赤提灯の下で(22/4/4)

僕らの周りの人たちは、だいたい僕らに似ている。地元の友達は生まれ育った土地が同じだし、大学時代の知り合いは同じくらいの学歴だし、会社に入ったら同じくらいの収入の同僚がいる。恋愛だって、合コンやマッチングアプリを使えば学歴とか、収入とか、住んでいる場所なんかが同じような人間とくっつくのだ。
そういうふうに階層化された人間関係の中で、赤提灯の下、つまり飲み屋に集う人々は全然”似ていない”。
僕が行きつけにしている居酒屋には、本当にいろんな人がくる。大手証券会社の重役、経営者、行政書士、葬儀屋の社員、ゴミ収集車の運転手、新卒のサラリーマン、看護師、ネズミ講、夜職のお姉さん、アフリカからの留学生、たまには背中におっきな絵が書いてある人が来ることもある。そして僕はいつだってそういう人に囲まれて酒を飲んでいる。僕が大学院に合格した秋に、常連さんたちが祝賀会を開いてくれたのだけど、サプライズで指導教員が来たこともある。呼ぶ方も呼ぶ方だし、来る方も来る方なのだが、汚い座敷でいろんな種類の”似ていない人たち”が祝ってくれた夜を僕は一生忘れられない気がする。それ以外にもここでは書けないような下劣な遊びをたくさんやった。
人間関係が階層化されるのは、詰まるところ、同じ背景を持つ人の間ではコミュニケーションが円滑に進むからだ。だから反対に、赤提灯の下では都市生活者と未開部族くらい半端ないディスコミュニケーションが頻発する。知らん間におっさんが喧嘩してたり、喧嘩してたり、あとは、喧嘩してたり。でも逆に、神秘的と言えるくらいの謎の友情が生まれることもある。おっさんが泣いてることもある。気持ち悪いけど。爆発もするし、宝物も見つかるるつぼみたいだ。誰にも奨励されない、でも嫌がられもしない、こういう営みはずっと続いていくのだろうと勝手に思っていた。
それでも、ちょっとずつ、環境は変わっていく。もちろん社会の流れもそうだけど、るつぼに溶け込んでいた個人個人は、もちろん単なるモブキャラではくて、だから赤提灯はあくまでも人生の通過点に過ぎない。淀みに溜まった枯れ葉は少しして、また時間という流れに飲み込まれていくのだ。

また一人、いなくなる。親友でもなんでもない。彼が昼間どんなことを考えて生きているのか僕は知らない。彼が今までどうやって生きてきて、これからどうやって生きていくのか、僕は知らない。取り立てて、いついつに会いましょうという仲でもないし、連絡もほとんど取らない。彼は過去に同じようにいなくなった人たちの一人に過ぎないのだ。

でも、それでも、いつかまた赤提灯の下で出会って、ここでは書けないような下劣なことができたら、僕は僕の人生をもう少し愛せるような気がする。おわり。

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