屍体が埋まってゐる(23/10/03)

「『桜の樹の下には、屍体が埋まってゐる!』 これは信じていいことなんだよ。」

どうしようもない陰鬱が、自室を満たしている。原因のわからない倦怠と、解決しようのないヒステリが、まるで迷宮のような日常を延々と追いかけてくる。
惰眠の中に現れる夢は色々で、知らぬ街の知らぬ鉄道で終電を逃して見知らぬ人を抱くときもあれば、バスジャックに居合わせて英雄譚のごとき振る舞いののちに撃ち殺されることもある。
それらはどれをとっても、驚くほど鮮明で、おそらくは、過去に誰かが経験したであろう現実を、何らかの方法論でもって追体験しているのではないかと、信じることを禁じ得ない。

最近、目の前を虻が飛ぶようになった。蛆のような小さな虫が壁を這うようになった。おそらくは飛蚊症というやつなのだが、その原因は定かでない。さしづめ眼球か、または脳の異常である。ふとした拍子に小さき虫が出でて、放物の一部を描く。捕まえようと再度見直すとそれはもうそこにはなく、どこにもない。まるで白昼夢に見る幻影のようだと思う。
先程は、やはり過去に起こったであろう誰かの経験をいくつか旅したのちに、やっと自室に帰ってきて、カーテンを開けた。一挙に開かれた遮光布の隙間からは、まるで矢のごとき太陽の直射光線が注ぎ、今が、初秋の昼中であることがようやく判った。そこにきて、虫である。光線の注ぐ先、ベッドシーツの端に、刹那、僕は小さな飛行虫を見つける。幻影たる飛行虫がほんの一瞬だけ、そこに現る。ともすればそれも、いつかどこかで、ほんとうに太陽光の注ぐ中を飛んでいたのかもしれない。僕は現実でも、誰かの過去を生きているのかもしれない。

「『桜の樹の下には、屍体が埋まってゐる!』 これは信じていいことなんだよ。」

梶井基次郎『桜の樹の下には』の冒頭である。

秋という季節は、突き抜ける空の蒼さに、屍を予感することがある。ちょうど今日のような晴れ上がった空は、逆説的に、醜悪な屍体や尸臭を想起させる。
作品の中で「俺」は「お前」に、その意味を教えてくれる。桜がどうしてあれほどまでに美しいのか、そこに感じる恐怖の意味を、教えてくれる。

降り注ぐ光線や瞬間に現れる飛行虫の生命の、比類なき躍動の美は、僕の内部にある醜悪なるものの投影であると、これは信じていいことなんだと思う。

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