生い立ち① 誕生〜小学校


こんにちは。

前回の自己紹介と少し被りますが
僕の生い立ちを書いていきます。

「自分史」に近いイメージでしょうか。
※自分史とは、病院でのカウンセリングの際に自分のこれまでの
 生い立ちを書き、診断の参考にするものです。


1996年の春、僕は産まれました。

兄とは6コ差。
40歳近い両親にとっては待望の2人目。

「きょうだいが欲しい」という
母のたっての希望で
別居や離婚の危機を乗り越え、不妊治療を重ねながらも
半ば諦めかけた時に授かった子どもだったそうです。

両親の親族ともに男性しかおらず
待望の女の子でした。

母は事前に性別を知っていたそうですが
産まれるまで父も含めて
周りには性別は内緒にしていたそうです。


これだけのエピソードで
いかに僕の家族が女の子が産まれたことを
喜んでくれていたかが分かると思います。



育ちながら
僕もそんなことをあらゆるタイミングで
母から聞かされていました。


「まーちゃん」と呼ばれるその女の子は
周りからは女の子
自分自身は男の子として何も疑うことなく育っていくのです。




【幼稚園時代】

幼稚園は制服でしたが
まだ何も分別がつかない年齢なので
抵抗することなくスカートを履いていました。

母が毎日髪の毛を可愛く結んでくれましたが
それも嫌ではなかった記憶があります。

しかし
周りの男の子のようにあぐらをかいて座る写真が残っていたり
誕生日プレゼントに「ウルトラマンの変身セット」をねだったり
毎日男の子とばっかり遊んだり
今思えばかすかなヒントは出ていたように思います。

それでも両親は何も言いませんでした。
(気にいていなかった、というのが近いのかもしれません)

そして幼稚園の先生たちは女性ばかり。
僕は1人の先生に淡い恋心を抱きました。
今思えばこれが初恋ってやつでしょうか。。。




【小学校時代】

七五三のために伸ばしていた髪の毛が嫌で嫌で
短くバッサリ切ってもらいました。
その後に撮ってもらった写真では満面の笑みで映る僕がいました。笑

ランドセルはワインレッド色。
この時は「男の子が黒、女の子が赤」という世間の風習を
何も知らなかったように思います。

赤色も嫌いではなかったので、両親に勧められるがままに
赤系統の色を選びました。

小学校に上がってからは私服登校なので
毎日ズボンで登校しました。

応援団長を務めたり、学級委員をやったり
リーダー的ポジションにいた子どもでした。

小学校5年生の終わりごろ
「生理」がやってきました。

4年生くらいから保健の授業や
女の子だけ集められる謎の時間に
生理のことは教えられたので
存在は知っていましたが
「男の子」である自分には関係ないと思っていました。

ある日トイレに行くと
パンツに血が。

気のせいかなと思ってその時は放っておきました。

数時間後にまたトイレに行くと
もっと血が出ていてかなり焦ったことを覚えています。

母に言わずに洗濯かごにパンツを投げ捨て
布団に潜り込んで泣きました。


洗濯する際にパンツを見た母が
生理に気づき、ナプキンのつけかたなどを教えてくれました。


その時と同時期くらいに
ブラジャーをつけ始めたこともあり
「自分は女の子である」ことを色んな角度から
突きつけれました。

でも気持ちでは男の子。
もやもやした気持ちで過ごしました。


ある日たまたま見たテレビ番組に
歌手の中村中さんがご出演されていました。

中村さんのことを元々知っていたわけではありません。

ボーッと見ているとその中で
「体は男性なのに、心は女性の性同一性障害」という
テロップが出たのです。

そのテロップを見て僕はハッとしました。

「これ(の反対)が僕のことなのでは?」

急いでパソコンで「性同一性障害」と打ち込み、検索しました。


「僕のことだ」
得体のしれないもやもやが晴れて、嬉しい気持ちの反面

「障害」というワードに引っかかり
「僕は障害者なんだ」とショックを受けました。


誰にも言えない。

今まで通りに、周りに隠して生きていこう。
そう心に決めた小学校時代でした。


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