寺の大仏の銅を一手に引き受けるような国家最大の鉱山でした。つまり、柿本朝臣佐留が国守として長門国の鉱山経営を行っていたのなら、国家財政の大きな功労者となります。
 さらに、柿本朝臣佐留=柿本朝臣人麻呂としますと、万葉集の歌から推測して壬申の乱に天武天皇側の一員として参加した功臣です。さらに、草壁皇子や高市皇子の挽歌を奉げたように国家を代表する立場の一員です。その人物が公務途中での殉職であれば、死後贈位があっても良いと考えます。想像として、従四位下柿本朝臣佐留は和銅元年(708)四月以降に死後贈位として従三位が与えられたと考えます。
 なお、壬申の乱の功で死後贈位を受けた例として、従四位上大神(大三輪)朝臣高市麻呂が従三位を頂いています。壬申の乱の功労者の病老死でも三階級特進の事例が有りますと、従四位下柿本朝臣佐留に対して殉死+壬申の乱の功とを併せた四階級特進の可能性は捨てきれないと思います。「おほきみつの位」=正三位については、持統天皇と柿本朝臣人麻呂の関係を考えた場合、殉死+壬申の乱の功労+朝廷への功労、特に草壁皇子と軽皇子への関与を踏まえると、元明天皇からの特別の思し召しがあったかもしれません。ただし、柿本市守の叙位からはそれは検証できません。
 参考に、続日本紀に柿本朝臣佐留に関わるそのような記録が載っていないとの指摘には、例として、大伴宿禰旅人の任官・昇叙の記録の全てが載っているわけでもないことを指摘しておきます。大伴宿禰旅人のような大物でも、いつ、正三位に昇叙し、大納言に任命されたのかは続日本紀に記録はありません。また、万葉集の集歌224の歌の標題「柿本朝臣人麿死時」の「死」の用字から、六位以下の官人と解説するものもありますが、万葉集では身分や官位とは関係なく集歌416の歌の標題「大津皇子被死之時」、集歌441の歌の標題「左大臣長屋王賜死」のように表記されることがあります。大津皇子や長屋王については犯罪者に対するものとの指摘があると思いますが、そのような御方は続日本紀などの正史の精査を願います。続日本紀では廃皇太子他戸王を庶人と規定していますが、その死亡を「卒」とします。およそ、公式の位記や姓氏録での記録ではない場合、「死」の表現から当該人物が直ちに六位以下又は庶人であるとの推定は律令規定の「薨奏令」に寄り掛かり過ぎ、その実証がなされていないと考えます。参考として、その長屋王は誣告による冤罪であることが明らかとなり、宝亀五年(774)までには名誉を回復し死後贈位により、続日本紀では左大臣従一位の官位官職となっています。もし、万葉集の編纂時期に「薨奏令」の規定を厳密適用すると、長屋王に対して「死」の表記を用いることは相応しくないことになります。他にも続日本紀では神亀元年(724)の従五位下佐伯宿禰児屋麻呂の死亡時の葬物についても「為其死事也」と記し、天平神護元年(764)の従五位下石川朝臣永年の任地での自殺事件では「自縊而死」と記します。また、続日本紀では遣唐使などの海難死や戦闘に参加しての戦死などは、身分にかかわらずにその死亡は「死」と表記します。推定で事件に関わる場合、「死」の文字を使う慣習があったかもしれません。
 平安時代初頭、古今和歌集の仮名序で「おほきみつのくらゐ」と記した紀貫之(866-945)の親戚に真済僧正(800-860)がいます。その真済僧正と柿本人麻呂の関係において、真済僧正の父親紀御園(又は祖父紀田長)の代に柿本朝臣一族から女を入れ、姻戚関係が出来ています。そのため、柿本系の母を持つ真済僧正は別名で柿本僧正や柿本紀僧正とか称されています。その真済僧正は何らかの関係で柿本人麻呂を尊敬し、自身で人麻呂像を彫り、それを奈良県葛城市新庄町の柿本神社の境内に堂を建て祀りました。それが現在の影現寺の縁起です。従いまして、柿本朝臣一族が祀る柿本神社の境内に堂を建てた真済僧正は、柿本朝臣一族では出世頭である柿本佐留や柿本市守達の先祖の話は十分に聞き知っていたと考えられるのです。
 生没年などを考えると、柿本人麻呂、柿本市守、真済僧正、紀貫之は、ぎりぎり、親又は祖父達からそれぞれ先人の人生談を聞けた可能性がありますし、伝承が消え失せるほど離れた関係ではありません。柿本人麻呂の伝承が紀貫之に伝わっても不思議ではありません。柿本市守に関係しますが、奈良時代に市守から二十年の後に紀一族の紀田長が主計頭を務めています。この紀田長の父親は大納言正三位に昇った紀船守です。そして、紀貫之はその紀船守の直系五世の子孫です。従いまして、紀貫之にとっても朝廷での主要官僚である主計頭を務めた柿本市守の蔭位の由来は重要な関心事の一つでもあったと考えます。
 結論として、柿本市守の蔭位の由来を推測すると、柿本朝臣佐留に死後贈位として従三位が贈られた可能性は非常に高いと思います。これが「おほきみつのくらゐ」の伝承と思います。そして、仮定した通りに柿本朝臣佐留=柿本朝臣人麻呂と考えます。
 なお、戦死以外の死後贈位の蔭の恩恵は一階級下るのが規定としますと、柿本市守の蔭位は嫡孫で正七位上、庶孫では正七位下となります。彼が従五位下になるのは順調に昇叙して嫡孫で四十二歳、庶孫では四十六歳です。これでも五十歳代での主計頭への就任となります。ただ、柿本佐留の死亡時期と市守の初任時期との制限がありますから、可能性としては柿本市守が佐留の嫡孫で四十二歳に従五位下に昇叙したと推定します。
 注意事項として、ここでの推定は政治的な動きでの抜擢人事がないことを前提としています。仮に柿本市守が藤原仲麻呂派(又は光明皇后派)に属し、天平二十年以前に抜擢人事での昇叙を受けていた場合は、すべての前提条件は崩れます。
 感想ですが、柿本朝臣一族の歴史では柿本朝臣市守の従五位上が最後の高位です。この場合、子だけが蔭の恩恵を受けますが、嫡子で従八位上、庶子では従八位下から官人生活がスタートします。この場合、どれほど優秀でもおよそ六十歳で従五位下に辿りつくだけです。その次の世代は、親が従五位下の官位を頂く以前に出仕する関係上、大学を優秀な成績で卒業する以外、二十五歳小初下からの出発となります。こうなると、尋常な年齢では、もう、従五位下の大夫の位に就くことは不可能です。こうして、柿本朝臣一族は歴史の闇に消えていかざるを得なくなります。
 逆にこの蔭位制度の制約から、次第に三位以上の人物を常に輩出する有力氏族だけが「卿」や「大夫」の地位にありつけるように集約されていきます。藤原氏主流は祖父・親の事跡で生まれる子は五位以上の殿上人たる身分を約束されています。これが血や氏姓での生まれながらの身分での「高」の感覚です。一方、古今和歌集を編纂した紀友則、紀貫之、凡河内躬恒、壬生忠岑たちは、良くて二十一歳嫡子で従八位上、庶子では従八位下からの出発です。悪ければ二十五歳小初下からの出発です。先に見たように官人生活では一生かかっても、やっと従五位下です。これが、壬生忠岑が古今和歌集歌番1003の一節「人麻呂こそはうれしけれ、身はしもながら言の葉をあまつ空まて聞こえあげ」で示す、血や氏姓での生まれながらの身分での「下」の感覚と思います。
 紀友則や紀貫之たちが上を見て嘆いた平安時代前期、臣下では藤原、伴(大伴)、紀が有力氏族とみなされていました。その紀氏一族である紀友則や紀貫之から見れば、柿本はさらに「下」の氏族です。そうした、血=身分と云う時代にその身分の中だけで生活をし、生きていかなければならなかった人々の感情は、職業選択の自由がある今を生きる私たちにはなかなか分からない世界と思います。
 ここに、柿本人麻呂の官位問題を扱う時、平安時代人が述べる「身はしもながら」と云う言葉が、直接に現代人が想像する「官位が下」と云う意味にはならないことを思い浮かべて議論する必要があると提案します。
 一つ、参考に万葉集に次のような歌があります。この歌群が柿本人麻呂とその妻との相聞としますと、人麻呂は「中上り」をする身分です。おおむね、「中上り」とは、国守の任期途中に上京して業務報告をすることを意味しますから、それを業務として行う人麻呂は国守だったと推定されます。万葉集にはこのような歌があることも忘れることはできません。
 
与妻謌一首
標訓 妻に与へたる歌一首
集歌1782
原文 雪己曽波 春日消良米 心佐閇 消失多列夜 言母不往来
訓読 雪こそば春日(はるひ)消(け)ゆらめ心さへ消(き)え失せたれや言(こと)も通はぬ
私訳 積もった雪は春の陽光に当たって解けて消えるように、貴女は私への想いも消え失せたのでしょうか。私を愛していると云う誓いの歌もこの春になっても遣って来ません。
 
妻和謌一首
標訓 妻の和(こた)へたる歌一首
集歌1783
原文 松反 四臂而有八羽 三栗 中上不来 麻呂等言八子
訓読 松(まつ)返(かへ)りしひてあれやは三栗(みつくり)し中(なか)上(のぼ)り来(こ)ぬ麻呂といふ奴(やつこ)
私訳 松の緑葉は生え変わりますが、貴方は体が不自由になったのでしょうか。任期の途中の三年目の中上がりに都に上京して来ない麻呂という奴は。
貴方が便りを待っていた返事です。貴方が返事を強いたのですが、任期の途中の三年目の中の上京で、貴方はまだ私のところに来ません。麻呂が言う八歳の子より。
 
 さて、柿本人麻呂は国守の身分であり、どこの国から「中上り」をしたのか、これを真面目に研究した柿本人麻呂研究者は居ないようです。それでいて、昭和から平成時代前期頃までは、柿本人麻呂は猿丸大夫と称されるある種の旅芸人や遊行詩人だった説が流行しました。それで古今和歌集の仮名序での「おほきみつのくらゐ」、真名序での「柿本大夫」に違和感を持つのです。恋人と和歌で相聞する年齢ですが既に国守の身分であり、その後も順調に官位を上げるとどうなるかの想像はありません。また、大宝律令が出来た時、従来の飛鳥浄御原令での官位官職と大宝律令での官位官職との調整で、その時の官職に応じて多くの人の官位は特例昇階しています。例として外官の処遇にあって、六位格相当の大山位の国守の多くは従五位下級への格上げですし、陸奥国や長門国の国守は従四位級への格上げです。柿本人麻呂はこの特例を受けた時代の人です。これも見落とされた歴史の事実です。ただ、長門国は平安時代までには鋳銭司との関係などを含めて国格が中国に格下げされ、国守は六位格となっています。このため、飛鳥・奈良時代初頭と平安時代初頭では扱いは大きく違います。


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