麻雀界は「おとぎ話」で自己弁護する

剣呑なタイトルで申し訳ない。

まずはこの記事を読んでほしい

読んでいただけただろうか。
「なんのこっちゃ」と思った人は、今すぐブラウザバックしてほしい。この記事を読んでも得られるものなど何もない。

さて、先の記事を読んで私はある種の既視感を感じた。
何だろうかと記憶を手繰ると、幼少期、田舎にある実家のポストに投函されていた新興宗教のパンフレット、そこに書いてあった説話だと思いいたった。

・仏教という権威ある宗教を被せる
・登場人物の道徳的な高さを強調する
・都合の悪いことには言及しない

ぱっと考えただけでこれだけの共通点があった。
やはり、先の記事は新興宗教、その経典なのだ。

急げ、悩める魂よ、
苦しみの洞窟から出よ。
急げ ― どこへ? ― ゴルゴタへ!
信仰の翼を身につけ
飛べ ― どこへ? ― 十字架の丘へ。
君達の幸せはそこでこそ花咲くのだ!
(ヨハネ受難曲より)




……なんだかなぁ、と思った。

「姓同名の麻雀プロが存在するが、そちらとは関係ない話として読んで欲しい。」
「この先の話は、ある一件をモデルにしたフィクションだ。」

しょうもない予防線。
プロパガンダのための都合のいいおとぎ話。


アンチへの言及や記事についたコメントを読むと、いやでもレオン・フェスティンガーの『予言がはずれるとき』で報告されている、予言が外れてもより信心が増していった新興宗教の団体を思い出す。

『予言がはずれるとき』については以下の紹介記事が詳しい↓



麻雀界はそれでいいのだろうか。
競技化を目指しているのではなかったのか?


木原プロの件はどう考えても失言だろう。

「仲間内のお遊びなら、ズルしてもそんな責めることじゃないでしょ」
(木原プロのnoteを読み、最大限好意的に解釈してます)
こんなセリフを、権威も実力もあるプロ棋士が言ったらダメだろう。

影響力のあるプロが言うべきは

「ゴースティングしたかどうかはわからない(これは実際に言ってた)」
「でもズルはしちゃ駄目」
「ズルなんかしないで、正々堂々と打ったほうが楽しい」

こうじゃないだろうか。
反吐が出そうな甘っちょろい正論だが、世の麻雀打ちの規範となるべきプロが言うべきことはこれ以外にあり得ない。
(もっといい言い方があるかもしれないが、なんにせよ「ズルは駄目」としなければならないのは間違いないだろう。)


ウヒョ助氏は「エンタメとしての演出ならゴースティングはあり、それを理解できないほうがおかしい」との考えのようだが、少なくとも『麻雀側』の人間がそれを言っちゃダメだろう。

プロレスのような、一般まで演出や台本の存在が知られている興行ならまだしも、Youtubeの配信、それも運が絡むゲームを行うリアルタイム配信に「エンタメ的やらせ演出」があると考える視聴者はどれだけいるのか。

よしんばすべて演出、共演者全員が打ち合わせた上での壮大な茶番だとしても、「いや、ズルじゃなくて演出だから」なんて開き直るのは無しだろう。

「演出ありの番組」と仮定して、それを見る視聴者は大きく3タイプいる。
①演出があることを確信している人
②演出があってもおかしくないと思う人
③演出の存在など想像だにしない人

問題なのは③だ。
例えば、純粋な中学生や高校生が、楠氏の華麗な一点読みにあこがれて麻雀を始めたとする。

その人が上達し、うすうすと「あれはもしかして演出だったのかも…」と思うようになるならまだいい。その人は努力で上達した経験があり、たとえ「ズルじゃん!」なんて思ったとしても、簡単には麻雀をやめたりしないだろう。

しかし、「いやあれ演出だからw」なんて言葉を外野の、麻雀に詳しい権威ある人から聞いたらどうだろう。きっと、とてもショックを受けるだろう。
その人は麻雀が嫌いになってしまうかもしれないし、もしかしたら二度と麻雀をやらなくなってしまうかもしれない。



楠氏の疑惑はゴースティングだけではない。
むしろ、ゴースティングは数ある疑惑の中でも傍流と言ってもいい部分だ。

氏の数ある疑惑をここで説明することは控える。
多くは未だ疑惑であるし、いずれも簡単に説明できるものではない。
そして、それらを徒に敷衍することを、私は良しとしない。

私はそれらの疑惑に納得がいく説明がされ、氏も含めた関係者全員が晴れやかな気持ちで復帰ができる日を望んでいます。


そして、麻雀という理不尽だが知的で面白いゲームが広まり、「競技」としても盛り上がっていくことを、心から望んでいます。



この記事を書いていて何となく思い出した曲