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女性教職について/国際女性デーに際して

今日はミモザの日 国際女性デーです。
女性教職として感じて来たことを書きました。


"ユダヤ人もギリシヤ人もなく、

奴隷も自由人もなく、男子も女子も

ありません。なぜなら、

あなたがたはみな、

キリスト・イエスにあって、

一つだからです。

もしあなたがたがキリストのもので

あれば、それによってアブラハムの子孫であり、

約束による相続人なのです。"

ガラテヤ人への手紙 3章28~29節

神学生になってから、女性が牧師になるのは確かに男性よりハードルが高い面があると感じられるようになった。

女性教職を認めない場合主に根拠として挙げられるのは次の個所だ。

1コリント14:34-35「女の人は教会では黙っていなさい。彼女たちは語ることを許されてはいません。律法も言っているように、従いなさい。もし何かを知りたければ、家で自分の夫に尋ねなさい。教会で語ることは、女の人にとって恥ずかしい事なのです。」

1テモテ2:12-14「私は、女が教えたり男を支配したりすることを許しません。むしろ、静かにしていなさい。アダムが初めに造られ、それからエバが造られたからです。そして、アダムはだまされませんでしたが、女はだまされて過ちを犯したのです。」

中には「霊的に女性が男性より弱く、罪に対しても弱い」という理解もあるらしい。


この箇所だけ切り取ると確かに女性教職という存在が間違っているようだが、パウロは1コリ11:5では「女はだれでも祈りや預言をするとき、頭にかぶり物を着けていなかったら、自分の頭を辱めることになります。」と語っており、つまり女性が預言することを認めている。


パウロの言葉を全て守るなら女性は教会で被り物をしなければならないことになるが、一部の教会しかそうはしていない。おそらくパウロが特定の教会の状況に合わせて語っている言葉も当然手紙の中にあって、女性に対する言葉も無秩序になりつつある教会に対して語ったのではないだろうか。上の言葉も前後の言葉を読むとよけいに、教会の中での放縦への戒めを語っているのではないかととれる。

確かにエバが先に誘惑に陥ったが、アダムもその誘惑には勝てなかった。福音において大切なのは男性女性の区別なく「人」が霊的に堕落して、男性の為だけでも女性の為だけでもなく「人」を救うためにキリストが来た事だ。そしてその「キリスト」は物理的には女性であるマリアから生まれていて、罪と同時に救いも女性から世に入ることになった。福音を考えるうえで罪は重要だが、罪に関して男女に区別を設けたら救いにも区別が生じるわけで、そんな解釈をしたらすべての人間を救うためにキリストが来られたという聖書の語る福音自体が歪んでしまう。

霊的に女性が男性より弱く、罪に対しても弱いのなら、どうして聖書の中にエステル記やルツ記があるのか。エステルはハマンより神様の前に正しかった。しかしだからといって女性が男性より霊的に正しいとかそういうことをエステル記は言いたいのではない。聖書を通してみれば「霊的に女性が男性より弱く、罪に対しても弱い」というのは全く一般化できないしナンセンスな議論だ。聖書が全体を通して啓示しているのは福音だからだ。


復活のイエス様が最初に会ったのは女性たちだった。女性がみことばをとりつげないのなら、なぜ聖書にデボラやチッポラや、新約ではアンナが女性預言者としてでてくるのか。聖書は彼らの存在を否定していない。
現在、ほぼすべての教会でCSでは普通に女性がメッセージできる。対象が子供になっているというだけで、みことばを語ることは目的もなされていることも本質的に礼拝説教と変わらない。女性の説教を認めないとすることには主張する側にもすごく曖昧な部分がある。


はじめに神学生になってから男性の方が牧師になりやすいと感じたと書いたが、単純に日本のプロテスタントの教会の制度の問題だと思う。基本的に一つの教会を一人の牧師がもつわけで、そうすると男女関係なくいろんな人に対応するぶん男性の方が安全だ。一人で牧会するとかわりがきかない仕事だから、体調に波がある女性よりコンスタントに働ける男性が向いているとも思う。しかし以前インターンで行ったスウェーデンの教会は基本一つの教会をかなりの人数で持っていたので女性が男性より働きにくそうだとは思わなかった。女性の乗り越えるべきハードルの高さは日本のプロテスタント教会の歴史と伝統がつくりあげたものなのだと思う。現状は、女性も少ないからなかなか疑問すら持たれない。


もし女性教職を神が赦されないなら、そもそも今存在しないのではないだろうか。聖書を読む時に大切なのはキリストを見失わないことだと思う。もちろん聖書の言葉は一言一句神の言葉だが、ある箇所だけ一人歩きさせて解釈すると神の意図を見失うのではないだろうか。

聖書の著者は神で、その神様が聖書の全編を通して伝えたいのは福音なのだから。ルカの福音書の24章で復活のキリストが弟子たちに聖書を教えているが、それは旧約聖書にあることもすべて「わたしについて」書いてあるという事だった。神ご自身が聖書の読み方を教えている。聖書を解釈するのも、それから教会の在り方を整えることも、すべてそこに「キリスト」をみて行わなければならないということではないだろうか。逆を言えばたとえ誰が語ったとしても、キリストと福音が透けて見えない解釈や議論は全部真理から外れているということだと思う。キリストは神だ。神は愛であるとヨハネの手紙に書かれている。愛に反する解釈や意見は間違っているし、愛に反しない解釈や意見は正しいのだ。


最近、女性教職が正しいかどうかは大切な議論であると同時に重要な議論ではのかもしれないと思う。神が男性と同時に女性を召している現実があって、聖書は、人間の区別なく愛し合うことの大切さと、キリストを通して「人」への救いがもたらされ、そこにすべての人への神の愛が示されたということを語っているのだから。

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