正しい価値観があるわけではなく、その時の価値観があるだけ。
好き嫌いではなく、一回くらいは読みたい漫画、そんな思いを持ちながらまだ全然読んでいない漫画のひとつ、課長島耕作を読み始めたかねこです。
まだ2冊くらいで全然進んでいませんが、80年代に書かれたこの漫画を読むと今とは違った価値観の表現がちらほら見えてきます。
最近も風と共に去りぬ、というアカデミー賞映画が差別を表現しているとしてニュースになりました。
ヨーロッパ視点でアメリカ大陸を発見した、といわれるコロンブスも先住民視点で見れば侵略者ともいわれるようで、昨今ではそのように捉えられることもあるようです。
エンタメの世界でいえば、19世紀にはミンストレルショーという白人が黒塗りをしてショーする娯楽舞台もありました。
今では同様なことは行われることはないですが、どれも当時においてはあったものだったようです。
現在視点で今も存在しているあわないことはしっかりと問題解決に向けて動くことは必要です。その上で価値観、というものはその時その時で変わってしまうもの、ではないのだろうか。
自身の短い何も積もっていない人生を振り返っても価値観が変化していることから、絶対的な価値観がある、と捉える方がもしかするとおかしいのかもしれません。
今日はそういった価値観の変化について対話していきたいと思います。
ロールモデルが夢だった
今は全く違いますが、十数年前の僕の夢は研究者になって、こどもにはピアノを習わせて、発表会を見に行って一人で涙を流してスタンディングオベーションをする、というものでした。
それらのうちどれも叶えられていません。このような人生を歩んでいる人を心から素敵だなぁと思う一方で、自身は違う道を行きたい、思っているからです。
過去の自分は確かにそのような価値観でした。しかし今は全く変化しています。あの時の価値観を自分の行動として今も受け入れるのは違う、そう断言できるほど対話は完了しています。
何度も言いますが、そのようなロールモデルを否定するものではなく、やりたいことの選択肢が増えて、ふたつを取れないならどちらかを取る、ということです。
その選択をする時に自分の中で何が最もやりたいことかということを日々実践していく中で価値観が変化したということは大きいと思います。
ではその価値観は何によって変更したか、といえばいくつかありますが、テクノロジーの発展は外せないと思います。
価値観がテクノロジーによって変わる
僕が15世紀に生きていたらミュージシャンを目指そうとは思わなかったと思います。当時はそんな職業は誰にでも目指せるものではないからです。
職業作家が増えてくるのはむしろ20世紀に入ったあたりからで、一般の人でも一つのSNSの投稿で世の中が変わることができるようになったのは、ここ最近です。
自分を表現しようとしても誰も見てくれない時代、発表されているものは肩書きやコネ、実績があるようなものばかりの状態が2000年以前は続いていました。
だから完成品になってから発表しようという感覚がその時はあったように思います。
iTunesに誰でも曲を公開できるようになった頃に未熟な自分が音楽を公開してよいのか、という今となっては意味不明な悩みが存在していました。
インターネットにYouTubeやTwitterなどが登場したことも未完成でも情報を発信した方が良い、という価値観の変化に一役買っています。
とはいえ、2000年以前の価値観があるのでそれを外すのは時間がかかりましたが、15世紀であれば今と同じ価値観でいられるかといえば疑問です。
紀元前であるなら一人で暮らすよりも集団が暮らす方が圧倒的に有利であったのは人類史を見れば明らかです。
今だから一人でも良いやと思えるのであって紀元前なら集団に属す選択をします。
絶対的な価値観があるわけではない
そんなことを考えると僕の中に絶対的な価値観は存在していないような気がしています。
先の例でも過去においてはそれらは受け入れられたのかもしれません。少なくとも時代を動かしている人たちには受け入れられていた、と捉えれるかと思います。
今見ればそういった表現に感じることもできます。逆にいえば「50年後の正しい価値観」で今表現出来る人はいません。
今こうやって書いてる中に50年後には炎上してしまう内容があるかもしれません。しかし、それはわかりません。なので今書いておきます。
2020年当時において書いたものであり、その後の価値観を否定するものではありません。
40年前に自炊を外注して、子育てをベビーシッターにお願いしていたら、その夫婦はきっと炎上するかもしれません。しかし今はしません。
未来において問題ないことも今やれば炎上するかもしれないことを考えれば過去の表現が未来において価値観にひっかかってしまうのはある種、どうしても付き纏うものかもしれません。
とはいえはそれが社会問題であれば簡単な話ではありませんが、一体何が誰が問題や本質は何なのでしょうか。価値観が変わってしまう人間が悪いのでしょうか。
価値観は変わることは前提
自分の価値観は変化したので、やはり価値観は変化することは前提として捉えるのが自分にとっては自然です。
未来の正しい価値観が今は炎上してしまうその一方で、いつまでも変わらない価値観を持ち続けることもまた今の炎上を招くのかもしれません。
相手の価値観を理解し、それに合わせて接するしか方法はないかと思いますが、そういった好みのコミュニティを選べるようなものが昨今のサロンなのかもしれません。
サロンがリアルに登場してきた時にまた新しい時代が幕明けるような気がしますが、コミュニティというものに触れることが圧倒的に少なかった現代においてコミュニティとはどういうものか、自分はどのような価値観なのかを知ることは相手との関わりたいな中で何より大事に思います。
相手の価値観を理解しようにも文化がわからなければそもそも始まりません。私を理解して、となると入ってくる情報には限界があります。
だからこそ情報発信は大事なのかもしれません。
自分としっかりと向き合い、考えを発信することは人に自分のこと知ってもらうことより、むしろまず自分を知るために大事なような気がしています。
自分との対話を重ねることで自分の価値観を知り、自分のやりたいこと、やりたくないことを知り、それによって相手のことへの理解にもつながる、自分のことを優先するように相手も自身のことを優先したいのは当然。
他人のことを考えるより自分のことを考えること、それが他人のこと考えるに繋がる、そんなふうに思っています。
そしてその中で価値観は変わり続ける、というのは対話する中で物事をクリアに見ていく一つの捉え方かもしれない、僕はそう思っています。
というわけで今日も価値観は変わりながら明日もいつもの同じ今日を生きようと思います。
「ただジャズが好きなだけ」な毎日ジャズピアニストの金子将昭。毎朝6:30〜コーヒーとジャズと演奏生配信。演奏動画にテキスト解説。みてるだけで音楽教養かも。かねこのジャズチャンネル。チャンネル登録よろしくね(✿︎´ ꒳ ` )↓
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毎日ジャズピアニストかねこ
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