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言の葉便り 花便り 北アルプス山麓から(十六)丸山健二

 安らぎとときめきという、互いに相反する感動を、素人の造園家に求められつづける庭の苛立ちときたら、「さもありなん」ということなのでしょう。
 しかし、極端から極端へと走りがちな、もしかすると自我意識に少々狂いが生じているのかもしれないこの私ときたら、そうした相反する感動の融合を求めて止まないのです。
 いくら真剣に、あるいはどんなにふざけて生きてみたところで、おのれをしっかり確保する方向へなかなか進んでくれない、その理由が未だによくわかりません。
 文学における新作への挑戦もまた然りで、どうやらその難関こそが創作の原動力を成しているらしく、ということはつまり、この私が求めている人生がずばりそれということなのでしょうか。もしそうだとしたら、外面的にはともかく、内面的には煩悶の嵐の連続となるはずですが、その自覚はかけらもありません。
 それにしても何故にそうしたややこしい感動に浸りたがるのか、我ながら理解に苦しみます。屈折した精神の為せる業と言ってしまえばそれまでですが、そのくせ、人生の目的をどこまでも推進する確固たる意志を持っているのかどうかについては、残念ながら目下のところはただ怪しい限りとしか言いようがないのです。
 そんな少々危ない主の身勝手な思いなどお構いなしに、例年の経過に沿ってほぼ期待通りに咲いた花々は、見方によっては笑うに笑えない道化役者かもしれない私のことを、植物の命を弄ぶ冷血漢として見ているのかもしれません。さもなければ、鉄瓶に付着した湯垢程度の存在と軽く見ているのでしょうか。
 そのどちらでも構わないという思いが自己失墜の始まりでなければいいのですが……。
 高麗の頂を覆う雲に映じた朝日の光が、何かしら素晴らしい予感を投げかけてきます。
抹消にまで心を配る新緑が、単純にして複雑な一介の物書きを迷夢から覚めたような心地へといざなってくれます。万象がこの三百五十坪に集結したような錯覚が強まっています。
 そして、爽快なる一夜を明かしたタイハクオウムのバロン君が、きょうもまたこれ見よがしの目立つ振る舞いに徹しようと、地獄の使者を招きかねない絶叫を発し、それが元で毎度お馴染みの妻との口論を始めています。
 そこで私は、大人の風格を気取りながら、こうたしなめるのです。
 鳥を相手に互角の喧嘩をする人間がどこの世界にいる、と。
 
 
「どんなにつまらなくたって、現在より偉大な過去などない」と薫風が囁きました。
 
「安らぎとときめきを求めれば、心を正常に保てるかも」と晴天が仄めかしました。

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