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受け取るためには、気づくこと。贈与としてのバトンを受け取る。

何かを「受け取る」ということは、とても日常的な動詞であると同時に、宗教的な位相まで深みを持ちうる。
郵便物を受け取る、メッセージを受け取る、好意を受け取る、プレゼントを受け取る、フィードバックを受け取る、バトンを受け取る…。
こうして用例を並べてみると、それらが向こう側から「やってくる」ものだということがわかる。そして、やってきたときに受け取ることが難しい類のものもあれば、比較的受け取りやすいなというものもある。

郵便物を受け取るのは、サインをすればいいからとても簡単だ。しかし、もしその郵便物が差出人不明でよくわからないものが中身だったら、少し怖くなる。物理的には受け取ったけど、こころで受け取っているのか、と言われたら抵抗感があるかもしれない。

好意やプレゼントも近しい部分があって、誰から何を受け取るのかによって、受け取れるかどうかが変わってくる。過剰な好意はときに、受け取り切ることができない。自分に同じだけの好意を返せる気がしなかったり。プレゼントも過剰なときがあるだろうし、同じ人からもらいつづけることのためらいもある。

受け取る、というのは基本的に「贈与を受け取る」ことだ。だから、好意もプレゼントも「受け取る」と「お返し(返礼)」の義務が生じる。贈与とは支配の形態につながりうる、綺麗だけじゃない側面をもつ。
そう思うと、郵便物を受け取るときに、それが受け取りやすいのは経済的に金銭と交換した非贈与のかたちだったり、受け取るものが視覚的に認知できるからなのかもしれない。
なんてことを訥々と考えていた。というのも自分は最近いかに「受け取る」ことができていないのか、と感じた経験がいくつかあったからだ。

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バトン、というのは面白いメタファだ。リレーは前の走者が次の走者にバトンを託す。次の走者はそのバトンを受け取る。バトンは、リレーだけの話に限らない。家業を営んでいるひとたちは、先代や先先代からバトンを受け取り、自身の代で絶やさないように、未来に継いでいく。

先日、友達と飲んでいたときに彼は「自分がやっている活動や関心が、だれの系譜にあるのか」を話していた。そのひとりに、『野生の思考』の著者であり人類学者のレヴィ=ストロースを挙げていた。「自分が勝手に彼のバトンを受け取った気でいる」といったようなことを、彼が話していた。

そして、ぼくもそれを問われた。その問い自体が贈与だった。ぼくはだれのバトンを受け取っているのだろうか。もちろん、彼の場合もレヴィ=ストロースという人類学者から直接やりとりのなかで、バトンを託されたわけではない。ある意味で「勝手に受け取った」ことが面白い。

バトンは、勝手に受け取れるものなのだ。でもそれは、自分がそのバトンを受け取るんだ、って覚悟めいたものではなく、どこかでバトンがやってきてしまった、という曖昧で思いがけず芽生えた錯覚に近い気がする。

以前、京都のある会社の人たちと話していた。その代表の方は、ぼくの会社の説明を聞いたあと、「こういう人が出てきてくれたんだなあ、自分の活動はあなたよりも少し先の時代に、活動の土壌を耕していく役割にあったんだね。そして、自分たちも、さらに先の時代の人たちが土を作ってくれたから、なんとか経済活動の中でも生きてこられたんだ」と話してくれた。ぼくと話したことで、その方も先代からバトンを受け取って、今託す役目にいる、といった感覚がやってきたのを、受け取ったんだろうなと思う。

ぼくは、その言葉をきちんと受け取れたかは分からない。それを本当に受け取る、とは志を同じくしつつも次の代が活動できる何かに繋げるために、今の時代での役割を果たすことだからだ。

ただ、こうやってみてみると、バトンっていうのは、実はあるとき勝手に受け取れるものだ。それは見出されるもの、気づかれることを待っているもの、とも言える。ぼくがいま考えたい、つくりたい、活動したい、という自分の生き方の基盤には、当然これまでたくさん読んだいろんな本を書いた死者たちや、生きている間にあった多くの人々とのことばの交わし合いから、つくられている。この時の、この人とのやりとりが大切だった、と思うことはある。しかし「この人からこのバトンを受け取った」というほどの感覚があるのか、と問われるとまだそこに気づけていない自分がいるんだなあ、と思った。

この問い自体を受け取り、抱えつづけることで、実はすでに受け取っていたバトンに気づけるのだろうと思う。
今度は、これに関連してもっと宗教的な射程で受け取る、ということについて書いてみたいなとおもう。

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