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ぺんたんさまの記事へのコメント


 本記事は、ぺんたんさまの記事へのコメントとしてしるしたものである。本来なら、コメントは短くまとめるものだが、かなりの長文になったので、一本の記事として公開することにした。

 ぺんたんさま、コメント失礼いたします。
 記事を拝読しました。失礼を承知ですが、かなり劇的な体験をなされたようで、深刻な状況であると心中お察しいたします。
 私が記事を拝読して感じましたのは、「陰謀論のロジックは時代が変わってもあまり変わらないのだな」と思いました。私、大学時代に戦前〜戦後の昭和に活躍したとある陰謀論者の思想を研究し、卒論を仕上げたことがございます。なので、陰謀論の論理に関しては大ざっぱですが、語れることができます。
 むろん、私自身、昨今流行りのQアノンや新型コロナウイルスにまつわる陰謀論に関してあまり詳しくないので、詳細な助言はできません。「ディープステート」や「コロナウイルス生物兵器説」など具体的な固有名詞などに関してはわかりかねるところがございます。また、ぺんたんさまのお母さまとの関係を修復するための具体的な助言はできません。
 ただ、私が卒論を仕上げた時は、「もっと、王道な思想家の本を読んで、論文書きたかった。てか、こんな需要のない思想を調べて、将来の進路どうしよう」と思っていたのですが、ぺんたんさまをはじめ、かなりの方が陰謀論によって苦しんでいるのをお見受けし、陰謀論の力強さに驚いています。なので、具体的に役に立つか、私はわかりませんが、もし何らかの助けになりましたら、幸いです。


コミンテルン陰謀論


 私は仙台市の某私立大学の歴史学科に在籍し、結果的に、とある陰謀論者の思想を研究するはめになります。まず、本論に入る前に、私が調べることになった陰謀論について述べたいと思います。

 私が調べた陰謀論は、「コミンテルン陰謀論」と云うものです。

 おそらく、ぺんたんさまをはじめ、昭和史にまつわる陰謀論や2000-10年代の保守系論壇に詳しくない方には、何のことかさっぱりわからないと思います。実証主義的歴史学からみれば、ほとんど荒唐無稽な議論なので、一般の方が知らなくて当然だと思います。

 「コミンテルン陰謀論」のあらすじは、以下のようなものです。



先の大戦で、日本が戦争を行ったのは、コミンテルンやソ連のスパイによる謀略のせいであり、日本は侵略国家ではなく、被害者だ。


 さて、全くよくわからない話が出てきたと思います。当然です。先の大戦で日本が行ったのは、紛れもない侵略であり、国家的な意思に基づいて戦争は遂行されました。第二次安倍政権時代の2015年に発表された「戦後70年談話」でも、政府の公式見解は明確に「先の大戦は日本の侵略だった」と述べています。どう云うプロセスで行われたのかは、未だに議論はありますが、少なくとも、コミンテルンやソ連のスパイのせいで、戦争になったとは云えません。

 そんな「コミンテルン陰謀論」ですが、2000-10年代の保守系論壇で大いに盛り上がりました。きっかけは、2008年に当時の航空幕僚長だった田母神俊雄氏が「コミンテルン陰謀論」に依拠した論文「日本は侵略国家だったのか」(通称「田母神論文」。以下、田母神論文としるす)を民間の懸賞に応募し、受賞したことがきっかけです。田母神論文では、日米戦争の原因は、アメリカのルーズベルト大統領の側近がソ連のスパイで、日本を戦争に向かうように追い込んだとし、以下のような結論を述べています。


我が国が侵略国家だったなどというのは正に濡れ衣である。(9頁)


 
 本記事では、「コミンテルン陰謀論」の論理についてしるしたいので、田母神氏が論文で、どのような議論を展開していたのかについては詳述しません。気になる場合は、私が別の記事でしるしたので、ご興味がございましたら、どうぞ。

 田母神論文の結論と政府見解と異なったため、田母神氏は馘首されます。しかし、当時の保守系の論壇では、受け入れられます。なぜか。
 それは、当時の保守系の論壇では、「コミンテルン陰謀論」は一定の信ぴょう性を持たれていたからです。田母神氏が論文を発表する一年前の2007年に、保守系政治団体・日本会議が『歴史の書き換えが始まった!〜コミンテルンと昭和史の真相』と云うブックレットを刊行します。
 同書は、文学研究者・小堀桂一郎氏と国際政治学者・中西輝政氏の対談を収録したものです。同書の冒頭の頁で、「日本会議事業センター」がしるした文章が掲載されています。


 世界は謀略に満ち満ちている。日本人の善意など到底通用しない冷厳な世界史の原理がそこにある。その世界の現実を直視し、いかにして国家の生存を図るか。それは、幕末明治以来、日本の先人たちが直面し続けた課題である。その対応を困難なものにしたのが、ほかならぬコミンテルンの国際謀略だったことを明らかにしたのが本書である。しかも、それは冷戦が崩壊した今でも現在進行形であり、”初期マルクス主義”の恐るべき人間不信の原理がGHQの占領政策とその固定化として「戦後レジューム」に入り込み、日本の歴史、文化、伝統を破壊し続けているのである。(1頁)


 なお、同書と田母神論文の議論に関しては、歴史学者の秦郁彦氏が『陰謀史観』の中で、次のように述べています。


日米戦争の仕掛け人がルーズベルトかコミンテルンだと聞かされれば、惨憺たる敗北を喫した日本人にとって聞き流すわけにはいかないのも人情だろう。なかでも、日本だけが悪者にされているという「東京裁判史観」に不満を抱いた人たちは、発信源の多くがアメリカ人だったこともあり、日本側の記録との突き合わせや米国側の情報をウノミにする傾向があった。(174頁)


 私自身、卒論で調べる前は「コミンテルンやソ連のスパイによる陰謀はあるのか」をテーマにしようと思ったのですが、調べればしらべるほど、論証の甘さが目立つことに気づきました。歴史学において、論証が甘いのは致命的です。事実を立証したことにならないからです。もっとも、歴史学において、ある事件の発生した原因を立証するのは極めて難しいです。それは秦氏が同書の中で、次のようにしるしています。


 私は歴史家の任務は直接的な因果関係の究明にあると考えるが、ある結果をもたらした原因は多岐にわたり軽重がつけにくい。(242頁)


 だからこそ、秦氏は「陰謀史観」に基づいて歴史的な事実を記述しようとすると、必ず、論証が甘くなると述べています。考えてみれば、「コミンテルンやソ連のスパイ」と云う因子だけで、「日米戦争」と云う結果を立証しようとするわけですから、無理もありません。
 なお、同書の中で、秦氏は田母神氏と彼の主張に賛同していた人々と論争をしたそうですが、「あまり嚙みあわなかった」そうです。理由は「相手方が目標を事実や因果関係の論証よりも汚名返上とか精神的覚醒といった次元での政治キャンペーンを優先したせい」だからそうで、結果的に「論争は未決着のままに推移」し、「今後もむし返される可能性がある」(152頁)と述べています。


 事実、10年代の保守系の論壇では「コミンテルン陰謀論」が非常に大きな影響力を持ちました。「コミンテルン陰謀論」にまつわる書籍が大量に刊行されました。安倍内閣が長期政権だったのも伴い、保守系の言論人の発言は一定の影響力を持ったからだとも云えます。先ほど紹介した中西輝政氏は、前述した「戦後70年談話」のもとになった「21世紀構想懇談会」での議論に参加しています。同懇談会で議論された内容をまとめた報告書をもとに、談話は発表されます。

 もっとも、懇談会での中西氏の発言権はほとんどなく、談話についても「日本が満州事変以後に行なったのは、侵略だった」と云う内容が発表されました。保守系の雑誌『正論』などでは、中西氏をはじめとする保守系の言論人が談話の内容への不満を述べ、そのアンチテーゼとして「コミンテルン陰謀論」を再度主張するようになります。


 さて、ここまで述べてきた「コミンテルン陰謀論」ですが、学生時代の私は現在の論争を追いかけるよりも、その起源を調べることに方針を転換しました。歴史学科に在籍していたので、過去のことを調べることの方が論文としては体裁が整いやすいからです。

 前述の小堀氏と中西氏の対談本には、種本とその著者について言及されていました。


支那事変(筆者注:日中戦争)をいわゆる泥沼化せしめて日本をして大東亜戦争(筆者注:アジア太平洋戦争)での決起を余儀なくさせるという、それほどの窮地に追い込んでいったのが世界共産化をたくらむ共産主義者の秘密謀略活動であった――戦前に特高警察に務め、のちに衆議院議員にもなった三田村武夫さんが『戦争と共産主義』という著作によって、この説を提出されたのが、実は昭和二十五(筆者注:1950)年という早い時期だった。この本は当時GHQの検閲に当然ながら引っかかって発禁処分になった。私がこの三田村さんの本を初めて読んだのは、昭和六十二(1987)年一月に『大東亜戦争とスターリンの謀略』と改題されて、自由社刊行の「自由選書」の一冊として復刊された、それによってでした。(10-11頁)

 

 私は「コミンテルン陰謀論」の元ネタとなった『戦争と謀略』と云う書籍の著者・三田村武夫と云う人物の思想を調べることにしました。一応研究調査なので、先行研究があるのかと思い調べてみたのですが、全くみつからず、かろうじていくつかの短い言及があるだけでした。しかも大体は、前述の「コミンテルン陰謀論」に関する言及ばかりで、たぶんに政治的な意図が読み取れるものばかりでした。

 例えば、『戦争と共産主義』を改題復刊した『大東亜戦争とスターリンの謀略』には、岸信介の推薦文が掲載されています。


 読む程に、私は、思わず、ウーンと唸ることが屡々であった。
 支那事変を長期化させ、日支和平の芽をつぶし、日本をして対ソ戦略から、対英米仏蘭の南進戦略に転換させて、遂に大東亜戦争を引き起こさせた張本人は、ソ連のスターリンが指導するコミンテルンであり、日本国内巧妙にこれを誘導したのが、共産主義者、尾崎秀実(筆者注:朝日新聞記者で、近衛内閣ブレーンとして活躍し、1941年にゾルゲ諜報団員として検挙された)であった、ということが、実に赤羅々に描写されているではないか。
 近衛文麿、東条英機の両首相をはじめ、この私まで含めて、支那事変から大東亜戦争を指導した我々は、言うなれば、スターリンと尾崎に踊らせた操り人形だったということになる。
 私は東京裁判でA級戦犯として戦争責任を追及されたが、今、思うに、東京裁判被告席に座るべき真の戦争犯罪人は、スターリンでなければならない。(一部、旧字体を改めました)(319頁)


 なお、岸は戦前の商工省の官僚として満州国の統治に関与し、戦時中の東条英機内閣では商工大臣に就任しています。つまり、戦時中の国策の決定に関与した当事者の一人と云うことになります。当然、敗戦後は戦犯として訴追を受けますが、最終的に保釈され、政界に復帰し、最後は首相になります。
 その人物が「私は操り人形だった」と述べているわけですから、無責任な発言とも読めます。
 実際、前述の秦氏は『陰謀史観』の中で、岸の推薦文を批判しています。戦前・戦中の対ソ外交は「露骨な御都合主義」に基づき運用され、「近衛、岸クラスのような指導者層があっさりだまされてしまったと自認していること」は政治家として無責任で、国際政治での「だまし、だまされの駆け引きで敗れた責任逃れと酷評されても、しかたがないだろう」と述べています。(51-52頁)

 そんな曰く付きの推薦文が掲載されている書籍の著者である三田村武夫の研究がほとんどないのもある意味では仕方がないものがあります。小堀氏が言及しているように、戦前の1928-35年の間、三田村は特高や戦前の植民地行政を管轄していた拓務省に勤務していました。つまり、思想弾圧に関与した当事者であったわけです。
 その後、政治家・中野正剛に請われ、政治家として活躍します。なお、中野は満州事変を支持し、日独伊三国同盟の締結を提唱し、大政翼賛会の結成に関与します。つまり、戦中の三田村はファシズム・全体主義を主張していた人物と行動を共にしていたことになります。中野自身は東条英機と対立し、最終的に割腹自殺を遂げます。三田村は倒閣運動に関与したとして投獄されます。
 戦後は、戦前・戦後の言動が問題視され、公職追放を受けます。その後、1951年に追放が解除され、政治家として活動を再開しています。その追放が解除される前年に刊行されたのが『戦争と共産主義』で、同年に東西冷戦のきっかけとなった朝鮮戦争が勃発しています。なお、その後、自由民主党の結成に関与します。
 以上のような三田村の経歴をみても、同書は極めて政治的な意図に基づいて執筆されたとみるが妥当だと思われます。

 そこで、私は可能な限り、三田村が生前に刊行した書籍を収集し、彼の思想を把握することにしました。かなり膨大な量の書籍や論文を分析するはめになり、まる一年費やしました。
 なので、三田村の経歴全てを書き出そうとすると、膨大な字数になるので、結論だけを申し上げますと、三田村本人は一貫した言論に基づいて政治活動を行なったと認識しています。つまり、戦前・戦中は国家主義的な著作を刊行し、戦後は陰謀論的な著作を上梓していることに、論理的矛盾は感じていなかったと云うことです。あくまで、本人の自己認識なのですが。


 私は卒論では、「三田村武夫はプラトン主義者だった」と結論づけました。


 なぜ、そう云う結論になったかと云いますと、三田村が一貫していた(と本人が自己認識していた)のは、「言論」に基づいた「啓蒙」でした。戦前・戦中は国家主義に基づいた「啓蒙」を行い、戦後は陰謀論や民主主義に基づいた「啓蒙」を行っていたことになります。要するに、主義は時代によって変わるのですが、「言論」に基づいた「啓蒙」で社会をより良いものに変革できると云う確信を生涯持っていたことになります。


プラトンと「洞窟の比喩」



 では、なぜ、「プラトン」が出てくるのか。

 理由は、戦前の日本で大きな影響力を持った「超国家主義」と云う思想は、プラトン主義と非常に被るからです。同時に、陰謀論もある種のプラトン主義と云えるからです。

 プラトンと戦前の日本。まして、陰謀論と一体どんなつながりがあるのか。ぱっとみた感じではわからないと思います。

 まず、プラトン主義について解説したいと思います。

 プラトンと云えば、古代ギリシャの哲学者で、ソクラテスの弟子。ソクラテスと云えば、「無知の知」を述べ(実際のテキストではそこまではっきり云っているわけではないのですが)、人々と対話を繰り返し、最終的に死刑になった人物。ぼんやりと多くの日本人が抱くイメージは難しいことを考える「哲学」と云うものをはじめた人間と云う感じだと思います。
 まして、「哲学」と「政治」が結びつくのはイメージがしづらいと思います。「哲学」は何か「真理」について考えることで、「政治」とは無縁のように思われるともいます

 ただ、プラトンにとって、「哲学」も「政治」も「真理」も一つにつながっていました。彼の主著『国家』はまさにその理論を述べています。プラトンの述べている理屈はこうです。


人間は正義を行わなくてはならない。正義の基準は「善のイデア」にある。「善のイデア」を知覚する営みが哲学であり、哲学をする者に国政を任せれば、正義が実現された理想の国家が誕生する。


 これが後に「哲人王」「哲人政治」と云われる政治思想となります。プラトンは同書の中で、自身の主張の正当性を比喩で表現しています。
 その比喩を「洞窟の比喩」と云います。
 彼によれば、私たち人間は洞窟に閉じ込められた囚人たちであると云います。

 その囚人たちは生まれてこの方、太陽をみたことがなく、手足がつながれていて、ある一定の方向だけをみるように仕向けられています。囚人たちの頭の反対には火が焚かれており、火が発する光が差し込みます。囚人たちと火の間にはついたてがあり、そのついたてに沿って人間や動物の人形が運ばれると、人形に火の光が当たり、影が洞窟にできます。それをみた囚人たちはその影を写っているものの「本当の姿」だと錯覚します。
 ある時、囚人の一人が縄を解かれ、洞窟の外へ開放されます。その人は生まれてはじめて太陽と云うものを目にして最初は戸惑いますが、やがて外の世界をみるうちに、洞窟の中に閉じ込められている自分たちがおかしいことに気づきます。
 やがて、開放された囚人は洞窟に戻り、自分の仲間に「真実」を伝えますが、彼らは外の世界をみたことがないので、彼の言葉を信じることができません。囚人たちの目の前に写っているのは、ただの影に過ぎず、その写っているもの「そのもの」ではないことがわからず、むしろ外の世界に出たせいで目がおかしくなったと思い、それでも「真実」を語る元囚人に腹を立て、彼を殺そうとするだろう、と云います。

(文章にすると、なかなかイメージしづらい比喩なので、よくわからないと感じましたら、Youtubeではアニメで再現している動画がございますので、そちらをご視聴ください。)



 

 この比喩で表現されている「太陽」こそが、プラトンが述べている「善のイデア」だと云うことがわかります。その「善のイデア」こそが太陽のようにこんこんと世界を照らし、「真実」そのものであると云うわけです。それを私たちが理解できないのは、あたかも洞窟に囚われている囚人たちのように、影をそのものだと錯覚しているからだ、と云う理屈になります。
 だからこそ、プラトンは「真実」つまり、「善のイデア」をみることができる人ー哲学者ーによって社会を動かしたほうが、社会はより良いものになると云うわけです。なぜなら、その人は洞窟に囚われている私たちがみている影ではなく、「真実」をみているからです。


 知的世界には、最後にかろうじて見てとられるものとして、〈善〉の実相(イデア)がある。いったんこれが見てとられたならば、この〈善〉の実相こそはあらゆるものにとって、すべて正しく美しいものを生み出す原因であるという結論へ、考えが至らなければならぬ。すなわちそれは、〈見られる世界〉においては、光と光の主とを生み出し、〈思惟によって知られる世界〉においては、みずからが主となって君臨しつつ、真実性と知性と提供するものであるのだ、と。そして、公私いずれにおいても思慮ある行ないをしようとする者は、この〈善〉の実相をこそ見なければならぬ、ということもね。(藤沢令夫訳『国家(下)』、517B-C、112頁)


 何だか、禅問答のような比喩に感じられると思います。現代人からすると、本当に「善のイデア」は存在するのかと半信半疑になると思います。まして「善のイデア」をみたと云う人が統治する政治が「真実」であると云うのも受け入れがたいものがあります。しかし、そう思う私たちこそが「洞窟に囚われ、影を真実だと思わされている囚人だ」とプラトンは云います。
 ただ、プラトンが『国家』の中で提示した思想は、その後の西洋哲学に多大な影響を与えます。なにせ、西欧文明において最も初期の政治思想を述べたのはプラトンその人なのですから、彼の影響の元、西欧哲学は発展していったとも云えます。

 例えば、キリスト教神学はまさにプラトンの思想を継承しており、「善のイデア」を「神」に置き換え、「哲学者」を「教会」や「聖職者」に置き換えるとそのままの構造なのがわかります。神を知ること、つまり聖書やイエスの言葉が「真実」だと理解し、信者になることで、救いがあると云うわけです。またキリスト教では、最後の審判の後に、神の子イエスを王とした千年王国が誕生すると云います。それはちょうど、プラトンが述べていた「哲人政治」と重なるのがわかります。
 あるいは、キリスト教のような宗教とは反対の思想に思われる近代合理主義も似たような構造があることがわかります。近代合理主義は「啓蒙主義」と云われますが、啓蒙主義を英語で云うと、"enlightment"と云います。意味を直訳すると、「光が差し込む」と云う意味です。啓蒙主義によれば、どんな人間にも「理性の光」が存在しており、その「理性の光」が輝くようにすること、つまり知識を蓄えて、勉強して、権利に目覚めれば、社会はより良いものになると云うわけです。この思想の影響で発生したのがアメリカ独立戦争やフランス革命で、近代市民社会はその延長にあると云えます。プラトンが「善のイデア」と呼んだものを個人の内面に当てはめ、みんなが「哲人」のようになれば良いと云う発想なのがわかります。
 また、左翼思想の元祖とも云える、マルクス主義も同様の構造を抱えています。マルクスによれば、資本主義社会になると、資本家と労働者と云う二つの階級が生まれると云います。生産手段を持っている資本家は生産手段を持たない労働者を搾取し、それにより労働者は苦しい生活を余儀なくされます。しかし、労働者は自らが苦しいのは資本家によって搾取されているからだと気づき、やがて資本家を打倒すること、「共産主義革命」を行うことで、より良い社会「共産主義社会」を築くことができると云います。資本家によって搾取されている労働者は、プラトンの云う「洞窟に囚われている囚人」で、「洞窟に写っている影」が「資本主義社会」だと云うのがわかります。


 なぜ、こうも西洋思想がプラトン的な発想から抜けられないかと云いますと、プラトンの思想の肝になる「イデア」と云う単語そのものがそのままヨーロッパ言語における「考え」「知識」「計画」「意見」「思想」「概念」と云う意味になったからです。英語の"idea"はそのままギリシャ語の"ιδέα"から移植したものだとわかります。また、『国家』はギリシャ語のタイトルは”Πολιτεία”で、「政治」を意味する英単語”Politics”とつながりがあるのがわかります。
 それは、日本人を含めた東アジアの文化圏に生きる人間が孔子が考えたとされる「仁」「義」「礼」「孝」と云った概念に基づいて思考するのに似ているかもしれません。


 こう書くと、非西洋文化圏に生きている日本人は関係ないように思われるかもしれません。しかし、私たち日本社会は明治維新以後に、近代化と称してありとあらゆるものを西欧社会から輸入しました。鉄道や工場、船舶と云った科学技術や軍隊や学校、役所などの組織も輸入されたのは有名ですが、社会全体を動かすには「言葉」や「概念」が重要になります。当然、「言葉」や「概念」も西欧社会から輸入したわけですが、それらの言葉の背景には上記のようなプラトン的な発想が染み付いています。特に、政治や社会に関する概念は濃厚だと云えます。江戸時代以来の言葉ではなく、明治以後に翻訳された西欧由来の言葉で思索をすれば、自然とプラトン的な発想になってもおかしくはありません。

 すなわち、「善のイデア」こと「真実」を知った人が社会をより良いものへと変革でき、その人によって「理想的な国家」が誕生する。

 ちなみに、「理想」は英語の”ideal"を翻訳したものです。プラトンの『国家』の戦前に翻訳されたタイトルは『理想国』です。


超国家主義


 とは云え、やはり疑問が残ると思います。

 戦前と云えば、天皇制社会で、現代のような近代社会とはかけ離れたイメージを持たれる方が多いと思います。また、いくら西欧由来の概念や言葉を輸入しても日本人だから、日本的な発想は強かったのではないか。例えば、自己犠牲的な神風特攻や「天皇は神の子孫だ」と云う皇国思想は西洋の思想とは相容れない。それならば、プラトンが述べていた「哲人政治」の発想と戦前の国家主義は別物ではないか、と。


 確かに、戦前の国家主義者たちは表向き、自分たちの主張は「日本の伝統」に則っていると主張していました。三田村も同様の言論を展開しています。
 ただ、戦前の国家主義が本当に日本の伝統に則っていたのかと云うとかなり怪しい点があります。むしろ、表向きは「天皇」や「大和魂」と云う言葉を使いながらも、内実はプラトンの云っている「哲人政治」「理想国家」のビジョンを語っていたとも云えます。


 政治学者の橋川文三は戦前の国家主義を「超国家主義」と呼びました。彼は『昭和維新試論』の中で、1921年に安田財閥のトップ・安田善次郎を暗殺した朝日平吾と云う人物が犯行前に残した遺書を分析します。


私が関心をもつのは、かつて大久保利通暗殺や大隈重信襲撃をその典型と見るべき明治時代のテロリズムが、主として政治権力のろう断に対する士族反対派の行動という意味をもったのに対し、朝日の場合には、その動機が微妙な変化があらわれているということである。前者は、むしろ自らの権力支配の資格を主張しうるものたちの義憤に根ざしていたが、後者はむしろ被支配者の資格において、支配されるものたちの平等=平均化を求めるものの欲求に根ざしているというニュアンスの差がある。(講談社学術文庫版、14頁)
 ともあれ、朝日の遺書全体を貫いているものをもっとも簡明にいうならば、何故に本来平等に幸福を享受すべき人間(もしくは日本人)の間に、歴然たる差別があるのかというナイーヴな思想である(同書、19頁)


 生前の朝日は国家主義に傾倒していました。戦前の国家主義は「一君万民」と云う思想を掲げていました。この思想は、天皇を「太陽」に見立て、日本人全員はあたかも太陽に照らされている大地の草花のように、日の光を浴びることで、「幸福」に生きることができる、と主張していました。しかし、太陽の光を邪魔する「雲」が現実に存在し、それを「君側の奸」と呼びました。朝日の犯行の動機は、まさに「君側の奸」を倒すことで、「理想の国」を造ろうとしたと云えます。
 朝日の犯行から約11年後の1932年に、政財界の要人が立て続けに暗殺される「血盟団事件」が発生します。事件の首謀者である僧侶の井上日召も朝日と同様の思想を抱いていました。


 井上において目立つことは、普遍・絶対・唯一者への宗教的関心の持続ということである。彼の場合は、はじめにキリスト教の神へ、次いで禅へ、さらに日蓮宗へと転じているが、この問題が、日本の超国家主義形成とかなり深い関連をもつことは、北一輝、石原莞爾の法華経の場合を想起するだけでも気づかれようとし、さらに、その以前の伝統的ナショナリズムの中には、そうした信仰契機の作用が認められず、伝統的倫理(あるいは武士道、もしくは国民道徳)が行動原理であったこととの対照によって、いっそう印象的であろう。(「昭和超国家主義の諸相」:『橋川文三セレクション』、158−159頁)


 要するに、戦前の国家主義こと「超国家主義」は極めて個人的な動機に支えられた思想と云うことができます。そんな超国家主義を橋川は「革命思想」と評しています。つまり、表向きは愛国心や国家主義を唱えながらも内実は、現実の社会をラディカルに改革することを目指したと云えます。


 まず、前提として明らかにしておきたい点は、いわゆる超国家主義が、現状のトータルな変革をめざした革命運動であったことである。もちろん、ここで「革命」というのは、価値判断なしにいわれており、たとえば「官僚的合理化もまた、伝統に対しては第一級の革命力でありうるし、また、しばしばそうであった」(M・ウェーバー)というほどの意味で用いられる。およそ伝統的なるものによって正当化された制度を破壊しうるすべての力を革命力とよび、その担い手が官僚であるか、プロレタリアートであるか、予言者、軍人であるかは問わない。(同書、159頁)
ただ、もし漠然とした形で概括すれば、いわゆる超国家主義の中には、たんに国家主義の極端な形態ばかりではなく、むしろなんらかの形で、現実の価値を追求するという形態が含まれていることを言ってもよいであろう。(同書、199頁)


 橋川は超国家主義の担い手たちが抱えていた「人生論的煩悶」に注目し、個人的な「煩悶」の解決のために、国家主義が主張されたとみなします。つまり、国家そのものが人間を幸福に導く「神」のような存在とみなされたわけです。それは、プラトンが『国家』の主題が「正義」と云う価値を実現するための方法として政治を語っていたのと被ります。
 もっとも、私は橋川のように、わざわざ「煩悶」と云う心の問題に注目しなくても、良いと思っています。むしろ、政治や社会と云う巨大な事象を語ろうとすれば、プラトン的な発想はどうしても出てくるのだと思います。人間が抽象的な思考すれば、どうしても比喩が必要です。その比喩を用いて現実の政治や社会について思考すれば、常にプラトンが語っていたような比喩の構造を抱え込むことになります。前述の通り、西欧思想がプラトン的な発想から抜けられなかったように。

 事実、戦前を代表する超国家主義者・北一輝の思想はプラトンからの影響を強く受けている、と云う分析をしている研究書もあります。



 なお、前述の朝日平吾は遺書を北に送っています。朝日は北の著作に影響を受ける形で、テロを行ったとも云えます。その北の思想を信奉した陸軍の青年将校たちが起こしたのが、1936年に勃発したクーデター未遂事件「二・二六事件」です。

 また、戦前のプラトンの読まれた方が現在のような一哲学者の著作と云うよりも、極めて政治的な文脈で解釈されていたと云う研究書もあります。



 実際、プラトンは『国家』の中で、現実の国家を運営する上で、頭脳労働を行なう「理知的部分」と、その支配を受け入れて敵と戦う「気概の部分」が要ると述べています。つまり、現実の政治においては具体的な「力」が必要と説いたわけです。


そこで、〈理知的部分〉には、この知恵があって魂全体のために配慮するものであるから、支配するという仕事が本来ふさわしく、他方〈気概の部分〉には、その支配に聴従しその味方となって戦う仕事が、本来ふさわしいのではないか。(略)
外からの敵に対してもまた、魂全体と身体のために、最もすぐれた守護者となるのではなかろうか?――一方〔理知的部分〕は計画審議し、他方〔気概の部分〕は進み出て戦い、支配者に従って、計画審議された事柄を勇気をもって遂行することによってね。(略)
 そしてわれわれは、思うに、この部分のゆえに一人一人の人間が勇気ある人と呼ぶことになるのだ。すなわちそれは、その人の〈気概の部分〉がさまざまな苦痛と快楽のただ中にあって、恐れてしかるべきものとそうでないものについて〈理性〉が告げた司令を守り通す場合のことだ。(『国家(上)』、441Eー442C、362ー364頁)


 戦前の三田村が特高で行なっていたのは、思想書の検閲でした。私はそれらの思想書を読み込むうちに、三田村もプラトン的な発想をするようになったのだと思います。ある意味では、時代の潮流に乗っていたとも云えます。


イデアと「真実」


 さて、ここまで読んでいただけましたら、プラトン主義と超国家主義が極めて親和的なのがご理解いただけたと思います。
 では、現在、ぺんたんさまがお母さまと決裂するきっかけになった陰謀論との関係はどうか。実は、超国家主義と同様に、陰謀論もプラトン主義的な構造を持っています。
 おそらく、ぺんたんさまをはじめ、陰謀論に対して疑問を抱く方の多くは、「なぜ、根拠のないことを堂々と云えるのか?」だと思います。もっと突き詰めて云うならば、「なぜ、あなたは真実を知っているかのように話すのか?」だと思います。
 また陰謀論の主張は、こちらを一方的に啓蒙させようとする姿勢が、どこか宗教のようにも感じられると思います。

 上記のような陰謀論の特徴は、三田村にもみられます。と云うよりも、私は陰謀論の論理自体は不変で、語られている話題が時代や地域によって違うだけだと思っています。

 例えば、三田村が敗戦後に、占領軍の司令官・ダグラス・マッカーサーに送った意見書の冒頭では、以下のような文章を掲げています。


 真実を告げるものは真の協力者である。(「占領政策に関する意見書」:『警告の記録』、102頁)


 同意見書の中で、三田村は日本の指導者たちはソ連のスパイに操られた操り人形に過ぎず、自分が政治家になったのは共産主義者の陰謀を阻止するためだ、と述べています。日本とアメリカが戦争を行うようになったのは、資本主義国同士の共倒れを目的としたソ連の陰謀だ、と云うわけです。
 私の調査では、占領軍側が三田村の意見書に対してどのような反応をしたのか解明できませんでしたが、三田村の故郷の岐阜県の郷土史家である伊藤克司は「追放解除を求めて、占領軍にすり寄った」(伊藤・鳥本洋一「二十世紀政治家黙示録・三田村武夫」:『鯨書房 5号』、109頁)と評しています。

 常識的に考えればそうなのですが、その後、晩年に至るまで、「コミンテルン陰謀論」に固執していました。私がマッカーサー宛に送った意見書を入手できたのは、1963年の衆院選挙の際に、三田村が地元選挙民に配布した『警告の記録』と云う書籍に収録されていたからです。同書の中で、三田村は自分は戦中から戦後まで一貫して社会に「警告」を発し続けたと主張しています。つまり、三田村本人の認識では、「すり寄った」とは思っていなかったわけです。

 では、一体なんのために、三田村は「コミンテルン陰謀論」を主張したのか。

 ここで、前述のプラトンのイデア論と「洞窟の比喩」を思い出してください。プラトンは「イデア」は「真実」そのもので、多くの人が認識できないのは、「洞窟に囚われている囚人たち」のようだからだと述べていました。つまり、「真実」を知っている人は極めて少数と云う理屈になります。
 さらに、「真実」を知っている人は必ず反感を買い、非業の死を遂げると述べています。プラトンがこの比喩を述べる上で、想定していたのは、アテネの法廷で死刑となったソクラテスだと思われますが、三田村の戦中に起こった事件と重なる点があります。

 そもそも、三田村を政治の世界に招きいれたのは、中野正剛と云う人物でした。中野も超国家主義を唱えており、対外戦争を行なった政府と歩調を合わせていました。しかし、東条内閣以後は、反政府運動を行うようになります。なぜか。
 理由は前述の「一君万民」の理論にありました。戦争が長期化すれば、戦時統制が必要になり、権力の一元化が必要になります。今風に云うなら、首相の指揮権が重要になるわけです。しかし、超国家主義者からすれば、天皇と云う太陽のもとで、人々が平等な理想国家を建設するのが目的ですから、政府の方針と対立するようになります。なので、あまり知られていませんが、超国家主義者たちは東条内閣の倒閣を計画していました。 
 それはちょうど、プラトンが『国家』の中で、民主政治が堕落すると、独裁政治になると述べていたように、超国家主義者たちにとって東条英機は「堕落した政治家」として認識されました。
 中野は実名は出さなかったものの、暗に東条がリーダーとしての器が小さいことを揶揄した論考を発表し、東条から怒りを買います。また、三田村も個人名は出していませんが「卑怯者」「悪魔」「毒虫」と云う激しい言葉を記載した声明書を議会や大臣、新聞社、有権者など各方面に配布しています。中野と三田村は倒閣のための計画を練っていたのですが、結果的に露見し、検挙されます。二人とも現職の国会議員なので、保釈されたのですが、三田村は特高(かつての元同僚たち)から熱海温泉に誘われます。要するに、議員としての活動を行なえないようにするためです。元同僚の頼みで、中野のことも考え、三田村はしぶしぶ乗ります。一方で、中野も監視付きで保釈されます。彼は自宅に戻ると、その日のうちに割腹自殺を遂げます。自殺の原因は未だによくわかりません。
 どちらにせよ、三田村にとって、中野の自殺は大変な衝撃でした。それは無実のはずのソクラテスがアテネの法廷で死刑になったことに衝撃を受けたプラトンと心情的に重なります。戦後の三田村にとって中野は「殉教者」として記憶されました。自分たちが弾圧を受けたのは「真実」を握っているからだ、と云う確信を持ったわけです。
 

 そうなると、三田村の戦後の言動は本人なりの一貫性があったわけです。では、なぜ「コミンテルン」が戦争の黒幕なのか。

 実は、東条内閣が成立する前に、近衛文麿と云う人物が首相を行なっていたのですが、同内閣のブレーンであった尾崎秀実と云う人物がソ連のスパイのリャヒャト・ゾルゲの諜報団のメンバーだと判明します。同事件を受けて、近衛は責任を取って辞任しますが、彼は敗戦直前に、「自分や軍部は共産主義者に操られていた。敗戦後に起こるのは共産主義革命だ」と告白する「近衛上奏文」と云う文書を昭和天皇に提出します。もっとも、現在の歴史学ではゾルゲはスパイとしての能力が乏しく、「スパイ・ゲームとしては敗北した、インテリジェンス(筆者注:諜報)活動の失敗例」と評されます(加藤哲郎『ゾルゲ事件 覆された神話』、176頁)。
 三田村の『戦争と共産主義』の中では、近衛と交流があったことがしるされています。同書では、三田村は近衛が共産主義者に騙されたことを難詰する場面があり、近衛は三田村の言葉を受けて反省する様子が描かれています。三田村が戦後に書いた文章なので、実際のやり取りがどのようなものだったのかについては信ぴょう性が乏しいのですが、『警告の記録』に収録されている特高の取り調べの際に書いたと云うメモにも「左翼の敗戦謀略」の危機が述べられています。
 なお、近衛は戦後、戦犯として逮捕される直前に、服毒自殺を遂げます。実質、三度総理大臣を行なった人物としてはかなり無責任な態度に思われますが、東条英機も拳銃自殺未遂を起こしています。

 以上のような経緯で、三田村は「コミンテルン陰謀論」が「真実」だと確信を持つようになったと思われます。プラトンが「洞窟の比喩」で述べていたような「開放された囚人」が洞窟の外で、「太陽」と云う「善のイデア」をみて「真実」を知ったように。

 

 歴史は夜つくられる――と言つても、これは、映画のタイトルでも、小説のテーマでもない。映画や演劇のおもて舞台で、華かに活躍する俳優の背後に、シナリオ作者、監督、演出者があるように、「時代の変革」を記録する生きた歴史にも、表面の舞台で華かに活躍した「時の立役者」を陰であやつる舞台監督や、その歴史の進行と性格を決めて行く陰の筋書作者、演出者のある場合がある――という意味である。つまり、変革期の表面舞台で重要な役割を演じたものは実はロボツトで、このロボツトは、舞台裏の作者、演出者即ち陰の指導者の意のまゝに躍つたとしたら、その歴史はまさに一般世人の知らない暗い舞台裏でつくられたことになる――という意味だ。(『スターリンの謀略と大東亜戦争』、27頁)
 新しい歴史への日、八月十五日――この日を以て此の暗黒時代への回顧をおわる。
 国民は――人民は――プログラムの後段の途を選ぶか、それとも、二十年間眼かくしされて歩かされた来たくらやみの途に憤激し、覚醒し、別の新しい、明るい、自由な道を選ぶか、それは、自由な人間に与へられた基本的権利だ――。(同書、207頁)


 私は卒論では、三田村の述べていることは「神話」と評しました。彼は自分を主人公とした「神話」を生きたのだと思います。こう書くと、やっぱり胡散臭い人だったと思われますが、プラトンの『国家』の最後でも語られているのは「神話」です。プラトンは「霊魂不滅」を説き、エルと云う人物が目撃したと云う魂たちの旅、具体的には「輪廻転生」の様子を語ります。そして、最後にこう云います。


 このようにして、グラウコンよ、物語は救われたのであり、滅びはしなかったのだ。もしわれわれがこの物語を信じるならば、それはまた、われわれを救うことになるだろう。そしてわれわれは、〈忘却の河〉をつつがなく渡って、魂を汚さずにすむことだろう。しかしまた、もしわれわれが、ぼくの言うところに従って、魂は不死なるものであり、ありとあらゆる悪をも善をも堪えうるものであることを信じるならば、われわれはつねに向上の道をはずれることなく、あらゆる努力をつくして正義と思慮とにいそしむようになるだろう。そうすることによって、この世に留まっているあいだも、また競技の勝利者が数々の贈物を集めてまわるように、われわれが正義の褒賞を受け取るときが来てからも、われわれ自分自身とも神々とも、親しい友であることができるだろう。そしてこの世においても、われわれが物語ったかの千年の旅路においても、われわれは幸せであることができるだろう(『国家(下)』、621B-D、417-418頁)


 なので、私は陰謀論とは「神話」であると認識しています。語っている当人は「真実」だと確信しているわけです。プラトンが「善のイデア」や「霊魂不滅」が「真実」だと語っていたように。


処方箋としての脱構築


 かなりの長文となりましたが、ここまで読んでいただきありがとうございます。本当はここで打ち切っても良いのですが、せっかくなので、私なりの陰謀論の対象法を述べたいと思います。なお、あくまで以下に述べるのは、私なりの対処法なので、実際の参考になるかはわかりませんし、あまり実践的ではありません。その点をご了承した上で、お読みください。

 前述の通り、陰謀論は思想としての論理の一貫性はあるので、具体的なエビデンスに基づいた反論はあまり効果がありません。それはぺんたんさまもご存知と思われます。

 では、どうするか。私が提案するのは、「論理そのものの解体」です。哲学の用語で云うところの「脱構築」です。要するに、陰謀論そのものが前提としている考えの矛盾を指摘することです。こう書くと、難しい話のようにも思えますので、私の体験に寄せながら、解説していきたいと思います。

 私も卒論で詳しく調べる前は、「コミンテルン陰謀論はあるのかな」や「スパイによって国の政策が左右されるのかな」と漠然と信じていたのですが、三田村の主張に対して同時代を生きていた人たちがかなり厳しい指摘をしていたのをみて、「前提の議論がおかしいのだな」と気づきました。

 例えば、文芸評論家で、戦後を代表する保守言論人でもあった竹山道雄は『昭和の精神史』と云う著作で、三田村が説いていた「コミンテルン陰謀論」を、占領軍が東京裁判で用いていた「共同謀議論」や左翼が掲げていた「唯物史観」や右翼が主張していた「アジア解放論」と同様の「上からの演繹」として批判していました。竹山は、三田村の主張が思想的に正反対であるはずの「マルクス主義唯物史観」とパラレルな関係にあると述べています。


 すくなくとも結果からは、赤謀略説は証明されたかに見える。わけのわからない戦争が奇怪な様相をもって無限に拡大されていつまでも打ち切られず、ために両国は消耗し、ついに中国は赤化され、中立を守っていたソ連は最後になって日本の北を併呑し、日本国内は左翼のために動揺をつづけている。もしこれがはじめからの企図だったのなら、いかなるプログラムもこれ以上に成功することはあるまいと思われるほどである。
 三田村武夫氏の『戦争と共産主義』という本は、著者の警保局そのほかの閲歴から普通に知られなかった豊富な資料によって、あの歴史に踊った人々の行動が自作自演ではなかった、すべては自ら知らずして蔭の演出の筋書によっていたのだ、と説明している。奇矯のようだけれども、読んでいて、すくなくともこれがかなり大きな部分的真理であったことは説得される。
 しかし、はたしてこれをもって一切を解く鍵とすることができるであろうか?あの結果をもってそれに先行するすべてを断定することができるのであろうか?歴史はあまたの複雑な動因によってうごくから、結果として生れたものをもってこれがはじめからの所期されたものであったことは、多くの場合にあやまった判断となる。別の似たような例をもっていえば、日本が「アジア解放」の掛声をもって無謀な戦争をつづけた後に、結果としてはアジア諸国が独立することになったが、これは日本の意図からよりむしろ歴史の成行きからそうなったのにちがいない。
 赤謀略説も、日本による現在のアジア解放説も、共にやはりある一つの観点によって歴史の全体を体制化しようとしたものではないのだろうか?(講談社学術文庫版、90-91頁)


 同書は、1955年に雑誌『心』に連載した「十年の後に」と云う論考をまとめたものです。一応、竹山は当時公開された歴史資料を引用していますが、彼が何よりも重視していたのは「歴史の見方そのもの」でした。竹山は歴史学者ではなく、文学者だったことも関係しているように思えます。


 歴史を解釈するときに、まずある大前提となる原理をたてて、そこから下へ下へと具体的現象の説明に及ぶ行き方は、あやまりである。歴史を、ある先験的な原理の図式的な展開として、論理の操作によってひろげてゆくことはできない。このような「上からの演繹」は、かならずまちがった結論へと導く。事実につきあたるとそれを歪めてしまう。事実をこの図式に合致したものとして理解すべく、都合のいいもののみをとりあげて都合のわるいものは棄てる。そして、「かくあるはずである。故に、かくある。もしそうでない事実があるなら、それは非科学的であるから、事実の方がまちがっている」という。
 「上からの演繹」は、歴史をその根本の発生因と想定されたものにしたがって体制化すべく、さまざまの論理を縦横に駆使する。そして、かくして成立した歴史像をその論理の権威の故に正しい、とする。しかし、そこに用いられている論理は、多くの場合にははなはだ杜撰なものである。(13-14頁)


 竹山の議論はエビデンスに基づきながらも、それと同時に、社会の動きをみていこうと云うものです。ある意味では、非常に文学者らしい発想とも云えます。例えば、政府要人を暗殺した青年将校たちの行動は「前近代的」とみるのではなく、むしろ「近代的な主張」に基づいたもではないか、と分析しています。


 青年将校たちがした暗殺は、イデオロギーによる直接行動だった。そして、そのイデオロギーとは、ブルジョアジー体制を仆して国家社会主義をたてようという、一九二〇年三〇年代の世界に共通の現代的なものだった。(122頁)


 他に、私が「コミンテルン陰謀論」の議論がおかしいと思ったのは、実際に「陰謀」を考えていた人の議論と比較するとあまりにも楽観的な発想が目立つからです。つまり、陰謀が仮にあったとしても、実際に計画を実行し、しかも成功に収めるのは容易ではない、と云うことです。陰謀論の議論では、「黒幕」が計画した陰謀がほとんどなんの失敗もなく、実行されたと述べています。
 それはつまり、「情報」がスムーズに何の誤差もなく、流れていると云うことになります。それを図式化すると、以下のようになります。


「黒幕」が陰謀を計画→陰謀を実行→陰謀が成功→「黒幕」が陰謀の成功の報告を受ける→「黒幕」は成功をもとに利益を得る


 これだけでもかなり無理があります。なぜなら、「情報」がこんなにスムーズに流れることは原理的に不可能だからです。

 まず、陰謀を計画する「黒幕」は一人なのか、複数の人なのか、一個の組織なのか、でかなり計画がずれます。仮に、一人の人間だけだとすると、相当な負担が「黒幕」にかかります。考えてみればわかりますが、多くの人に知られないようにするのが「陰謀」なのですから、毎日、「陰謀」が露見しないように気を使うはめになります。しかも、実行する人は別なのですから、その人には正確には指示をしないといけません。
 なので、「黒幕」は複数人か、組織と云うことになりますが、そこでも問題があります。どうやって、一人ひとりの意見をすり合わせて、「陰謀」を計画するのでしょうか。しかも、「陰謀」の目的は利益を得ることですから、分前をめぐって仲良くまとまっているとは限りません。どうやって、組織をまとめているのか。
 さらに、仮に「陰謀」が計画されたとしても、計画通りに実行される保証はありません。計画を実行する人たちが計画通りに実行して成功するのは極めて難しいです。なぜなら、「陰謀」のような大規模な計画を実行しようとすれば、大規模な人手が要ります。そんなことをすれば、「陰謀」が露見するリスクを常に抱え込むことになります。さらに、人数が増えれば、伝わる情報が杜撰になるリスクもあります。
 そして、それらのリスクを抱えながらも、成功したと云う報告が「黒幕」に届けられたとして、本当にその報告が正しい保証はどこにもありません。報告した人が景気のいい話を上司である「黒幕」に聞かせようとして、虚偽申告をしている可能性もあります。あるいは、本当は失敗したけれども、失敗したと云えないので、嘘をついているかもしれません。なにせ、「陰謀」ですから、確かめる術がありません。

 三田村のような陰謀論者の議論では上記のような「黒幕の規模」「情報伝達の問題」がかなり曖昧にされています。お気づきかもしれませんが、陰謀論では「黒幕」や「情報」についての議論が常に堂々巡りなのがわかります。それは、プラトンが「善のイデアとはそもそも何のか」と云うことを述べていないように、「黒幕」や「情報」が何の問題もなく存在していることが前提だと云うことがわかります。

 私がそのことに気づいたのは、古代中国の思想家・韓非子の議論を知ったからです。前述の中西輝政氏は「陰謀は具体的にどのようなものだったのか」を歴史学的な議論で行なう学問として「インテリジェンス・ヒストリー」「情報史」と云う分野を築き上げてきました。
 「情報史」でよく参照されたのが、古代中国の思想家・孫子の議論でした。孫子と云えば「彼を知り己を知れば百戦殆うからず」と云う言葉が有名で、「用間篇」と云う現在で云うところのスパイの用い方について議論をしています。

 しかし、孫子よりも後の時代を生きていた韓非子の議論を参照すると、「陰謀」どころか、普通の政治を行なうことすら、困難なことがわかります。
 韓非子は「そもそも情報を正確に人間に伝えても意味がない」と指摘します。


 そもそも、君主に自分の意見を説く時の難しさとは何か。それは、自分の持っている知識や見解が君主に説くほどのものなのかどうか、という難しさではない。また、自分の弁舌の能力が自分の意見を明確に表現することができるのかどうかという難しさでもない。また、君主の怒りを恐れず大胆に自分の意見を言い尽くすことができるのかどうか、という難しさでもない。(略)
 そもそも、自分の意見を説く時の難しさとは、次の点にある。説く相手つまり君主の心の内を知ったうえで、自分の説く考えが君主の心にかなうようにすることができるのか、という点に。(西川靖二『ビギナーズ・クラシックス中国の古典 韓非子』、27-29頁)

 

 韓非子は人間は予測ができない不確実な存在で、仮に正しい情報を伝えても真逆の行動を取ると述べています。何よりも「真実を知ること」が重要だとみなしていなかったことです。
 例えとして、彼は二つの説話を紹介します。

 昔、鄭の国の王に武公と云う人がいました。彼は胡と云う国を討とうとしました。そこで、胡の国に警戒されないように、自分の娘を胡の国の王に嫁がせ、胡の王を喜ばせます。このようにして、胡の国に好意を示しながら、臣下たちに、「私は兵を起こそうと思うが、どの国を攻めれば良いか」と尋ねます。大夫の関其思が「胡の国を討てば良いと思います」と返事をします。すると、武公は怒り、関其思を処刑し、次のような見解を発表します。「胡は娘の嫁ぎ先で、兄弟のような国だ。その国を討てなんて、何を云うか」。胡の国の王はそれを聞いて、鄭は自分に親しみがあると信頼します。そこで、鄭の国に対する備えをしなくなります。その隙に鄭の人々は胡の国を襲撃し、国を奪い取りました

 宋の国に裕福な人がいました。ある日、雨が降って土塀が崩れてしまいます。家の子どもが「土塀を直さないと、泥棒が来るよ」と云いました。隣り近所の老人も同じことを云いました。日の暮れに、本当に泥棒に入られて、その家の財産を大量に盗まれました。その家では子どもを大変利口だと思いましたが、隣り近所の老人が盗んだのではないかと疑いました。


 この二つの説話を韓非子は次のように解釈しています。


 関其思と隣人の老人の二人が言ったことは、どちらも当たっていた。それなのに、最悪の場合には関其思のように処刑され、それほどでない場合にも老人のように疑われたのはなぜか。武公の真意や壁が崩れれば盗人が入るという道理。それを知ることが難しかったのではない。知った事にどう対処するかが難しかったのである。だからこれと同じように、繞朝の言ったことは当たっていた。しかし、彼は晋の国の評価では聖人のような知恵者だと見なされたが、秦の国では裏切り者として処刑されてしまった。君主に自分の考えを説くときには、これはよくよく考えなければならない点なのである。(36-37頁)


 もちろん、韓非子が想定している人間は君主と云う権力者なので、現代のような民主主義社会とはそぐわない点が多くみれられます。ただ、彼の議論で重要な点は「人間は事実を自分の都合の良いように解釈したがる」と云うことです。その例として、また説話が登場します。

 昔、衛の国王に寵愛を受けた弥子瑕と云う人がいました。弥子瑕は国王の愛人でした。衛の国の法律では、王の馬車に無断で乗った人間は足切り刑を受けることになっていました。ある時、弥子瑕の母が病気になります。ある人が夜中に、弥子瑕のそのことを報せます。弥子瑕は急いで母親のもとに行くために、国王の命だと偽り、勝手に王の馬車に乗ってしまいます。王はそのことを聞いて、逆に弥子瑕の行ないを褒めます。「弥子瑕は孝だ。母を見舞うために、足切りの刑を忘れるとは」。またある日、弥子瑕は王と果樹園に出かけます。その果樹園にあった桃を食べると大変甘かったので、全て自分で食べずに、残りの半分を王にあげました。王は喜んで云いました。「弥子瑕は私を愛している。こんな美味しい桃を独り占めせず、私に食べさせるとは」。やがて、弥子瑕の容姿が衰えて、王からの寵愛が薄くなると、王から今までの罪を指摘されます。「こいつはもともとけしからん奴で、私の命だと偽って車に乗り、食べ余った桃を私に食べさせた」。

 

 この説話の主人公の弥子瑕の行ないは変わっていません。事実は、「勝手に、国王の車に乗った」「食べ余った桃を国王にあげた」です。しかし、当初、衛の国王は弥子瑕の行ないを称賛していました。理由は、弥子瑕の容姿が良くて、寵愛していたからです。つまり、衛の国王は「事実」だけで弥子瑕をみていなかったのです。しかし、容姿が衰えると、途端に、今までの行ないを悪く解釈するようになり、罰を受けることになります。

 何とも酷い話ですが、韓非子がここで云いたいのは「事実」だけで人間は物事を判断するわけではないことです。人間は「事実」を発信する人が自分の好みかそうでないかで、その「事実」の受け取り方がだいぶ変化することです。現代の私たちにとって、韓非子の指摘をもっとも良く体現していると思われるのが、インターネットのSNSだと思います。別に、陰謀論に限らず、一定の知的訓練を経た知識人でもインターネットのSNSを使い続ければ、偏った考えを持ち、判断を誤ることになります。

 その一例として、「陰謀史観」の誤りを指摘した著作を上梓していた中世史家の呉座勇一氏が自身のツイッターで、英文学者で評論家の北村紗衣氏に対して誹謗中傷を行なったことが明るみになる事件があります。呉座氏はツイッター内で、「リベラル」や「フェミニズム」へのバッシングを続け、結果的にそれが明るみになり、謝罪に追い込まれたわけですが、彼を擁護した言論人がかなりいました。なぜそのような現象が起きたのかは、批評家の後藤和智氏が分析していますので、ここでは詳細は述べませんが、日本の言論界は男性優位な社会で、「リベラル」へのバッシングが常態化していたことにある、と後藤氏は分析しています。



 韓非子の議論に戻ると、人間は君主一人でも「事実」の受け取り方にムラがあるのですから、当然、人数が増えれば、さらに「事実」が何なのかわからなくなる、と指摘します。さらに、「事実」を歪めて自分の利益を求める人間が必ずいる、と指摘しています。
 そのために、彼は「法」と「術」と「勢」と云う概念を用いて、「事実」を明らかにした上で、国の政治を運営しようと主張することになります。その統治がどのようなものなのかは、本記事の内容とは外れるので、ご興味がございましたら、西川靖二『ビギナーズ・クラシックス 中国の古典 韓非子』を参照することを勧めます。
 ただ、韓非子の議論を読んでわかるのは、陰謀論で述べられているような世界を支配するような絶対的な権力は実現不可能だと云うことです。権力を固定した存在として捉えるのではなく、常に流動的な現象として認識していたことがわかります。



 長々と私なりの陰謀論の脱構築の仕方を書きましたが、上記の思想家たちの議論が参考になるかはわかりません。あくまで、私なりのやり方なので、他に良い方法があるかもしれません。
 

 以上が私のコメントとなります。
 参考になりましたら、幸いです。

最近、熱いですね。