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路傍の石に目をみはり、魂のかけらを宿す

少し前の記事になるが、テッド・チャン、ケン・リュウ、エルヴィア・ウィルク、ジーン・リムという4人のSF作家が対談している記事がある。ずいぶんまえに読んだのだが、自分のtwitterのフィードを遡っていたときに見つけ、改めていま琴線にふれるところがあった。
インタビュアーは、「何に希望を見出すか」と尋ねたところ、ケン・リュウは以下のように答えていた。

自分がもっと大勢に聴かせたいと思う声のヴォリュームを上げたり、世界の片隅に咲くささやかな美やその素晴らしさを指し示したり。そんなチャンスに恵まれるたび、僕は自分自身の人間性を少しだけ取り戻す。僕たちが生きているる、なにもかもが商品として扱われるような、非人間的な監視社会からね。
同じくらい大切なのが、モノを作ることにしがみつくことだ。現代の世界は商品だけでなく、商品化されたサービスを要求する。その結果、ほとんどの仕事が単調な反復作業や、ただの手順や、オフィスでの退屈で疲れる仕事になり果てている。しかも、それはもう少しで機械にとってかわられる。今、自分の人生に意味や目的を見出すには、自分の魂のかけらを宿した美しいものを作らなくてはいけない。これまでにもまして。そこにしがみつくことから希望は始まる

路傍のピクニック
4人のSF作家がスペキュレイティブ フィクション、
未来を書くこと、パラレル ワールドを思い描くことについて語る

これがとってもいいなと思った。やっぱりぼくは、いろんなものが人間的ではなくなってしまう、これは人間だけのはなしではない、植物が素材としてだけ扱われることもそう。そんな非人間的、有用性にのみ定義されたモノ的な類に還元されてしまうことへの抵抗をしていきたいのだな、と思った。
抵抗をしていきたい、っていうのはぼく自身がそう扱われることへのひたすらな恐れを表しているのかもしれない。あるいは、森のなかで、苔やきのこや日々移ろう草木の成長や、一瞬一瞬でゆらめく海のさざなみ、といったフィンランドで歓びを教えてくれた交感的なものを大切にしたいからだ。

でもやっぱり、今日本にもどって3年も経って、会社もつくって生き延びるための動きもそれなりにしなければいけなくて、そんな歓びに満ちた毎日なのか、って言われたらそう感じられず、ただただパソコンに向き合ってる日だってあるわけだ。簡単じゃないよ人生。

ただ自分は器用には生きられないし、同じような人が多いと思う。だから、こうやって何かを書いて吐き出すことで「もっと大勢に聴かせたいと思う声のヴォリュームを上げ」ることで、誰でもない自分自身の声に耳を傾けなおす機会をつくっている。そして、やっぱり「世界の片隅に咲くささやかな美やその素晴らしさ」を瞬間でもっと感じたいのだ。

日曜日に公園であそぶ家族の姿もそうだし、ふと気づくと秋模様になった朝の冷気や道端に爆弾投下のように落ちて秋の匂いをもたらす銀杏もそうだし、雨上がりの水たまりに浮かぶ空の色もよい。そんな美しさや面白さがあふれていて、それを味わい、浸ることができるための身体性と感受性。センスオブワンダー。それに触れるときには「世界って捨てたもんじゃないな」って思える。

やっぱり今の世の中、ふつうに生きてるだけで心苦しいことはたくさんある。フィンランドに留学するまえに、ともだちとイスラエルに旅をした。そこでパレスチナとの関係の複雑性は、分断壁を目の当たりにしたり、ユダヤミュージアムにいったり、肌でふれた。それが今こんなことになっている。ロシアとウクライナの戦争もしかり。パートナーは台湾人だが、有事への不安を常に抱えている。

日本社会のどうしようもない変わらなさだって、まるで人を人だと思っていないような政治家の発言だって、どうしようもない。自分がこれから生きていくあいだには、そして、どうにもならないかもしれない、といった諦観もあったりする。それでも出来ることを自分なりの仕方でやろうというので、会社をやっているわけだけど。手を伸ばしてできることなんて多くはない。
そういう全体的な世界の動きに応じて、自分の状態もできあがっていく。どうしようもない大きな問題がたくさんあって、それらはモートンがハイパーオブジェクトっていうように、ひとにはもう手に負えないくらい大きな問題系だ。だから、「世界って捨てたもんじゃないじゃん、美しいじゃん」って常に気づき、味わえることが、こころを壊さないで生きていくための、技法としてのアートなのだ。最近、自分がDeep Careという会社でやっているのは、結論こういうことなのかもなーっておもった。

そして、「同じくらい大切なのが、モノを作ることにしがみつくこと」だとケン・リュウは語っていた。前に少し、木彫りで円空仏を彫っていた。3つほどつくってやめた。その時はamazonで木材を買ったのだけど、最近、いい感じの木端を拾って、顔を彫ったり、とてもかるい感じで再び彫りはじめた。いい感じだ。

何ごとも代替されていくなかでの手仕事と自分でつくる可能性は無限だなと思った。つくっている間、時間がゆがむ。これは存在のかげかえのなさを、ものを作ることを通じて感じられる時間、というものが生み出されているんだな、とおもった。そのときには、今ここに確実にある身体がちゃんと実感できる。それは、祈りにも似たような、時の流れかただとおもった。円空さんが仏を彫って遊行することを、修行としていたのもわからなくはない。

その時間と、ケン・リュウの「自分の魂のかけらを宿した美しいものを作らなくてはいけない」といった問題意識はリンクする。美しいものには、魂のかけらが宿っている。それは単に”もの”だけではなく、あるふるまいや所作にも宿うる。愛でる行為が美しいのは、魂のかけらがそこに感じ取れるからだ。この次元を言語化していくのはむずかしい。この次元を日々に増やしていくことも簡単ではなさそうだ。それを追求するのが修行なんだろうな、とおもった。

路傍の石のように、そのあたりに落ちているものに美を見出し、魂のかけらを宿すように手にかけ、ものをつくる。それに「しがみつくこと」からしか希望ははじまらない、というのは、スッとこころに入ってくる。

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