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万葉時代、先入観の怖さ、藻塩焼

 以前に「万葉時代、海女、全裸の乙女たち」で、万葉集に詠う海女娘子の姿は磯褌と称されるひも状の褌だけを身に着けたほぼ全裸だったと紹介しました。今回はその関連の藻塩焼を話題として与太話を行います。
 さて、万葉集にただ一首だけ、播磨国印南野への御幸の中で淡路の名寸隅の浜で若い海女たちが真っ裸で漁をしている噂を聞き、そこへ出かけて行って、その様子を見たいと詠った歌の中で、集歌935に「藻塩焼きつつ」と詠う箇所があります。この言葉から他の万葉集の歌に「塩焼く」と云う言葉があれば、それは「藻塩焼く」だと断定する解釈が1980年代ごろから観光産業促進の材料の一つとして提案されました。
 また、塩業に関して1985年の日本専売公社の廃止に伴い、塩の製造に自由性が生まれ、地域の特色を生かした塩を生産する機運が生まれました。それ以降、万葉ロマンを利用すると塩に高い付加価値が付くことに着眼し、日本全国に観光資源としての藻塩製塩の産地が誕生しました。この藻塩製塩と云う言葉は考古学研究などの学問分野から生まれたものではなく、万葉ロマンと言う観光促進の空気感の下に生まれ、それを逆に考古学などの学問分野では確認された既成の事実として扱わなければいけないような「空気」を造った非常に特異的な事例です。
 加えて、東北のある神社では藻塩焼神事なるものが行われていますが、塩焼き神事で用いる塩焼神器自体は平安時代末期の12世紀頃に使用開始の由緒を持つ、古社神事としては比較的に新しいものです。また、神事で示す製塩法は西日本方面の古代製塩法から見ると歴史的には奈良時代以降の新しい鉄釜製塩法でのもので、主に西日本を中心とした弥生時代以前に遡る製塩土器を用いた製塩法とは違います。また、その藻塩焼神事では竹簾と海藻「アカモク」でもって鉄製の塩釜を覆う形をとりますから、場合により、火力による水分を強制的に蒸発させる煎熬(せんごう)法では無く、海水を自然蒸発に委ねる古代の「あじろ釜/あじろ皿」による製塩技法がルーツの可能性があります。
 この「あじろ釜」は、塩水を平皿に放置しておくと塩水の水分が自然蒸発し皿に塩が残る現象を大規模にしたものです。この場合、釜を火力で炊き強制的に海水を煮詰めることをしませんから、塩水が漏れないような竹籠の表面に粘土を塗ったような巨大なお盆のような容器でいいことになります。籠を編んだ釜なので「あじろ釜」と称し、自然乾燥中の天水の影響を避けるために海岸近くのがけ地に洞穴を掘り、そこに「あじろ釜」を据え付けて、海水を貯めます。推定で日本の気候なら1週間ほどで水分が自然蒸発して塩が取れたと考えられます。その乾燥期間の間にほこりや海岸の砂が風で塩に混じらないように「あじろ釜」の上を竹や萱の簾で覆ったと言います。
 一方、藻塩焼神事は塩竈を火力で炊いて塩水の水分を蒸発させますから、弥生時代からの伝統の製塩土器が土釜や鉄釜に進化した後の形態です。これに別系統の製塩技法の「あじろ釜」とが融合したのかもしれません。ただ、平安時代末期の12世紀頃、鉄製塩釜は財力を示すものですから、古代の「あじろ釜」と財力を示す鉄釜を組み合わせて神事にしたかもしれません。又は、古式の「あじろ釜」が平安時代末期ごろに近代的な鉄釜製塩法と置き換わったのかもしれません。
 面白いことに、自然乾燥による「あじろ釜/あじろ皿」は九州西部方面にあって古代に南洋の影響を受けたと思われる地域に特徴的に存在し、それ以外の地域では弥生時代からの製塩土器を用いて海水を煮詰める煎熬法です。これが奈良時代に起きた鉄器製造能力の向上とコストダウンにより西日本を中心に製塩鉄釜が普及し、製塩コスト競争の結果、あじろ釜による自然蒸発法製塩や製塩土器による煎熬製塩は歴史的に終了しています。製塩自体では薪を使用して火力で煮つめる方式が合理的で安価であり、製塩鉄釜と製塩土器との熱効率の差、製塩土器の耐久性などで、コスト差が生まれ、煎熬製塩では鉄釜を使うのが標準になったようです。なお、地方によっては鉄釜の調達問題から、あじろ釜に耐火性を持たせたような土釜で代用しています。
 ただ、大規模で燃費の良い平らな製塩釜(土釜、鉄釜)による製塩法は、逆に製塩原料として大量で安価な鹹水(濃縮海水)が必要になります。このため、古式入浜と称される原始的な入浜塩田などと組み合わせて大量の鹹水を得る手段が必要になります。紹介しましたように、この種の強制炊きの煎熬製塩での平釜製塩法は大量生産・大量消費を前提とする製塩業のもので、逆に日常で使用する食用塩ではなく観光地のお土産品として現代に生まれた藻塩焼き製塩法とは方向性が全くに違います。
 昭和後期にベストセラー「水底の歌」により柿本人麻呂と万葉集とがブームとなり、それに乗った飛鳥の里に観光ブームが起きました。それを見た全国各所で、ちょっとでも解釈の可能性があれば、万葉集ゆかりと観光宣伝することがはやりました。何らかの関係の可能性を信じることが万葉ロマンであり、ロマンは創り育てるものと云う理屈でした。身も蓋も無いのですが、ご当地自慢の中でその万葉ロマンの歴史的な根拠を聞くのは野暮と云う観光業の世界です。それは確かに学問の世界ではありません。ただそれでも、地域によっては観光の為に学問的な支えを探る努力を続けています。現在でも日本各地に残る、昭和時代に建てられた万葉集に関わる歌碑などでその時代の熱気を感じることが出来ます。平成時代後期に、コミックに登場する場所へ訪れることを「聖地巡礼」として話題となったように、藻塩生産地のルーツも同じように昭和時代の万葉集ブームとその時に生じた地方の観光産業からの要請とを切り離して扱うことは出来ないのです。
 さて、香川県は江戸時代から昭和中期まで自然環境を生かし製塩業が盛んでした。この歴史的背景により、土地柄、製塩に関する歴史的研究が盛んで、その研究成果の情報発信にも力を入れています。その一環で「古墳時代における瀬戸内の塩作り(香川県埋蔵文化財センター)」と云うものがあり、そこでは弥生時代から奈良時代までの製塩技術を紹介しています。
 遺跡・遺物を下に判明した瀬戸内海地域での弥生時代から飛鳥時代までの製塩法は、基本的に土器製塩法です。つまり、非常に単純で、安価な土師土器に海水を汲み、それを焚火で煮詰めて塩を採取する方法です。弥生時代から古墳時代前期までは土器のサイズは小さく、それが古墳時代後期から飛鳥時代になると土器のサイズが大きくなる特徴があります。ただ、香川県下の古代製塩は飛鳥時代までには下火になります。一方、大阪湾沿岸地域では古墳時代中期に最も塩作りが盛んになる状況からすると、古墳時代中期には既に塩は広域に流通していたと思われます。しかし同時に古代にあっても価格と云う経済合理性が求められたようです。香川県から畿内への流通コストを含めた時、その販売価格が高ければ需要が無いと云うことです。古墳時代後期になると畿内では香川県産の塩では運搬費用を含めると大阪湾沿岸産の塩に価格競争で負けたと考えられます。
 面白いことに、岡山県の調査では、飛鳥浄御原宮から飛鳥藤原京の時代に律令制度への整備の一環で瀬戸内海の海上交通の整備により瀬戸内海北岸地域から難波大津までの輸送費が下がると、吉備地域(備讃瀬戸内地域を含む)で、従来よりも数倍の大きさを持つ丸底型の大型土師器を使った製塩業が復活、盛期を迎えます。ただ、これも一時の盛期のようで、奈良時代までに生産効率が良く規模が大きい平らな鉄製の製塩釜による製塩法が各地に普及すると、大型土師器を使用した製塩法は消滅します。直径6尺弱の大きな鉄製塩釜について、和銅2年(709)の筑前国観世音寺資材帳、天平9年(737)の長門国正税帳、天平10年(738)の周防国正税帳に記載がありますから、この時代に民政向上のために安価な鉄製塩釜による製塩を国は国費で普及させていたのでしょう。
 加えて、古代での磯や干潟の潮だまりでの自然の太陽光による水分蒸発で出来た自然鹹水の採取・利用から、さらに鉄製塩釜の生産効率を上げるために遠浅の浜を利用した自然浜式の濃縮池による古式塩田を用いて、浜での天日によって海水を蒸発・濃縮する「採鹹」技術が現れて来ます。この自然浜式濃縮池の古式塩田は鎌倉時代までには、さらに人工的に土手や溝を造るなどの改良を加えます。同時期に、満潮や波でせっかく濃縮した海水が希釈されないように、その干満や高波の影響を受けない小高い浜辺に海水を貯める遮水性を持った粘土層で非常に浅いプールを築き、さらにその上に粒子の荒い砂を敷き、荒砂の表面によって太陽光による蒸発面積を増加させる工夫をした揚浜式塩田を発明しています。このようにして自然地形に頼らない形で塩田適地を広げ、産地間競争の下、生産規模を拡大したようです。この鉄製塩釜と揚浜式塩田を用いた製塩法は、17世紀に現れた入浜式塩田や近代の流下式枝条架併用塩田による採鹹技術が現れるまで、続いていた技術です。およそ、奈良時代までには地域間の製塩コスト競争を通じて、明治初期に通じる製塩技術が確立しています。藻塩は観光地の土産物ですが、食塩は日常の必須調味料である分、販売価格競争は激烈になります。古代も現代も製品コスト競争にさらされ、産地生き残りを賭けた生産者の努力には頭が下がる思いです。
 さて、万葉集の塩を詠う歌について、漢字で「塩(鹽)」と表記した場合、干満潮の「潮」に相当する「塩」と、塩分などの「塩」に相当する「塩」との二つの意味合いに分かれます。さらに、「傷口に塩を塗る」や「塩辛」などを詠う歌を除き、製造工程に関わるものを詠う歌だけを探しますと、万葉集4500首ほどの中で、全部で14首の歌を見ることが出来ます。この内、12首が塩焼きの風景を、1首が藻塩焼きの風景を、残りの1首が浜での藻刈りと塩焼きの両方の風景を詠います。
 一般には次の集歌935の長歌に載る「藻塩焼き」を基準として受け取り、集歌938の長歌に代表されるように他の「塩焼き」の歌も拡大解釈して「藻塩焼き」と理解します。ここが、昭和に生まれた藻塩産地のミソです。「藻塩焼き」と「塩焼き」とが、別ものではロマンが生まれないのです。別ものなら、日常が海水を火で煮つめるのであれば、単なる明治までにつながる労働歌にしかなりません。

集歌935
原文 名寸隅乃 船瀬従所見 淡路嶋 松机乃浦尓 朝名藝尓 玉藻苅管 暮菜寸二 藻塩焼乍 海末通女 有跡者雖聞 見尓将去 餘四能無者 大夫之 情者梨荷 手弱女乃 念多和美手 俳徊 吾者衣戀流 船梶雄名三
訓読 名寸隅(なきすみ)の 船瀬(ふなせ)ゆ見ゆる 淡路島(あはぢしま) 松机(まつき)の浦に 朝凪に 玉藻刈りつつ 夕凪に 藻塩焼きつつ 海(あま)未通女(をとめ) ありとは聞けど 見に行かむ 縁(よし)の無ければ 大夫(ますらを)し 情(こころ)は無しに 手弱女(たわやめ)の 思ひたわみて 徘徊(たもとほ)り 吾はぞ恋ふる 船梶(ふなかぢ)を無み
私訳 名寸隅の船を引き上げる浜から見える淡路島、その松机の浦では朝の凪には玉藻を刈り、夕方の凪には藻塩を焼く、そんな漁師のうら若い娘女がいると聞くのだが、彼女に会いに行く機会がないので、朝廷の立派な男の乙女に恋する気持ちは失せ、か弱い女のように気持ちも萎え、恋心はさまよい、私は噂の乙女に恋をする。船もそれを操る梶もないので。

集歌938
原文 八隅知之 吾大王乃 神随 高所知須 稲見野能 大海乃原笶 荒妙 藤井乃浦尓 鮪釣等 海人船散動 塩焼等 人曽左波尓有 浦乎吉美 宇倍毛釣者為 濱乎吉美 諾毛塩焼 蟻徃来 御覧母知師 清白濱
訓読 やすみしし 吾(わ)が大王(おほきみ)の 神ながら 高知ろしめす 印南野(いなみの)の 大海(おほみ)の原の 荒栲し 藤井の浦に 鮪(しび)釣ると 海人(あま)船散(さ)動(わ)き 塩焼くと 人ぞ多(さは)にある 浦を良(よ)み 諾(うべ)も釣はす 浜を良み 諾も塩焼く あり通ひ 見ますもしるし 清き白浜
私訳 四方八方をあまねく御照覧される吾らの大王は、神ではありますが、天まで高らかに知らしめす印南野の大海の原にある、荒栲を作る藤、その藤井の浦で鮪を釣ろうと海人の船があちらこちらに動き廻り、海水から塩を焼くとして人がたくさん集まっている、浦が豊かなので誠に釣りをする。浜が豊かなので誠に海水から塩を焼く。このようにたびたび通い御覧になるもその通りである。この清らかな白浜よ。

 参考として、藻刈りと塩焼きの両方の作業の様子を詠ったものを以下に紹介します。ここで、「軍布(め)」は古語で海藻全般を指す言葉なので軍布苅=藻刈りが食用の海藻を刈り取りしているのか、藻塩作りの為の海藻を刈り取っているのかは不明です。ただ、ロマンでは藻塩作りの為の海藻刈り取りと断定します。

集歌278
原文 然之海人者 軍布苅塩焼 無暇 髪梳乃少櫛 取毛不見久尓
訓読 志賀(しが)し海人(あま)は藻(め)苅り塩焼き暇(いとま)無み髪梳(くしら)の小櫛(をぐし)取りも見なくに
私訳 志賀の海人は海藻を刈り取り塩を焼くのに忙しく暇が無いのだろう。髪を梳く小さな櫛を手に取った様子も見えない。

 従来の古代製塩法の研究者は集歌935の長歌を参考に海藻鹹水法からの製塩法を探ります。単純に浜辺で天日により乾いて塩が付着した海藻を海水と合わせて土鍋でそのままに焚火により煮詰めますと、藻灰混じりの塩になり弥生時代以来の製塩土器で生産した白色の食塩に対し製品価値が全くに無くなります。そこで現在では白色の食塩を得る工夫として、刈り取った海藻を浜に並べ、その海藻に海水をかけて天日で干し、海藻表面に海水塩を凝縮させてから、その塩が付着した海藻を壷などの中で、海水で洗い、塩分濃度を上げて鹹水を造り、その鹹水だけを土器で煮詰めたと考えます。また、一部の産地では藻灰混じりの塩を、再度、海水に溶かし戻して上澄みを得て、もう一度、煮詰めて、海藻ミネラル塩と称する産地もあります。このように非常に手間やコストが掛かる作業方法を考案して観光資源保護のために製法を提案します。現代では、その手間を物語ることにより更なる付加価値を産み、直接に海水を煮詰める方法や自然乾燥した塩よりも販売価格が高くなりますし、観光資源となります。そこが企画・創作された万葉ロマンなのです。
 一方、昭和初期ごろまでの漁民たちは漁を行う時、ウエットスーツの無い時代ですから漁民は濡れて体に纏わり付く着物を脱いで安全確保のために裸で漁を行います。必然、漁をする浜では焚火をして漁が終わった後の冷えた体を温めます。この時、最初から土器など容器に海水を貯め、焚火の中心に置いて置けば、漁が終わったときまでには塩が出来ます。近世までは家業では子供から老人までの一家総出で労働するのが基本ですから、漁に向かない子供や老人が焚火番をするのは当たり前の風景です。自家消費ならこれで十分な量の塩は入手できます。つまり、海女漁や網漁で確実に裸で漁をしていた近世以前では自家消費塩の製造には手間・暇がかかる海藻鹹水法の製塩は不要ですし、自家消費目的の自家製塩なら固形でなくても、土器で煮詰めた高濃度の塩水で、十分、調理に使用が出来ます。または、底の浅い竹かごを粘土で目潰しし、海水を貯めるようにして、夏の浜辺や冬の洞窟や小屋の中で放置すれば、海水の自然蒸発から塩が取れます。つまり、古代九州地域のあじろ釜による製塩法です。
 参考に、戦争による物不足の恐ろしい話ですが、第二次世界大戦で負けた日本政府は食塩の流通にも支障をきたし、塩専売制を停止して沿岸部の自治体に食塩の自家生産を推奨し、国内の食塩需要を満たすことをしています。昭和21年ごろの自家製の食塩生産指令とその時の製塩ブームを覚えている老人たちは非現実的な藻塩製造にあきれ返ります。
 ここで、香川県埋蔵文化財センターなどが指摘するように古墳時代には既に塩の広域流通が存在していたと思われ、それに伴い地域間での流通競争の状況が、遺跡で見つかる時代毎の土器の数の変化から生産量の推移により推定されるようです。自家消費程度の製塩量なら手間がかかる海藻鹹水法による製塩法を採用する積極的な動機はありません。可能性として、地域外流通での量産化の場面だけに海藻鹹水法による製塩法の出番が有るのでしょう。すると、量産場面で海藻鹹水法による製塩法が成立するには、海藻から鹹水を造り製塩する時の薪の節約次第となります。海岸の流木や近隣の森林から得られた薪が安いと海藻鹹水法による製塩法よりも、単純に干潟で得られる夏の太陽光で濃度が濃くなった海水を土器で煮詰めた方が経済的に有利です。
 加えて、考古学や文献調査からすると奈良時代までには大量生産を前提とした大きな平底の塩釜+自然浜式塩田による製塩技術が確立しています。そのため、それ以前のごく小規模な場合では土器製塩法+海藻鹹水法による製塩法を採用している必要がありますが、その成立は非常に疑問です。漁民なら磯の潮溜まりや粘土質の浜の干潟の澱みに残る塩水が非常にしょっぱいのを知っています。海藻に塩水を掛けながら干して鹹水を作るよりも、磯や浜の潮溜まりの海水を集めた方が簡単ですし、楽です。奈良時代までに現れる自然浜式塩田は、人の手によって積極的に粘土質の干潟に海水が溜まるような澱みを造り、その澱みで太陽光により濃縮された海水を利用したものです。
 あじろ釜による自然乾燥法の製塩法を除けば、速度の速い製塩方法は海水を煮詰めることに帰結しますが、その海水を煮詰めるために大量の薪を使用します。この薪の消費量を節約する為に、太陽光で海水から水分を蒸発させ塩分濃度を上げます。奈良時代までに生まれた自然浜式塩田は海岸に粘土で非常に浅いプールを造り、そこで太陽光により海水を蒸発させ、塩分濃度を濃縮します。一方、海藻鹹水法による製塩法は浜に敷きならべた海藻の表面を非常に浅いプールの代わりとして使うものです。自然浜式塩田は潮の干満を利用して浅いプールに海水を導きますが、藻塩製塩はすべて人力で海藻の表面に塩水を撒き、太陽光によりその表面に塩分を濃縮させます。
 専門家の評価では藻塩の産地によっては、海藻を焼き塩分濃度の高い海藻灰を得て藻灰塩とするものと、塩分が付いた海藻を海水で洗い、洗い水を煮詰めて塩を得て海藻鹹水法の藻塩とするものがあります。基本的に灰分を含む藻灰塩は食用塩に不適ですし、海藻鹹水法の藻塩は現代の産地間競争が示しように火力による鉄釜を用いた煎熬製塩法や自然乾燥によるあじろ釜の発展型である近代的なステンレスプールなどによる自然の天日と風による乾燥製塩法のものと比べれば、そのコストと商品品質からは競争力は全くありません。
 ちなみに、粘土で目つぶしした「あじろ釜」に海水を満たし放置しておけば自然乾燥で塩は取れます。それで世界にあって、極端な乾燥地帯では入り江自体を巨大な「あじろ釜」と見立てて簡単な水門操作だけで自然乾燥の塩を得て価格競争力を持った原塩としますし、東南アジアの地方部では投資が最小限で済む小規模な製塩業として、あじろ釜的な製塩方法が普及しています。ただ、そのような製法の塩はにがり成分を含み空気中の湿気を吸収して溶けますので、淡いクリーム色になる程度まで焼き固める必要があります。これが、万葉集では山上憶良が詠う「貧窮問答」での堅塩と云うものです。
 補足して、焼き固めた堅塩のにがり成分は不溶性の酸化マグネシウムに変化し水に溶けないので、堅塩を水に溶かしてその上澄み液を、再度、煮詰めると純白の高級食塩が得られます。この堅塩への焼き固める加減で塩のうまみ成分である可溶性にがり量が微妙に変わりますので、ここが自然塩の生産技術の業です。このような高級自然塩の前では食味と色味、また、粒の大きさなどにおいて、灰とにがりが混じった藻灰塩では商品価値で勝負になりません。
 他方、万葉集の集歌935の長歌では確かに藻塩焼きの風景を詠いますから、奈良時代初期には海藻を焼いた海藻灰、又は、藻灰塩は生産されています。では、その藻塩(藻灰塩)は何を目的に生産されていたのでしょうか。そこを探っていきたいと思います。
 話題を変え、現代社会で考えられる塩分を持った藻灰塩の用途を考えて見たいと思います。理由は、藻灰塩の用途として古代の山間地では塩の入手は困難だから、どんな品質、また、大量に藻灰の混ぜ物で嵩増しされた塩でも我慢して買っただろうとの提案が可能です。そのような可能性は否定できませんので、最初に現代社会で考えられる藻灰塩の用途を考えてみます。
 さて、近代に造語された和名の藻灰塩は西洋風に呼べばソーダ灰のことです。ソーダ灰は古代ではアルカリ水溶液や石けんの原料、金属製錬での融剤などの用途を持ちます。具体的には絹製品では繭から取れたばかりの荒絹から不純物を取り除き光沢が良く、染色が可能となる練絹に加工する時、アルカリ水溶液による洗浄が必要です。藻灰塩は現代でも使用されるアルカリ水溶液の優良な原料です。このように藻灰塩は絹製品製造工程で必要なアルカリ水溶液の原料で、これを平安時代の延喜式の縫殿寮雜染用度や內藏寮雜染に確認すると布の染色材料として灰、真木灰、椿灰、藁灰と区分して記述しています。個人的に灰と真木灰とを明確に区分していますからアルカリ水溶液の材料として最良であるソーダ灰(藻灰塩)を灰の名称で認識していたと考えます。そのためか、延喜式規定では他の灰種に比べ灰が圧倒的大量の分量で記載されています。なお、律令時代、灰は藁灰ではありません。
 ここで日本野蚕学会などの資料からすると上質に染色された絹製品を製造するにはソーダ灰(藻灰塩)が無いと難しいようですし、日本シルク学会誌に載る「奈良時代における絹生産の動向(三木六男)」によれば、奈良時代に絹製品は年間9,624kg以上が生産されていたと推定しています。当然、絹製品は染色するでしょうから、それに比例したソーダ灰(藻灰塩)需要があったことになります。延喜式縫殿寮雜染用度の規定によると綾一疋を淺緋に染め上げるには茜30斤に灰2石が必要と分量を示しています。絹布一疋(2反)が1.4kgとしますと、絹製品9,624kgを淺緋に染めるなら13,750石(2,475m3)の灰が必要になります。絹布すべてを茜染とはしませんが、半分としても灰が年間1,300m3は必要になる訳です。従来、これほどのソーダ灰が必要になるとの感覚は有ったでしょうか。
 また、アルカリ水溶液の特性を利用したもので、今風の有名なものでは地中海石けんがあり、獣油と共に主原料です。他にも標準的なガラスであるソーダガラスの主原料がソーダ灰、石灰、ケイ砂ですし、このソーダガラスに鉛を加えると鉛ガラス、俗称、クリスタルガラスに区分されます。飛鳥時代から奈良時代に国内で生産されたガラス珠やガラス工芸品の多くは、この鉛ガラスに区分されます。必然、ソーダ灰(藻灰塩)は相当量が使用されています。他に、銅鉱石などの鉱石を溶かして製錬する時にソーダ灰は溶鉱炉の中で鉱物が溶ける温度を下げる融剤となりますから、銅銭や仏像の鋳造などでは大量に使用されていたことになります。
 このように藻灰塩を工業用途のソーダ灰と考えれば、万葉時代の絹製品、仏像や貨幣の銅製品、宝飾品となるガラス製品などの多様な用途を持った原材料となります。他方、上古代では日本国内で銅製品、ガラス製品、高級絹製品が大量に生産されたのは万葉時代だけです。現代に伝わる宝物の分析結果からすると平安時代の早い時期に国産ガラス宝飾品の生産は終了したと思われ、銅精錬の能力も低下して日本国独自の貨幣の鋳造・発行能力を失います。また、伝世する布製品の研究から染色技術も奈良時代がピークとされます。このため、平安時代初頭以降では工業用途としてのソーダ灰(藻灰塩)はあまり用途のない産物となっています。不思議に生産活動である工業や商業に興味を持たなかった平安貴族たちには藻灰塩と云う「塩」の言葉からは食用の「塩」のイメージしか湧かないことになります。
 また、日本では吉野ヶ里遺跡遺物に見られるように貝紫と称される貝から得た古代では最高級とされる紫染料が使われていたことが判明しています。この貝紫は貝を強アルカリ処理することで得られる液体染料とのことで、この強アルカリ処理には上古代ではソーダ灰(藻灰塩)水溶液を用いるのが一般的です。さらに、律令行政の基盤を支える和紙の製造でもコウゾウやミツマタの樹皮繊維を調えるのにソーダ灰水溶液を使用します。色々と探ると上古代では藻塩(ソーダ灰)は非常に有用な工業塩だったのです。
 ただ、海辺の人たちがソーダ灰(藻灰塩:酸ナトリウム原料)の生産を止めても、性能が相当に落ちますがアルカリ水溶液の原料に藁灰(炭酸カリウム原料)で代用ができますので、それで処理した製品の品質に目をつぶれば、コストや入手性を比較すれば中世までには藁灰に置き換わっていったと思われます。繰り返しますが、延喜式に載る染色の規定では灰、真木灰、椿灰、藁灰は明確に区分されています。なお、現代では化学品として炭酸ナトリウム(ソーダ塩)の入手が容易なために、伝統工芸などでは再び上古代の製法に従いソーダ灰に準じた処理法に戻しているようです。
 以上、取り纏めますと、万葉時代、塩の用途には食用塩と工業塩とがあり、また、製塩法では太陽光で水分を蒸発させることで海水を濃縮し鹹水を得て土器や鉄釜で煮詰める製塩法と、あじろ釜/あじろ皿で海水を自然蒸発させて直接に塩を得る方法がありました。
 ここでは一つだけに限定することなく、用途に食用塩と工業塩とが有れば、それぞれに適した製法と製品が供給されたと考えます。ただし、産地では自家消費の自家製塩の食用塩は全国各地に存在するでしょうが、工業塩生産地は原料となるのに適した海藻がふんだんに獲れる地域性があったと考えます。つまり、工業塩となる藻灰塩の生産地は限定的だったと考えます。

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