わかることについて(23/08/21)

「わかるとはどういうことなんだろう」と常々考えている。それは僕自身が「わからない」側の人間だからだ。もう少しちゃんと言うと、僕の周りには僕よりも「わかっている」人間が溢れていると感じるからだ。
「わかる」という言葉は不思議だ。そこにはたくさんの、本当にたくさんの意味が含まれている。
例えば(ちょっとヘンな文章だけれど)「麻婆豆腐がわかる」という言葉があるとする。これは何を意味するだろう。
「見たことがある」「味を知っている」「作り方を知っている」「歴史を知っている」…。色々な意味合いが考えられるけれど、どう言い換えても、「麻婆豆腐がわかっている」ということには足りない感じがする。そう考えていくと、中国四千年の歴史を極めた料理人ですら、本当に「わかった」状態などあり得ないのではないかなどと思ったりする。

冒頭にも書いたけれど、僕の周りには僕よりも深いレベルで「わかる」人たちが無数に存在している。例えば、ある数学の定理があったとして、「その存在を知っている」「その主張の意味が理解できる」「その定理の命題を設定できる」「その定理を証明できる」「その定理からさらに非自明な定理を導出できる」というのは、それぞれ「わかる」の段階を表している気がする。多くの場合、僕は「主張の意味が理解できる」わけだけれど、それでは全然足りなくて、真に必要なことは「さらに新しい定理が導出できる」ことなのだ。
人間という存在についても同じような感覚に陥ることがある。ある人の行為が「わかる」というのは、実はとても難しいことなのではないかと思う。
例えば、「AさんがBさんを刃物で惨殺しました」というニュースがあったとする。これが「わかる」とはどういう状態だろうか。「AさんがBさんの身体を刃物で傷つけた」というのは確かに事実だけれど、じゃあ「Aさんが悪い」ということで全部が「わかった」ことになるだろうか。
「Aさんはaという理由でBさんを刺しました」「二人にはcという出来事があって、dという関係になっていました」「Aさんが刺した時、Bさんはbと発言し、それをAさんはb'として受け取りました」…。

「わかる」という行為は、まるで深海へと向かう素潜りみたいだと思う。僕らは初めは好奇心で、海に飛び込み、「わかろう」とする。多くの場合、まだ陽の光が届く位置で美しい魚の群れをみて「これが海なのだ」と「わかった」気持ちになる。けれど海は深い。もう少し潜れば、そこがもっと複雑な生態系を成していて、水面付近とは全然違った風景を持っていることが「わかる」。さらにさらに潜れば、いつかは海底につくかもしれないが、もうそこには光は届かないし、美しい魚群に出会うこともない。しかしそこまでして、ようやく海が「わかった」ことになる。もしもそこがマリアナ海溝なら、こんなことは人間には不可能だ。
素潜り、と書いたのは、その「わかる」行為が次第に苦しいものになるからだ。「わかる」ためには膨大な時間と労力と体力を要する。息を止めて深く潜ったところで、そこに綺麗な景色はない。水面付近で海を「わかったつもり」になっていた方が、相当にラクなのだ。

深く潜ったものは沈黙し、浅瀬で遊ぶものは楽しんだり嘲たりする。研究者と評論家、プレーヤーと聴衆、当事者と第三者。いつだって呼吸できなくなるのは、深く潜った方なのだ。

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