見出し画像

”夢”と”努力”と”目的”の話

教育の現場にいると「努力は嘘をつかない」とか「明確な目標が大事」とか「夢を持つことの素晴らしさ」みたいなことは、タコができるくらいに見聞きする。

そして時々、そんなことを言わなければならない空気の場面に出くわす。

中学・高校の時は誰よりもその類の言葉に頷き、信じてきた少年であったが、何だかいつの間にか面倒臭い人間になってしまったので、努力に嘘をつかれたこともあるし、目標を立てることはどうも苦手だし、夢ってのは現実との差分な訳だから受け入れるのには痛みが伴うから手放しで推す気は無いので、それらを求められる場に出くわすと、どうも困ってしまう。

一体いつからこんなに捻くれてしまったのだろうか。

ただ、夢とか目標とか努力みたいなものは今後、彼ら彼女らの人生に付きまとうし、何より自分自身の人生に付きまとうだろうから、30歳を目前に控えたこの時期に少し考えてみたい。


努力について


世の中で多く語られる文脈での「努力」には「成果のために苦しいことを耐え忍ぶ」的な意味が強いように思う。

ただこの類の努力の概念だけでは、どうも解像度が低くて、「努力は裏切らない」という迷言による被害者の会の会員を今後も増やし続けるだろうからもう少し分解してみる。


努力は辛く苦しいのか



苦労した辛い努力は実らない。残念ながら。辛くて、やりたくなくて、苦痛に歪んで、でもそれを乗り越えたら…って。良い事ない。

でも側から見てて「努力してるよね」って言われても、本人は努力だと思ってないような努力は実る。本人は楽しくてやってるから。

みやぞん

とANZEN漫才のみやぞんは言った。朝から晩まで将棋をしているあの子や、ピアノを弾いているあの子、絵を描いているあの子のことだ。

イチローから野球を、藤井聡太から将棋を、宮崎駿からアニメーションを引き離すのが不可能なように彼らは息をするのと同じように、側から見れば努力というようなことをしている。


努力という麻薬



人は仕事が忙しければ休みが欲しいと一般的には願うが、暇や退屈が欲しいとは思うだろうか。

人間は思っているよりも”何もしない状態”というのが苦手で、程よく脳死している状態が最も楽だったりする。

SNSを眺めていたり、スマホゲームをしたり、Netflixを見たり。そして努力をしてみたり。


届かないから夢なんです。

江頭2:50分

と江頭2:50分は言ったけれど、その届かないものまでの距離を埋めるには何かをしなければならなくて(モチベーション動画枠・ベンチャー企業SNSアカウント風)寝ていてどうこうなるもんじゃないことは分かっています。

だから、やってる感や前進してる感というような疾走感が欲しくなってしまう。階段のように一歩ずつ進んでいって、振り返れば登った分だけ高くなってくれたら楽なわけで。

その疾走感こそが麻薬で、”やってる”ことが正義で充実感を得てしまう。
俗に言う”手段の目的化”と言うやつだ。

時に”努力”というのは精神安定剤的な役割も果たすようだ。夢を叶えるためには努力が必要で、その努力を続けるために精神安定剤として努力的なものを必要とするとはどうもややこしい。



努力とは怠惰である


なぜこんなにもややこしい事が起きているのかといえば、宮崎駿の言葉を借りれば、人間は”脳みそに蓋をしている”からだ。

脳みその蓋をあけないとダメだ。

宮崎駿 プロフェッショナル仕事の流儀

生物学的に言えば、動物にとって避けなければならないことの一つが飢餓である。そしてその手段は主に2つで、1つはエサを獲ることで、もう一つはエネルギーの消費を最小限に抑えることである。

人間にとって脳みそを使うことは大きなエネルギーを消費することである。そのため、それを無意識のうちに避けていたりする。

それを宮崎駿は”脳みそに蓋をしてある”と表現し、それを開けなければならないと言ったのである。

努力とは怠惰である。努力の反対語は考える。

芦田宏直

そして哲学者の芦田宏直はこう言った。

思考するという事は、そう簡単なことではなく技術も体力も必要だ。
人はその思考することを避け、努力に逃げる。

頭を使い思考することよりも、多少苦しいことであっても努力という行動に逃げるのだ。

それ故、努力とは怠惰であり、努力の対義語は思考である。


努力階層


そのように考えると”努力”を細分化できる。


(図1)努力階層図


上記で述べてきたように
一般的な怠惰の解釈と、上記の怠惰の概念は異なる。
一般的な努力の解釈と、上記の努力の概念は異なる。

この概念の違いこそが様々な誤解を生み、努力は報われる被害者の会を増やし続けてきた原因だったのだ。


キャリアについて


キャリアの原理・原則


山口周さんがキャリアの原理について話していてそれを下の図にまとめた。

(図2)キャリアフロー図

何者でもない人間がどのようにキャリアを形成していくかという話で、まず誰しもに与えられているのは”時間”である。(図2 01)

その”時間”を投資していくと、いずれ人的資本が手に入る。(図2 02)
能力やスキルや資格などである。

それらを手にすると仕事におけるパフォーマンスが上がり、成果を出せるようになると。ここまではスムーズに理解ができる。

ここからが多くの人が勘違いしやすい点だとして、「人的資本は金融資本に直結する訳ではない」と述べている。

例えば社長の月の給料が100万円だとして、社員Aの給料が20万円、社員Bの給料が50万円だとする。

こうした場合、社長の人的資本、即ち能力や仕事量は社員Aの5倍あるかと言われればそうではないし、社員Bはおそらく社長と遜色ない人的資本を持っているだろう。

では、何が違うのかと言えば社会資本である。(図2 03)
実績や信頼、評判などだ。

ここが大きなポイントであると。


環境を変えるタイミングがあるとするなら


本田圭佑が近畿大学の卒業式のスピーチでこんな事を言っていた。

夢を叶える上で一番大事にしていることがあります。簡単なことです。でも、意外にやらないことです。それは”環境にこだわる”ということです。

本田圭佑

一生懸命やっているのに、夢や目標が達成できない、評価されない、必要とされないのは環境へのこだわりが甘いんです。と。

つまり、先ほどの図に補足するならばこのようになる。


図3 キャリアフロー図(転機)


恐らく、転職などの環境を変えるタイミングがあるならばこのタイミングであるのであるのではないだろうか。

そして金融資本を手にすると”時間”を管理する事ができる。
これがキャリアの原理・原則だ。


夢や目標について


M1チャンピオンを目指すお笑い芸人は意外と走り続けられるけど、就活は長いこと走り続けられない。


夢というのは現実との差分を受け入れる事だから、結構しんどかったりする。もちろん夢の種類によって様々ではあるんだけど、中でも一番しんどいのは”環境”を手にするための目標だったりする。そう就活とか。

社会資本が形成できている状態であれば、環境を手にすることはそこまで難しくないのかもしれないけれど、それがない状態で環境を手にする事は難しい。

でも、社会資本を形成するのには人的資本が価値を持ち、評価される場所に身を置くことが重要だったりする訳で、そのジレンマから抜け出すのは容易ではない。

夢とか目標の手段に”快”を伴うものであれば少しは楽だったりする。誰かが喜んでくれたり、評価してもらえたり、前に進んでいる感覚があったり。そう、お笑い芸人の下積みとか。

手段の途中に、もしくは手段自体に快を伴う夢は人生を豊かにしてくれる。けれども快は麻薬で思考を遠ざける。


夢とか目標とか目的の弊害


目的は手段を正当化する。

國分功一郎

「信号無視やスピード違反は良い行いか?」と問われれば否と答えるだろう。

では、大切な人との待ち合わせの約束があるが、遅れてしまいそうな時はどうだろうか。

人は信号無視やスピード違反を正当化してしまう。

「大切な人との待ち合わせに間に合う」という事が目的になった瞬間、全ての手段は正当化されてしまう。

明確な目標は時として必要なのかもしれない。それはなぜなら人生は全てのことをするのにはあまりにも短いから。

しかし、明確な目標を定めた瞬間全ての行為は手段になってしまう。そして人はそれを正当化してしまう。

本当はもっと沢山のことを楽しむ時間があったのにも関わらず、全てを目標を達成するために時間を使い、それを正当化してしまう。

大きな矛盾だ。そして残酷だ。


生きるということ


努力には階層があって”ドリョク”に逃げてはならない。
キャリアには原理があって原則がある。
夢には種類があって苦しい道もある。
もしも、登るのが楽しいのならそんな幸せなことはなけど、時には努力に立ち返ってみて。
そして夢とか目標ってのは足元を盲目にするからな。

これらを覚えておくんだ。

それは何故なら人生は短いから。




菅野雅之




この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?