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新年

2023年が明けた。
今日はもう1月8日だ。


私の父が亡くなってからもう1年と4ヶ月が過ぎようとしている。
今でも時々、本当は父はまだ生きていて実家で「おーう、まさゆきか」
と出迎えてくれるのではないかと思う事がある。

実際は、実家はもう無人であり、兄がまだ壊したくないという理由で、父が最後に生きていた時そのままの姿で残っている。

私の母は、私が高校に入って間も無く、まだ私が15歳の時になくなった。

母は亡くなる1年くらい前から体調が悪くなり、何度か近所の病院に診てもらっていたのだが、亡くなるその日まで家にいて、朝私が登校するときまで生きていたのだが、私が高校から下校すると、婆ちゃんが「母ちゃん、死んでもたんや!」と玄関先に飛び出してきた。

私が2階に上がると、もう冷たくなっている母の遺体があり、周りを兄や父が囲んでいた。

私はあまりのことに呆然として、ただただぼろぼろと流れてくる涙が止まらなかった。


それからのことは、今ではぼんやりとしか覚えていないが、近所のお寺でお通夜と葬式をしたのをなんとなく覚えている。

兄はもう大学生で、実家から離れた町でアパートを借りていたので、高校3年間は、私と父と、祖父母の生活だった。

もちろん母のいない寂しさはあったが、高校生活の忙しさで少しずつそれを忘れようとした。


そして私は、何個かの大学を受験し、最後にやっと合格した地元の大学に実家から通うことになった。

大学は実家から最初は電車で、後に車で通うようになった。

私が大学生の間に祖母と祖父は亡くなり、実家で父と私だけの生活になった。

父は仕事をしながら、ご飯や家事をやってくれており、大変だったのだが、そんなことは一度も言ったことはなく、いつも当たり前のように私の世話をしてくれた。

私は、少しでも迷惑を掛けまいと、バイトに精を出し、ガソリンスタンドやホテルのレストランなどで働いた。

私の父は、母がいない寂しさも、家事の大変さも、もちろんあったに違いないのだが、私には微塵もその事を感じさせまいとしていたのかもしれない。

色々あって私が地元を離れ、新潟に行くと告げた時も、「ああ、ほうか、昌幸がきめたんなら頑張れや」と言って送り出してくれた。

後になって、「昌幸は三国に残ると思ってたんやけどな」と、寂しそうに笑って言う時があった。

その言葉を聞いて、私はなんと罪深い事をしたのだろうかと心がヒリヒリとした。

一昨年の8月、兄から電話が来て、「父ちゃん、もうあかんかもしれん」と言われた時は、本当に何が起きたか分からず、混乱して、子供のように泣きながら地元へ車を走らせた。

悪い想像ばかり頭をよぎって、父の笑い顔を思い出して涙がとめどなく溢れてくるのを止められなかった。

明け方に兄の自宅に到着して、これまでの経過を聞くと、実家にいた父は、体調不良を感じて、車で町の耳鼻科に行ったらしいのだが、血液検査をすると、あまりの数値の悪さに驚いた先生が、止めるのも聞かず、車を運転して父は実家に帰ってしまったらしく、なんとか兄の連絡先を調べた先生が兄に電話連絡してくれて、父の状態が深刻なものであると告げたらしい。


兄は実家に行き、父の様子が深刻なものだと判断して、自分の車に父を乗せて、自分の卒業した大学病院に連れて行った。

病院では父の状態を診て、すぐにICUに運ばれたらしい。


朝になり、私は兄と一緒に大学病院に行った。

その時はコロナの流行もあり、本当ならばICUに入る事も難しかったと思うが、私達は父の所に通された。


父は、たくさんの管がつながれており、人工呼吸器や人工的に血液を循環させる機械が動いていた。

私は、どうして良いかもわからず、「父ちゃん、父ちゃん!聞こえるか?昌幸や」と叫ぶしかできず、動かない父を見て涙がぼろぼろ流れた。

しばらくして、担当の先生から父の心臓の動きがだいぶ弱くなっていると説明があった。

全く動かないが、温かい父の手を握って私はおいおい泣くしかできなかった。

兄と兄の家に帰り、私と兄は今後のことについて話した。

兄と私は、父に寝たきりでも良いから生き延びてほしいと思っていたが、最悪の事態も考えて、色々な事を話し合った。


その日から5日程、私は兄の家に滞在して、父の容体を兄から聞いたり、新潟から妻と息子が来て父に面会したり、東京のおじさん(父の弟)が来て、また父に面会に一緒に行ったり、慌ただしい日々をすごした。

父は、奇跡的に小康状態を保っていて、まだすぐには亡くならないという状況になり、私は一旦新潟に帰った。


それから一週間か10日くらいは普通に仕事をした。


その時は毎日父が1日でも長く生きますようにと祈りながら過ごした。

休みの日には家から近くの観音様の祀ってあるお寺に行ってお参りし、父の生存をお祈りした。

しかし、また兄からの電話で私は悲しみに包まれてしまった。
「父ちゃん今度は本当にもうダメかもしれん」
と兄に言われ、再び私は車で高速に飛び乗り地元へ急いだ。


車の中で、どうしても涙が流れるのを止められず、私は声を出して泣いた。


そして私が地元に到着する2時間程前に再び兄から連絡があり、「父ちゃん、亡くなった…気をつけて運転して来るようにな」


私は、頭が本当に混乱して、「ほうか、わかったよ…」とは言ったが、本当は全然何が起きたかわからず、呆然としていた。


今、自分の父がこの世を去ったのだ。あんなに自分たち兄弟を愛して、大切にしてくれた父がもうこの世界にいないのだ。


私はしばらく泣くこともできずに、ただ無心で運転した。

兄の家に着くと、畳の上に父の遺体が安置してあった。

私は父の顔を見て、しばらく何も言えなかった。静かに泣くしかできなかった。


その後はお通夜、葬儀と慌ただしく日々が過ぎていき、今日になっても、心に穴が空いたような、寂しさばかりが残った。間も無く1年半になろうとしているが、私の心には常に父が居て、いろんな場面でこんなとき、父だったらなんと言うだろうか、軽く笑い飛ばすのかな、とか考えてしまう。


偉大な父は、わたしや兄と共にいつまでも、2人を励ましてくれているようだ。

父がくれた愛を、今度は私が子供達に注いでいく番なのだ。





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