No.14「大切な仲間」
「人のために頑張りたい」、そう思えなくなったら、人生終わりだ。
幸い自分は生まれてからここまで25年間、そう思えなくなったことはない。
ただこれは、自分の才能でもなんでもなく、一重に仲間に恵まれて生きてきたからである。今まで出会った全ての仲間に感謝しかない。
僕が唯一、胸を張って、他者に自慢できる、誇れるのは「大切な仲間」の存在である。僕の仲間には本当に良い人しかいない。性善説、性悪性とあるが、少なくとも僕の周りの人については、圧倒的性善説だ。どんな仲の良い友人だって、最も身近な親だって、自分と意見が食い違うことはある。時に僕自身、腹が立ってしまうこともある。ただそれは一過性のものであり、本質的には皆が状況を最適にしようとしているが故の行動であり、信頼関係が揺らぐものではない。根本は、皆、良い人だ。何か、良い人だと自分に言い聞かせている感が出ているが、決してそんなことはない。なぜなら、25年間、「人のために頑張りたい」と思い続けられているからだ。勿論、自分の人生は自分のためにあり、自分の満足のために生きるものである。しかし、自分の満足の対象が、自分の趣味や嗜好の充足なのか、仲間への貢献なのかで人生の彩は大きく違うと僕は思う。自分の中で完結してしまう人生より、仲間に影響を与え、仲間に感謝され、仲間を笑顔する、こんな人生は何倍、いや何十倍にも濃く豊かな人生と言えると確信している。今すぐに人生の終焉を考えるのはおかしいかもしれないが、自分が最期、目を閉じたときに、自分のやってきたことや思い出ではなく、仲間の顔や仲間とともに過ごした思い出が脳裏に映る人生を送りたい。それほどまでに自分の仲間が、僕は大好きだ。
僕は仲間が困っていたら、全力で助けたいと思う。なぜなら、仲間のいない人生はつまらなく、歩む必要もないからだ。自分が楽しむためだけに頑張ることが、本当に苦手だ。1人キャンプも、1人旅行も、1人ゲームも何もする気が起きない。皆でやるから、皆とやるから物事は楽しくなるのだ。仲間のためなら頑張れると思う。ただ仲間のためとはいえ、連帯保証人にだけはならない。こんな仲間が大好きで仕方ない僕だが、連帯保証人だけはやばすぎるので、ならない。
といった連帯保証人の話はさておき、何故ここまで僕が仲間想いの人間になってしまったのだろうか。それは、冒頭に述べてように皆が良い人で、そして優しかったからだろう。まずは親に始まる。本当に優しく育ててくれたと思う。人格形成は、やはり幼少期からの教育によって左右される。その点、わがままに育ってしまったところはあるかもしれないが、人には優しさが大切だなぁと感じることができる程度には、優しい人間になれる素養を培ってくれた。本当に感謝している。そしてそこから出会ってきた数多の友人や、先輩、後輩に感謝してもしきれない。非常にわがままで生意気な僕とともに時間を過ごして、非常に多くの慶びを与えてくれた。出会ってきた人たちの心の広さと温かさがなければ、ここまで僕が人々に感謝することはできなかっただろう。僕が仲間想いになれたことは、自分の努力や才能では決してない。仲間がそうさせてくれたのだ。
これからも確信は持てないが、きっと良き多くの仲間に出会う。今まで出会ってきた自分の仲間が自分に感じさせてくれたように、未来に会う仲間に今度は自分が慶びを伝えられるよう、今後の人生を歩んでいくつもりである。
本当に今まで自分に関係してくれた全ての仲間に感謝を伝えたい。
そして感謝できる仲間に出会い続けさせてくれている自分の運の良さに有難ささえ感じる。私にとって、全ての仲間が「大切な仲間」であり、仲間のために、人のために頑張っていきたい。そう誇れる人生を歩んでいきたいと強く願う。
2022年4月7日 記
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