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私が選んだ

ポッドキャストFaith Hope Loveで配信している聖書のメッセージです。私がキリストに出会ったときのことについてです。YouTube

ヨハネの福音書15章16-17節
あなたがたがわたしを選んだのではなく、わたしがあなたがたを選び、あなたがたを任命しました。それは、あなたがたが行って実を結び、その実が残るようになるため、また、あなたがたがわたしの名によって父に求めるものをすべて、父が与えてくださるようになるためです。あなたがたが互いに愛し合うこと、わたしはこれを、あなたがたに命じます。

 私は母がクリスチャンだったので、幼いころから教会に通っていました。私が小学生の時、牧師先生のお嬢さんである私の友達が洗礼を受けました。洗礼はキリストを信じる決心をしたときに、古い自分に死に、新しいいのちと共に生きることを表明するものです。私のいた教会では、洗礼の時に神様が自分にどのように関わってくださったかを語る「証」をすることになっていました。私の友達は、「お父さんが、あなたがイエス様を選んだのではなく、イエス様があなたを選んだのだよ。と言ってくれました。」と語っていました。その言葉はわたしの中に強く印象付けられました。

 私が大学生になった時、母が病気で入院しました。病気が分かった時、母は新約聖書の一節であるヨハネの福音書11章4節「この病気は死で終わるものではなく、神の栄光のためのものです。それによって神の子が栄光を受けることになります。」という御言葉が与えられたと私に言いました。母はそれまである事情で教会を離れていましたが、このことをきっかけに再び熱心に教会に通いだしました。母は病気になったにも関わらず、内側から力を得て以前より元気になっていました。私は家族以上に母の近くにいるイエス様を見ました。母が手術を受けた日、私は一人病室に母と共に泊まりました。手術後眠っている母につながれた機械の音が響く病室で、泣きながら不安と恐れで一睡もできない夜を過ごしました。手術後、母は順調に回復し、神様への思いをどんどん強めていきました。
 
 その後、私は大学で一人の神父さんに出会いました。その方は、出会う人一人一人の一番美しいものを見つめようとするようなまなざしを持った方でした。その神父さんの「砂漠の中にいのちがある」という説教を聞いたとき、あの母の手術の夜、母の最も近くにイエス様がいるのと同様に、私の最も近くにイエス様がいたのだと分かりました。その頃から私の目に入る世界は変わりました。友達だけでなく、駅にいるホームレスの方や道ですれ違う人やたまたまバスで乗り合わせるような人も、もう私には他人ではなくなりました。「これらのわたしの兄弟たち、それも最も小さい者たちの一人にしたことは、わたしにしたのです。」という聖書の御言葉ゆえに、その人たちは、イエス様なのだと思ったのです。それは目に見える世界が輝くような、自分が新しく生まれる体験でした。わたしは子供のころいじめにあっていて、辛すぎたその記憶にはずっと蓋をして生きてきました。しかし、血の汗を流しながら十字架に掛かる前夜「この杯を取り除いてください」と祈り、あざけられながら人間の罪のために十字架に掛かって死んだイエス様を思うと、なぜか「いじめを受けたのが他の子でなくて私で良かったのかもしれない」と思えました。自然と涙が流れ、人を憎む気持ちが癒されていきました。圧倒的な光に照らされて、自分の罪を自覚するようになりました。私は洗礼を受ける決心をし、その年のクリスマスに受洗しました。

 洗礼を受けると同時に、神様に仕えて生きていく思いが与えられました。神様に仕える人生が、わたしにとって最も輝きに満ちたものに思えました。教会の牧師先生に聖書の御言葉を求めるように言われ、読んでいると次の言葉が目に入りました。

「あなたがたがわたしを選んだのではなく、わたしがあなたがたを選び、あなたがたを任命しました。それは、あなたがたが行って実を結び、その実が残るようになるため、また、あなたがたがわたしの名によって父に求めるものをすべて、父が与えてくださるようになるためです。あなたがたが互いに愛し合うこと、わたしはこれを、あなたがたに命じます。」ヨハネの福音書15章16節

 この言葉はわたしが幼いころ友達の洗礼の時教会で聞いた「あなたがイエス様を選んだのではなく、イエス様があなたを選んだのだよ」という言葉でした。私は生涯この言葉を握って歩んでいくのだと思いました。そして、「互いに愛し合いなさい」というイエス様の命令を伝えるために、愛を伝えるために生きていくのだとわかりました。神様は愛だからです。
実に、母の与えられた病気は、母が与えられた御言葉どおり、神の栄光をあらわすものでした。このことによって、私は自分が小さいころからきいていた聖書の話が、聖書が伝える神様がどんなに素晴らしいかがわかり、人生が変えられたからです。

 愛のない人生は暗闇です。愛に溢れた人生は、光り輝くものです。イエス様は、人の罪を背負って十字架に掛かり、復活し、あたらしいいのちを人に与えました。永遠に私たちと共にいることを、それもだれよりも近くで共にいることを約束してくださいました。そこに、神の示した最高の愛があります。この愛によって人を愛する歩みこそ、人間に求められた歩みなのです。
私が神様を選んだのではなく、神様の方から私の手を握り、わたしを抱きしめに来てくださいました。神様の御手の中で、苦しみは素晴らしいものに変えられました。不幸と言われるようなことは神様の愛の中で最高の幸せに変えられました。私は死んだ者から生きる者へと変えられました。私の願うものを願う前から与えてくださり、神様の愛という実がなるように、私の人生を整えてくださいました。神様は私の悲しみを、恵みと喜びに変えられました。ウェストミンスタ―小教理問答という17世紀にできたキリスト教の教理の問答書は、次の言葉からはじまります。「問一 人のおもな目的は、何ですか。 答 人のおもな目的は、神の栄光をあらわし、永遠に神を喜ぶことです。」

 人は神の栄光をあらわすために生きています。神を永遠に喜ぶために生きています。それは、あなたを選んでくださった神様の溢れる愛を受けて、その愛を注いで、人を愛していく歩みです。そのために、私たちはこの世に贈られ、命が与えられ、生きています。

HP Faith Hope Love
WebマガジンAMOR陽だまりの丘の連載 Rejoice! 私の道の光

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