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論文「お客様は神様です」 ※全文掲載 (拙書「山下眞史心理学医学哲学」より)

 演歌界の大御所三波春夫はどういうつもりでいったのかはわからないが、先日テレビをつけたところ、鼻息交じりでこのセリフを叫ぶ集団が映された。某携帯会社の研究風景である。研修指導者の「お前たちにとってお客様はなんだ?」という問いに対する答えが「神様です!」であった。 

 日本には確固とした神様を信じるものは、特定の宗教に属していない限りいない、といっても過言ではないだろう。近頃はオウム真理教を始めとするカルトのせいで、宗教という言葉自体にアレルギーを感じているものも少なくはないだろう。  

 世界の主流の宗教には唯一神、また経典が存在する。多くは小さな頃から経典の教えを学び、神に絶対服従を誓う。 

 一方、日本にはそういう習慣はほとんどない。神にしたがうのではないのだから、個々の集団の長、年長者に従うようになる。それが日本独特の家族形式、公よりも私、地域の利益よりも家族の満足というものが生まれたのだろう。日本にボランティア、また大きくいえば民主主義が浸透しないカラクリはここにありそうだ。 

 少し逸れたが、唯一神、創造主の代わりに、宗教とは関係のないところで、八百万の神々日本にはいた。その神々のいるところは、豊かな自然の中である。しかし、今や世界に誇れる日本の自然も破壊されつつある。千と千尋の神隠しではないが、人間が住む為ではなく、神々が安心して過ごせる場所がなくなりつつあるのだ。それももともと採算の取れないとわかっている公共施設、高速道路などの建築のため、というのは納得が行かない。それによって特をするのは役所と建設業者だけだ。たった一部の人間の利益のためだけに、八百万の神を含めた多くの生物の利益が奪われている。 

 人間誰しも、何かにすがりたいと心の底では思っている生き物だ。諸外国にはそれがある。しかし日本にそれがはない。神の存在を信じるか信じないかは、日本においては十把一からげである。 

 積極的な無神論者もそう多くはないだろうが、どちらかといえば神を信じていないものの方が多いのではないだろうか。 

 それに加えて輸入産物の個人主義。無神論的個人主義思想の最後の到達点は人神、人間が神様と考えることだそうだ。 

 さっき挙げた話と合わせて考えてみるとどうだろうか?お客様(消費者)に満足していただけるものを、そう謳っている企業ほど、自分たちのことしか考えていないような行動を取ってはいないだろうか?政府にしかりだ。客、国民を神様と崇めておけば、何か問題があっても「お客様(国民)のためを思って」という言葉で返して責任の所在をうやむや、ひどくなれば神様(消費者、国民)のせいにまでする。 

 キリスト教における贖罪とは、神が人間のために身代わりになることにより、人間の罪が救われるという、キリスト教徒以外にはまったく不可解な代物である。 

 西洋から取り入れたもので、ものの見事に日本式になっているものがこれであり、その身代わりにさせられているのが神ではなく国民である。 

 大戦で負け、天皇の人間宣言があり、それを契機に幻を信じていた日本民族の連帯感が弱まった。 

 また、自然破壊によって倫理規範ともなっていた妖怪または八百万の神(言霊)の多くの出没場所を奪った。和辻哲郎のいう風土、我々自身を、間柄としての我々自身を見出す風土。言葉を変えて言えば、土地、風土が人間、集団を形成する。 

 人間よりも先に土地があった。その地上で生物が進化を繰り返し現在の人間になり、アフリカから各地に移住したとの定説があるが、遺伝子技術の発達により、アフリカで進化して各地へ散らばったのか、各地へ散らばってから進化したのかはまだわかっていないそうだ。それはともかくとして元は同じ人間であっても、住む場所が変わればその土地に合うように住居、食物の採取、衣服にいたるまで変えなければならない。 

 ギリシャには早い時期に素晴らしい哲学、芸術が生まれ、日本にはそれらが育つには時間がかかったと言われているようだ。しかし、彼に言わせればギリシャの気候は穏やかで、きわめて人間がその土地の自然を克服しやすかった。 

 一方日本は変化に富む気候、冬は雪、奴は台風など自然の脅威がギリシャのそれとは比べ物にならなかった。よって自然を愛するというよりも恐れ、いかに自然の脅威を克服するかということで精一杯であった。 

 よって穏やかな気候からは自然の法則は見出せたであろうが、日本のそれは相当の年月を費やさなければならなかった。その法則が哲学の元であり、芸術の土台となったそうだ。その代わりに日本では農業の技術は世界でも眼を見張るもになった。 

 このように土地、気候によってその地域での集団の運営、性格が違ってくる。善し悪しも一長一短である。当然その一員である個人の性格等も、違いがあるというのは理解してもらえるだろう。自然を見れば、その土地の気候を見ればある程度の性格が把握できるというのも肯ける。 

 要するに気候、自然が人間を育てているのだ。しかし、今やその生みの親である自然が姿を消しつつある今日。身体機能、精神的機能などに加え、いわゆる個性、人間関係が簡素になるのは火を見るより明らかだろう。自然という親がなければ人間という子供は育たない。そういう観点から見て、経済廃棄物に覆われた都会に、本当に個性的な人間は育つのだろうか? 

 余談ではあるが、ノーベル賞受賞者の幼年時代を調査したところ、ほとんどのものが自然の中で多くの時間を過ごしていたことが判明したそうだ。 

 都会は田舎者の集まりだとはいっても、河川や雑木林などに取って代わったコンクリートや機械類などの環境の下に長くすごしていれば関係ない。 

 機械類に囲まれているのは何も都会だけではない。現在の家屋だってそうだ。イギリスでは千軒以上の現代家屋を対象に空気を調べたら、なんと外にいるよりも二十から三十倍も汚染していると出たそうだ。引き篭もり人間が増えているそうだが、精神的にだけでなく、身体的にもいいことなんてなにもないのだ。 

 堂々と縋(すが)れるものがない、というのが原因の一つとも考えられるが、基本的に依存型の人間の多いこの国に、全ては過去の日本の先導者による政策のひずみによる責任、またはそれを黙視してきた個々の責任という極論を持ってくるのも気が引ける。ダメなものをダメというほど簡単なことはないのだ。 

 だとしたら今の世の中をこんな状態から脱出させるにはどうしたらよいのだろうか? さあ、たまにはパソコンを捨て町へ出よう。 (了)」 

これも、二十代前半に書いた、随筆擬きです。

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