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〈書評〉安冨歩『ありのままの私』


 私は去年から安冨歩と云う人間の著作を読みふけっている。
 きっかけは、Youtube番組・一月万冊の動画を視聴したからである。
 安冨歩と云う人間の存在自体は、2019年の参院選で、れいわ新選組の候補者として記者会見したのをYoutubeで視聴したので、知っていた。



 おそらく、多くの人が安冨氏のことをみて、印象に残るのは、その独特な姿であろう。私も最初に安冨氏の出で立ちをみて思ったことは、「一体何なんだ、この人は」であった。


 男性として生まれたが、女性の格好をすると、心が落ち着く。
 だから、女性の姿をしている。


 正直、当初の私はよくわからなかった。当時はれいわ新選組が結党したばかりで、党首の山本太郎氏の言動にばかり注目しており、安冨氏のことはあまり視界に入っていなかった。学生時代で卒論の執筆で忙しく、将来に対する漠然とした不安も重なり、2019年時点では、安冨氏のことはあまり注目しなかった。

 しかし、去年は大学を卒業したものの、仕事がなく、収入もなく、時間だけはあったので、Youtubeでたまたま安冨氏の動画を視聴した。安冨氏の語り口調は、独特の関西弁を交えた冗談も入り、最初聴いた時はふざけているのかと思ったが、どうもじっくり聴いていると、違うことがわかった。
 一月万冊のホストである清水有高氏は、安冨氏の『複雑さを生きる』を3万円以上の値段で販売しており、一体、安冨氏は述べているのか、気になった。当然、去年は金欠なので、一般書店で販売されている著作から、手に取ることにした。

 そして、現在、安冨氏の著作はかなり読み込んだ。しかし、まだよくわからない。安冨氏の著作は多彩であり、本業である経済学以外にも、『論語』や『星の王子さま』の新解釈、「安倍政権にみる立場主義」、「生きるための学問」、「自己嫌悪の向き合い方」など、あまりに幅広い言論活動を行っている。社会のあり方から個人の生き方まで、その著作の幅の広さは驚異的である。

 普通はここまで幅広い著作があると云うことは、かなり適当なことを書く人間で、同じような文章や話題を使い回すか、ろくに調べていないで適当な感想を本を書くか、あるいは以前とはぜんぜん違う内容の本を大量に出して、読者の目をくらますものだ。しかし、安冨氏の著作を読む限り、そのようなことはなかった。どの著作を読んでも、新鮮であるが、よく調べられており、以前の著作と全く切れておらず、つながっている。明らかに、一貫した著述を行っている。しかし、「安冨歩」と云う人間の実態はさっぱりわからない。不思議だ。

 本書『ありのままの私』は、現在の安冨氏の代名詞となった「女性装」をするようになった経緯がしるされている。

 本書の冒頭に記載されているのは、女性装をした安冨氏のグラビアである。私はグラビアは基本興味がなく、週刊誌を買ったことがない。まして被写体は妙齢の女性ではなく、50代の元男性である。一体、どんな画になるのかと思った。

 感想としては、またよくわからなくなった。

 何と表現したら良いのか。誰かが述べていた「コーヒーの味は誰でも知っているが、コーヒーの味をそのまま文章に書き出すことはできない」と云う感じだろうか。
 醜いわけではない。かと云って、美しいわけでもない。何とも不思議な写真である。別に、美醜の判断なんか、こちらに求めてないかのようだ。

 そんな安冨氏のグラビアに「玉田兵吾」と云う謎の人物が書いた詩がしるされている。


ありのままに? 
         玉田兵吾

「ありのままに生きる」なんて、できない。
なぜなら私は、見えないものに、とらわれているから。
とらわれの上に、『私」は立っているから。
とらわれの下に、私は押し込められているから。

しかしそれでも、私は、私。
『私」などではない私。
他の誰でもない、私。

「私」として生きるのは、嫌だ。
死んだままで生きるのは、嫌だ。
だけど私には「私」が見えない。
それでも私は、嫌だ嫌だと、もがくことならできる。
だから私は、もがく。

猫は猫として生きる。
馬は馬として生きる。
しかし人は、馬になったり猫になったりしようとする。
そして自分自身から離れる。
巨大な大脳の副作用。

大脳に頼るのはやめよう。
体に頼って生き、その上で考えよう。
私は、私として生きよう。
生きながら、もがき続けよう。

ありありて、あり。
私はここに生きる。
私はここで生きる。
自分自身というこの場所で。(2-3頁)


 以後、本書では安冨氏が女性装をするようになったのかについて述べられている。50年近く男性として生きてきた人間が「自分は女性である」と気づき、じょじょに女性の姿に変貌していく過程は読者を不思議な感覚に誘う。
 その過程を叙述する安冨氏の文体はどこかやわらかなものとなっている。女性装以前(2013年夏前)の著作と比べると、文体はいかにも理路整然としており、読者につけ入るすきをみせない感じがあった。無論だからこそ、斬新な内容の思索を行えるのだと思うが、一方で、読者には、無機質で読みづらいと思わせるところもあった。
 しかし、本書は極めてやわらかい文体として、安冨氏の思索が表現されている。私が思うに、安冨氏は女性装をすることで、「安心感」を獲得したからではないかと思う。


 しかし、やがて私は予想もしなかった、重大な事実に気づきました。それは私が女物を着ると、「ただならぬ安心感」を感じる、ということでした。
 世の中には、性的刺激を求めて女装する趣味の方がいるそうです。こういう方は、女物を着ると、興奮するでしょう。それに対して私にとって女物は、精神を安定させる効果があります。
 現に、性欲、という面に限っても、私は女物を着始めてから、大幅に落ち着きました。私は、少年時代に強い孤独感を懐いており、性的な感覚に依存する傾向があって、つまるところ、永らく性欲が旺盛で、自分でも持て余しぎみだったのです。
 ところが、女物を着るようになって、このような切迫感から一挙に解放されました。ですから、私にとって女物を着る、ということは、性的興奮を抑制する、ということになるのです。というよりもむしろ、自分を正真正銘の男と誤って認識していたことで発生する精神不安定が、「性欲」という形態をとって表出していたに過ぎない、と思っています。(43-44頁)


 安冨氏が今まで「女性装」ができなかった原因は、両親との関係にあったのではないかと自己分析している。安冨氏の両親は昭和9・10(1934・1935)年生まれで、戦時中の軍国主義教育を受けた世代である。戦時中の日本の価値観は「男の子は大きくなったら戦争に行って天皇陛下のために死ぬ、女の子は大きくなったら夫や息子を戦場に送り出し、彼らが死んだら靖国の神になったと随喜の涙を流す」(45頁)と云う「靖国精神」によって教育された。その両親との家庭環境は以下のようなものだったと云う。


 私の両親は小学校の教員でしたが、結婚をすると母親はすぐにやめて主婦になりました。彼らは表面的には戦後民主主義的で、口では「おまえの自由にすればいい」てなことを言っていましたが、腹の中では「良い学校に行って、出世しろ!」という無言のプレッシャーを私に掛けていました。
 そして、彼らの中身は、純粋な靖国精神でできていたように思うのです。というのも、表面的なとりつくろいを守るために、人間の感情を踏みにじることが平気だったからです。私が育った家は、表面的には和やかな理想的家族でしたが、中身は「お父さんの役」「お母さんの役」「長男の役」「次男の役」を演じる人で構成されていて、相互のメンバーの間に、心の交流はありませんでした。決して言ってはいけないこと、やってはいけないこと、という無言のタブーが厳然としてあり、それを超えることは誰にもできませんでした。たとえば、「学校に行きたくない」などとは、口が裂けても言えませんでした。(45-46頁)


 そんな両親と安冨氏は縁を切ることになった。理由は、当時、結婚相手から受けたモラル・ハラスメントに耐えきれず、離婚を切り出した時に、両親が反対をしたからである。その時、安冨氏は自殺を考えたぐらい追い詰められたと云う。
 両親と絶縁したことで、安冨氏はある身体的な変化を感じたと云う。それは、長年悩まされていた「アレルギー性鼻炎」が治まったことである。理由を考えた安冨氏は、両親からこどもの頃に云われたことを思い出したと云う。


 この一連の事態についていろいろ考えた挙句、私は重大なことを思い出しました。それは、私がアレルギー性鼻炎で鼻をグズグズやったりしていると、
 「そんな弱虫では、兵隊にいけないぞ!」
と親に脅されたことでした。既に時代は高度成長後期で、大阪万博なんかをやっているというのに、私は真剣に、兵隊に行くことを恐れました。(47頁)


 安冨氏は離婚を行う際に、両親に上記の件を話したところ、「そんなことは云っていない」と返事をされたと云う。


 もちろん、そんなことは永らく忘れていたのですが、離婚の過程でまだ親に助けてもらえると思って期待していたときには思い出しました。そして、兵隊のことを親に言ったら、「そんなこと言っていない」とヌカスのです。私は呆然としていました。あれだけ人を嫌な気持ちにさせておいて、自分はスッカリ忘れるとは!ええかげんにせいっ!(49頁)


 安冨氏は、自身が女性装をすることで得た安心感を以下のようにしるす。


 結論を申し上げましょう。つまり、私が男装をやめて「安心感」を得た、というのは、
 「もう女の子だから、兵隊にいかなくっていいんだもん!」
ということだったのではないか、と思うわけです。(49頁)


 安冨氏は自身の過去の交友関係を回顧すると、男性よりも女性の方が多かったと述べている。


 私はもともと、女性と一緒にいるのが好きでした。私は子供の頃は、男の子が女の子と口をきくのさえ大変でした。そんなことをすると、皆から、いろいろ言われていじめられるからです。そのプレッシャーたるや、大変なものでした。
 しかしそれでも、私は女の子の友だちがいつもいました。(略)
 高校では特に仲良くした友だちが二、三人いたのですが、全員、女子でした。そのうち一人とは毎日のように長電話していました。でも、別に付き合ったりはしていませんでした。心が通うなと思う人は、みんな女子だったのです。(略)
 大人になってからも、長続きする友だちの大半は女性でした。彼女らの恋愛の悩みなどの相談をいつも受けていましたし、こちらも相談していました。
 こういう振る舞いから、自分で自分のことを「女好き」なのかと思っていたのですが、どうやらそうではなかったようです。やはり、私の心は全体として女性的な側面が強くあって、女性の方が理解しやすいし、リラックスするのです。男性は親しい人でも、何か緊張していたことに、最近になって気付きました。(51-53頁)


 そんな安冨氏であるが恋の相手は女性であると云う。だからこそ、自分が女性だと気づきづらかったと云う。


 私は恋愛対象は、女性限定です。自分自身の性認識になかなか気づかなかった最大の理由はこれです。(54頁)


 しかし、一方で、交際した女性との関係は上手く続かなかったと云う。その理由を以下のようにしている。


 しかし振り返ってみると、私の恋愛はだいたいうまくいきませんでした。若い頃は、なんとなく接近していって、やがて燃え上がるけれど、すぐにチグハグになって、サヨナラ、というようなパターンを繰り返していました。男らしく交際を申し込む、というようなことは、やったことがなく、完全に待ちの姿勢でした。
 うまくいかなった最大の理由はおそらく、付き合っている女性が
  「なんかおかしい!」
と感じていたからではないかと思います。(略)
 そういうわけで、友だち枠の女性とは、長く付き合っていていろいろなことが通じあっているのですが、恋愛対象枠となった女性とは、今のつれあい一人を除いて関係が切れてしまいました。(55-56頁)


 なかなか知識人で、安冨氏のように、自身の性的な特性を語る人はあまりいない。例え語っていても、男性の視点が強く、女性の容姿の審美や胸のサイズなどの身体的なものやセックスの話が多く、どこか独りよがりなものが感じられることが多い。
 しかし、安冨氏の文章を読むと、むしろ、どう云う人間関係なのかが中心的なのがわかる。心と心の触れ合いとも云うべきだろうか。性とは、肉体関係だけではなく、心のあり方なのかもしれない。
 だからこそ、安冨氏は女性の姿をしながらも、女性ホルモンの投与や性転換手術は行わなかったと云う。

 安冨氏は、上山あや氏と云う政治家の『変えていく勇気ー「性同一性障害」の私から』と云う著作を紹介している。上山氏も安冨氏と同様に男性として生まれながらも、自分は女性だと云う認識を持っている。しかし、上山氏は安冨氏と異なり、服装よりも身体の改変に関心があったと云う。安冨氏は同書の中で、上山氏がのど仏を削るために手術を行うも、医師のミスで削りすぎて声が出せなくなると云う体験を述べている箇所を読んで、「全身から冷や汗」が出たと云う。


 私はこの箇所を読んで、全身から冷や汗が出ました。そして、そういえば、私は喉仏を削りたい、と思ったことがないことに気づいたのです。それから鏡を見たら、あら不思議。そういや喉仏がもともとあんまり出ていないのです。太腿が太く、ウェストが細い、以外に、喉仏があんまりない、というのも、実はラッキーでした。
 もしかすると、もともと体型がなんとなく女っぽい、というところで、私は納得していて、それで身体変容をする気にならない、ということに過ぎないのかもしれません。(60頁)


 だからこそ、安冨氏にとって女性の服を着ているのは「ありのままの私」であることだと云う。安冨氏が「女装」ではなく「女性装」と云う言葉にこだわりがあるのは、自分はあくまで女性だと云う認識からだと云う。


  私は女装していません。
  しかし女性装しています。
  だって、女装だから。
  それが私には、自然だから。(61頁)


 以後、本書では、安冨氏が女性装をしていく過程が克明にしるされている。ヒゲをレーザーで脱毛し、スカートを履いて外出し、SNSに女性装をした姿を投稿し、じょじょに人前で女性装で出るようになり、日常生活の一部になっていく。やがて、マツコ・デラックス氏が主催しているテレビ番組「アウトデラックス」に出演するようになってから、テレビや雑誌などのメディアに出るようになったと云う。
 この箇所も不思議な文章であった。シンデレラ・ストーリーではないが、どこかおとぎ話のような体験がつづられており、現実離れした物語のようにも読めた。

 なぜ私はそう思ったのか。安冨氏は「無縁」と云う言葉で説明してくれる。「無縁」とは中世日本史研究者・網野善彦が提唱した概念である。


 網野善彦の提唱した「無縁」の原理は、人類社会を理解する上で重要な手がかりを与えてくれます。「無縁の原理」は、「縁切りの原理」とも言い換えられます。網野は、人間の自由の根源を、縁切り、という行為に求めました。人間関係が腐れ縁になって、人間を苦しめるようになったときに、被害者がその縁を断ち切って逃げ出すことが「縁切り」で、「無縁の原理」「縁切りの原理」とは、このような縁切りという決断を支える社会慣習の基盤です。(117頁)


 安冨氏は、現代の日本において「無縁の原理」を体現している人物は、マツコ・デラックス氏ではないか、と考察している。


 マツコさんの人気の特徴は、きれいごとを言って媚を得ているのではなく、逆に踏み込んだ発言によって獲得されていることです。その発言は、何を言っても攻撃されない、という特質によって支えられています。(119頁)


 マツコ氏の著作『デラックスじゃない』の文章を引用しながら、『「差別されているがゆえに自由である」』(120頁)『「敵ではない」「関係ないじゃん、この人」』(122頁)と云うマツコ氏自身の自己認識を、網野の議論に被せながら、マツコ氏の人気の秘密は「無縁者だからである」と分析している。


 無縁者は、無縁者であるがゆえに敵対心を抱かれないのであって、有縁の世界に受け入れられてしまうと、普通のルールが当てはめられて、「敵」ということになるわけです。「治外法権の隙をついて、ゲリラみたいにこういう状態になった」という文は、まさに「無縁」の原理によってのし上がった、ということを表現しています。
 更に、無縁の原理は無主・無所有の原理でもあります。マツコさんはこの原理を帯びており、それゆえ「別になくなったらなくなったでいい」と言うのです。(125頁)


 なお、安冨氏は自分のジェンダーについて以下のように認識している。


 私のように、男性だけれども女性の姿をしていないと落ち着かない人間は、自分をどういう言葉で呼べばいいのかというと、なかなか適当な言葉がありません。いろいろ考えた結果、私は、自分を分類する必要など、どこにもない、という結論に至りました。(略)
私は安冨歩でしかありえなくて、「男」でも「女」でもないのです。(略)
誰だって、「男」でも「女」でもないのです。そういう分類そのものが、暴力なのです。(134頁)


 本書を読むと、安冨氏が「無縁の原理」を自己の思索の中心に据えているのがよくわかる。それはまさに「ありのままの私」を生きるための思索と云えるかもしれない。その果てが女性装だったと云える。
 そんな安冨氏が手にいれたのは「美しさ」だと云う。


 私は、男装している間は、自分が「美しさ」というものと少しでも関係あるとは思っていませんでした。それなりにオシャレはしていましたが、「かっこいい」を目指すことはあっても、「美しい」を目指したことはありませんでした。それなりにオシャレはしていましたが、「かっこいい」を目指すことはあっても、「美しい」を目指したことはありませんでした。そして男装をやめてからも、「気持ち悪い」と思われないようにしよう、と頑張っていたのであって、「美しい」を目指すことはありませんでした。
 しかし、この本で述べたように、徐々に「美しさ」というものの探求を、受け入れるようになっていきました。「自分が美しい(かもしれない)」ということを受け入れることは、大変な勇気が必要でしたが、私の精神に果てしない安らぎを与えてくれました。
 特に、この本を作るにあたって撮影した写真は、私をとても救ってくれました。(略)この写真を見て
  「美しいって、私でも可能なんだ!」
と思い、救われたのです。(略)
 美しさとは、作るものではありません。掘り出すものです。自分自身という金鉱を探し、出して掘り当てる、そうすると人は、美しくなるのではないでしょうか。(168-170頁)


 本書の最後に、「玉田兵吾」と云う詩人の正体が明かされる。「玉田兵吾」とは「時折私に降臨する謎の詩人」、つまり、安冨氏の心の声とも云うべきか。


  わたしの好きなこと 玉田兵吾  
  
       おいしものは大嫌い    おいしいはずのものが好き
  楽しいことは嫌い     楽しいはずのことが好き
  きれいなものは大嫌い   きれいなはずのものが好き
  やりたいことは大嫌い   やりたいはずのことが好き
  知りたいことは何もない  知りたいはずのことを知る
  好きな人は大嫌い     好きなはずの人が好き

  自分自身は嫌い
  自分のはずの 自分が好き

       がまんに がまんを 積み重ね
  いらないものを 手に入れる 
 
  これが私の 好きなこと(170-171頁)


 もちろん、この詩は反語である。安冨氏は女性装をすることで、詩の中にしるされているような状況を脱したと云える。本書を読むと、まるで、狐につつまれたような気分を味わうが、それは一方で、読者である私の偏見であることも教えてくれる。


 なお、本書は2021年5月26日現在、絶版となっている。中古本で、Amazonでは4,000円以上の価格で販売されている。再刊が待たれる。



最近、熱いですね。