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自分のためからそれ以外の変遷

先日突然「あ、これが知りたかったのか」という感覚がありました。

というのも「施術」において自分なりの理論というかある意味「理」のようなものを掴めたような気がしたからです。

僕にとってのそれは「症状」とは「希望の橋」であり、現在の状況を反転させる鍵であるということ。

しかもそれを、フラクタルを説明する動画のように、どんどん自分から離していくように視点を遠くにすると「自分たちが生きている世界のルールに則った形で必要なメッセージを不調や違和感という形で身体に表現する」という、自分という宇宙が行う壮大な自作自演ではないかということが見えてきます。

この施術の良いところは「新たな自分になるために何かを付け足す必要がないこと」です。どういうことかというと、身体は本来完璧なものなので、最初から備わっているものに後から何か新たに足したり引いたりという「自己の否定や自己の肯定のために無理をする」必要がないということです。

人類の歴史である身体と生まれて数十年の思考的なアイデアのどちらを信じるかみたいな話でもあります。

備わっていない、持っていないのではなく「忘れているだけ」
そしてそれは身体が記憶している。
その鍵やきっかけは現在のコリや過去解消されなかった感情に隠されている。

今自分がやっかんでいたり、邪魔だな、嫌だなと思っているものこそが自分が望む変化や展開のための鍵だということをサイキック整体を通して体感することができるんです。

身体には「どんな逆境も苦しみも全て力に変えることができる」という確固たる想いのようなものが誰にも標準装備されていると僕は施術を通して確信しています。

この感覚を肌で得た瞬間に「自分のための探求は一旦いいかな」って自然と思いました。同時に「俺はやっぱり自分のためだけに今まで必死に追い求めてきたんだな」とも思いました。

施術で結果が出ることは嬉しい。自身の立てた仮説が実際の効果として出ると夢物語じゃなく現実に証明できるのだと自信になるからです。

でもあくまでも自分のためだった。
不安になるのは結果が出なかったら自分のことを否定されている気がするから。
イマイチ効果が出なかったら、唯一の価値であるこの施術の否定に繋がる気がして怖くなるから。

今まで営業活動や発信にあまり意欲的でなかったのは僕自身が潔癖症なのもありますが一番は、自己を否定されることが怖かったからです。

否定されないために、自身への評価を覆すために、自信を持って生きていくために。

満足した瞬間死ぬと思っていて、仮説だったものが自分の中で確信に変わった瞬間、僕は満足してしまった。

自分のためだけに追い求めてきた、信じてきた感覚と技術と勇気。
環境も変えて現実を動かし、夢を見つけて、歩き始めている。

少しは成長したかと思った矢先に訪れた達成感。
力が抜けたようにどっと疲れ、気が抜けたように呆けてしまった。

身体は動くが気力が足りない。
元気だが今ひとつ活力がない。
求めていたものを手に入れてそれを眺めて恍惚としている。

これから先どうしていこうなんて思っていたら
「自分のための探求は一回終わりでいいのかな」と思った。
「人のためかぁ、どうやるんだろうな」って思った。

もうほぼ治っているがまた風邪をひいた。
今年2回目だ。去年と比べてまた随分違う冬を過ごしている。

年始の風邪は鼻、喉周りがキツかった。
今回は咳が強い。

症状が出る前はまさに人生のステージを自ら上げるような出来事に突っ込んで行ったり、人生で初めての出張や、新天地での施術などとにかく盛りだくさんで、経験を落とし込む時間がなかった。

これら経験の中で自分の中に消化しきれなかった何かが「咳」として出ていて、展開の早さに埋もれた不満や懸念などの感情があるのかもしれないと思った。

そういう可能性と普通に疲れが出ただけ、という現実的な部分も合わせながら考察している。

「人のためにがんばる」ということが全く理解できなかった20数年。
俺自身が全く癒されてないのに周りなんかみれるかとずっと思っていた。
奉仕だとかギブだとかそんなことを言う人が結果を出したり持ち上げられたりしているのを見て悩んだ時期も長かった。

でもそういう人たちを見ると、過去にこれでもかというくらい自分を満たすために時間を使っていた人たちが多いような気がした。

物事には順番があるんだなと言うのを学んだのもここだった。
人には人の辿る道順がある。

竹内晶貴にとってのそれはどうなのかを、より追求していこうと思う。

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