見出し画像

えづれさんのコメントへの返信

 本記事は、以前公開した記事にコメントをしてくださったえづれさんへの返信として書いたものです。内容が少し入り組んでいるので、コメント欄に収まらないと考えましたので、記事にすることにしました。



 えづれさん、コメントありがとうございます。

 一応、読む資料には今のところをあたりをつけています。尾崎秀実の全集と先行研究、治安維持法を担った特高警察の先行研究、内務省の先行研究、日本と中国の交流史がおおよその目安です。尾崎の場合、幸いなことに全集が刊行されているのと、ゾルゲ事件に関しては一通り先行研究がありますので、調べるのはさほど苦労はないと思います。
 思想史研究ではその人の思想形成は若い頃にあったと考えます。三田村は小学校を卒業したあと、何をやっていたのかはわかりませんが、確認できる限りでは21歳で岐阜県警巡査に就職したあと、33歳のときに拓務省管理局へ転身するまで警察官として活動しています。その後の資料でも警察官として活躍していたことを事あるごとに語っています。初期の著作でも警察関係の法律書が目立ちます。三田村が岐阜県から中央へ栄転したあとは、特高警察の図書課に勤務しています。そう考えると、彼の思想形成には警察官と云う職務が重要な影響を与えたと考えられます。戦前の警察は内務省と云う巨大官庁の一部署でもあるので、内務省についても先行研究を押さえたほうが三田村が官僚機構やそこで働く同僚や上司にどう云う感覚を抱いていたのかがわかると思います。
 中国と云う問題はやはり避けて通れないと思います。三田村が積極的に言論活動をするようになったのは満州事変以後です。官僚を辞めたのは満洲での統治の権限をめぐって陸軍と対立してとのことですが、それ以前の彼は日本の植民地行政を担っていたわけです。三田村の師である中野正剛は中国の要人と交流がありましたし、三田村も何度か中国に足を運んでいます。尾崎が評論家として名を上げたのも中国に関する著作が評価されたからです。中国と云うのは意外と近現代史では見落とされがちなので、先行研究は押さえておきたいと思っています。

 実は私、大学時代は「コミンテルン陰謀論」に基づいて卒論を書こうと思っていました。そのために先行研究を調べてみました。結果、根拠薄弱で実証性に耐えられないと云うことがわかり、その提唱者である三田村の精神史を追いかけたほうが良いと考えて方向転換しました。


ソ連の諜報活動の先行研究について


 まず、私は「コミンテルン陰謀論」を支持している保守論壇人の著作や研究書を読んでみました。国際政治学者で保守論壇の重鎮の中西輝政さんが提唱していた「インテリジュンス・ヒストリー」を調べることにしました。実はソ連の諜報活動に関しては先行研究があることがわかりました。佐々木太郎さんの『革命のインテリジュンス』です。同書の著者である佐々木さんは中西さんから指導を受け、そのさいに執筆した論文を元に同書を書き上げたそうです。同書ではソ連の諜報活動について資料を元に丹念に分析し、どのようなかたちで諜報工作活動を行なっていたのかを実証しています。

 ただ、読んでいて引っかかる点がありました。それは同書では1930〜40年代のソ連の諜報や工作活動があったことは実証しているのですが、どれぐらい成功したのか、現実の政治や社会にどれぐらい影響力を持てたのか、については実証しきれていない点です。


 例えば、言語によるコミュニケーションの問題があります。ソ連の公用語はロシア語です。ロシア語は確かに話者は多いのですが、基本的にロシアか東欧に固まっています。当然、言語が違う外国で意思疎通をするにはロシア語を話せる人か、その国の言葉を話すしかないです。
 つまり、英語圏や日本語圏、中国語圏でソ連が諜報活動をしようとすると言語の問題が出てくるわけです。インターネットがなかった時代に現地の人にスパイになってもらってもらうには実際に会って口頭で説得しないといけません。さらに、スパイとして諜報活動に従事するさいには、勝手に行動されては困るので、指示をしないといけませんが、あんまり頻繁に外国の大使館と連絡や会っていたら周囲から不審に思われます。
 またGoogle翻訳やYouTube、語学アプリやCDがなかった時代に、母語でない言語を学ぼうとすれば、語学の先生につかないと難しいです。しかも、そう云う語学の先生につくには大学などの高等教育とアクセスしていないと難しいです。戦前の日本で外国語が理解できた人は大抵はミッション系の学校か旧制高校か旧帝国大学などの卒業生が多かったのは象徴的です。つまり、一般人ではなく、エリートの人たちと関係を持たないといけないわけです。そのエリートの人たちはたいていは一般の人よりも恵まれていて社会的な地位を持っています。現在の日本では東大卒や旧帝国大学卒のほうが就職に有利で、年収でも他の大学を卒業した人と比べて差があるのは周知の事実です。さらに、大卒のほうが高卒や中卒の人よりも年収があったり、出身校の知名度でコネや人脈が築きやすいことは社会人になればわかると思います。現代でも上記のようなわけですから、高等教育はおろか義務教育が小学校までだった戦前の社会ではエリートとして受けられる恩恵は今の比ではないと思います。つまり、わざわざ自分の社会的な地位や収入を失ってまで外国の諜報活動に参加する理由があるのかと云うことです。もし、そう云う社会的な地位や年収を失っても良いと思わせるのは、並大抵のことではないです。ましてや、見ず知らずの外国人からです。リクルーターとエージェント双方が語学に堪能で、意思疎通が問題なく行なえて、なおかつ強固な信頼関係がないと無理です。


ヴェノナ文書について


 あるいは、資料批判が足りないと思いました。
 同書ではソ連大使館が本国に向けて送った暗号電報や亡命したスパイが機密文書を移したノートを資料として提示しているのですが、資料としてどこまで信頼に値するのかと云うのをソ連に関する先行研究と合わせて考えて欲しかったのですが、微妙に思いました。
 佐々木さんは30〜40年代のアメリカのソ連大使館が本国に送った暗号電報をアメリカ陸軍が傍受して作成したヴェノナ文書を主に依拠しながら論証しているのですが、果たして電報を打った大使館職員が正確な情報を送っていたのかと云う疑問があります。当時のソ連はスターリンによる強権政治が行なわれ、粛清が繰り返されました。スターリンによる粛清の結果、赤軍の将校がいなくなり、独ソ戦のさいは大きな支障になったことは有名です。正確な情報を送っても、本国に帰国したら何をされるかわからない。それなら、嘘を盛っても良いだろう、どうせモスクワからわざわざ確認する手段はないだろうと考える人が出てきてもおかしくないと思います。実際、社会主義国では指導部からの処罰を恐れて統計データの偽装により成果を誇張しがちなのは常識です。国内でもこの有様なのですから、国外にいる大使館員や諜報員が全員、正確な情報を本国に届けていたと考えるのは不自然だと云えます。
 またヴェノナ文書では通信傍受の対策のために、アメリカにいる工作員にはコードネームが付けられています。一応、何人かは特定できて、その中にはゾルゲの関係者だった宮城与徳やアグネス・スメドレーの名前が出てきます。ただ、当時の大統領だったフランクリン・ルーズベルトや政府高官にまでコードネームが付けられています。コードネームなわけですから、匿名に近く、その人が誰なのかを複数の資料を突き合わせないといけません。さらに、同一人物でもコードネームが変わるケースがあるようで、コードネームが付けられたから、本当にスパイだったのか、ヴェノナだけで特定するのは難しいです。なので、ヴェノナ文書に記載されているコードネームだけでは特定できない人物が多いと云えます。
 またヴェノナ文書自体がロシア語から英語に翻訳されたものと云う問題があります。アメリカ陸軍が傍受した電報をアメリカ人でも読めるようにしたので、翻訳したわけです。なお、ヴェノナ文書自体はNSAで閲覧可能です。知っての通り、ロシア語と英語では文法の構造や系統などが大きく異なります。しかも電報なので文章が大変短く、ロシア語のニュアンスを上手く英語に翻訳できたのかと云う問題があります。これは日本語話者ではない人が日本語の特有の語感(例.人形と人魚、謝礼と謝罪、お参りとお礼参りの違い)についていけないのを考えると理解しやすいと思います。
 そのため、ヴェノナの資料的な価値をめぐってはアメリカで今も論争があり、佐々木さんの記述をみる限り、あまりそう云う論争の是非を論じていないです。https://kufs.repo.nii.ac.jp/?action=repository_action_common_download&item_id=36&item_no=1&attribute_id=22&file_no=1

 ただそれでも佐々木さんがヴェノナを中心に論証を行なっているのは、他の資料はもっと不確実な要素を含んでいるからです。コメントで指摘していただいたレフチェンコ証言の他に、KGBの幹部でイギリスに亡命したワシリー・ミトロヒンが持ち込んだミトロヒン文書や元KGB将校のアレクサンドル・ヴァシリエフが機密文書を閲覧して作成したヴァシリエフ・ノートについて言及しています。しかし、言及するのみで具体的な論証はヴェノナが中心的です。
 理由は資料の成立年代が新しいのとコピーや手書きメモ、本人の記憶による証言と云う要素があるからです。歴史学では実態が把握されるのは50年かかるとされています。それは当事者がまだ生きているからです。この場合、KBGの幹部だった人たちが亡命したことでもたらされた資料と云うことを考慮しなくてはなりません。当然ですが、本国に帰ったら処刑されるので、絶対に亡命先の国に気にいられないといけません。しかも紛争や迫害によって逃れてきた難民ではなく、工作員だったわけですから偽装で入ってきたと云う疑いを晴らす必要があります。そうなると、提出された資料には何らかの歪みが含んでいると考えたほうが良いです。ではその歪みは何なのか。別に悪意がなくても、自分に不都合な内容のものは省きたがったり、偽造したくなるのが人情です。なにせ、命がかかっていますから。残念ながら、資料の歪みを確認する手立てはモスクワに保管されている機密文書と突き合わせないといけないのですが、まだ年代が新しい資料は基本的にどの国も公開しません。特に、機密性が高いものはアメリカでも公開しません。あるいは太平洋戦争終結直後に、日本では公文書破棄が行なわれていたのを考えると、本当に資料があるのか確認することすら難しいと云えます。
 なので、佐々木さんはヴェノナ文書以外の資料ではあまり論証を行なっていません。それは上記のような史料批判をクリアできていないからです。


ミステリー・ギャップについて


 私は中西さんや佐々木さんが提唱している「インテリジュンス・ヒストリー」について調べたのですが、どうも変な部分があることがわかりました。
「インテリジュンス」即ち、「情報」が歴史上どのように扱われてきたと云う学問ですが、ある種の「盲点」があると気づきました。それは「情報」がそのまま生かされることがありえないことです。
 私は00年代に中西さんと交流があった外交官の北岡元さんの著作を読んでわかったのですが、英語で「情報」を表す単語は2つあります。1つは”Information”で、もう1つは”Intelligence”です。Informationは素の情報で、IntelligenceはInformationを加工して意味づけをした情報のことを指します。北岡さんは料理のたとえを用いているのですが、具材がInformationなら、それを調理したのがIntelligenceと云うことです。たいていの具材は生では食べられないように、情報と云うのは単に集めただけでは何の役に立ちません。何らかの意味のある情報を取捨選択していかないといけないわけです。そうして集めた情報に基づいて個人にせよ国家にせよ、将来を起きる出来事を予測したり、目の前の事象について判断をしていくわけです。
 そうなりますと、必然的にある現象が起きると云います。それは「ミステリー・ギャップ」と云います。人間は物事を予測したり、判断したりするさいは、必ず情報を加工しないといけません。現代ではもっぱら出来事は文字に変換されるわけです。そうなると、本当に情報が正しく伝わっているのかと云う問題があるわけです。現実世界は時間によって変化しています。かりに正確な情報を収集していても時間が経てば役に立たたなくなることが多いです。あるいは情報を集めて将来起こる出来事を予測しても、本当にその予想が当たるかわからないわけです。また機密性が高い外交や諜報の世界では情報が断片的にしか集まらないと云う問題もあります。一例として北岡さんは、9.11以前に、アルカイダのリーダーであったビンラディンが危険である報告をクリントンやブッシュ大統領は受けていたが、どう云う風にアルカイダが行動に出るのかまではわからなかったそうです。
 通信技術が発達した現代でも「ミステリー・ギャップ」に悩まされているわけですから、昔はもっと酷かったと考えるべきです。またかりに情報を送ったとしても受け取った側が送り手を信頼しなければ意味がありません。政治史を紐解けば政治家が必ずしも情報の正確さのみで物事を判断していたわけではないことがわかります。ゾルゲ事件の中心人物であったリヒャルト・ゾルゲはスターリンに疎まれて情報をモスクワに送ってもろくに信頼されていなかったことがわかっています。 なぜなら、スターリンは疑心暗鬼が強く、ドイツで育った経歴やゾルゲが所属していたコミンテルンを疎ましく感じていたこと、バイク事故で負傷すると云ったトラブルなどからゾルゲは信頼していなかったからです。
 そう云うわけで、ソ連の諜報活動を実証するには、北岡さんが指摘した「ミステリー・ギャップ」を考慮に入れないといけないのですが、私が調べた限り、そのような前提にした研究をみつけられませんでした。そうなると、ほとんど推論のようなかたちでしか記述できないわけで、実証性があまり高くないわけです。


保守論壇の世代交代について


 私が「コミンテルン陰謀論」を調べて気になったのは、保守系言論人が中心になって同説を支持していたことです。たいていはアカデミズムや戦後民主主義批判、反共、歴史問題の文脈に絡めて言及されていることです。
 では、三田村が「コミンテルン陰謀論」を唱えていた50年代ではどのように理解されていたのかを調べてみることにしました。そこでわかったのは、50年代の保守系言論人は三田村の提唱していた「コミンテルン陰謀論」に対して否定的な見解を示していたことです。
 代表として文芸評論家の竹山道雄が雑誌「心」に連載した「十年の後に」と云う論考が挙げられます。同論考はのちに『昭和の精神史』と題して書籍化され、長らく保守系言論人の歴史認識を代表する書物とみなされました。同論考で竹山は戦後に流布していた戦争の原因を解明したと称する言説に批判を加えています。まずやり玉に挙げているのはマルクス主義に影響を受けた歴史学者のハーバート・ノーマンの学説です。ノーマンは日本が戦争に向かったのは近代化が不徹底だったことで前近代的な封建勢力が残ったことにあると云う見立てでした。マルクス主義的唯物史観で当てはめれば明治維新はブルジュワ革命とは云えず、資本主義を担うような主体性を持った市民や個人が存在しなかったことになり、近代化こそが日本に必要であると云う結論になります。事実、ノーマンはGHQの関係者で、50年代の歴史学者はノーマンに強く影響を受けていました。竹山はそんなノーマンの学説に対して反論しました。竹山は日本が戦争に向かったのは、前近代だったからではなく、近代化したからだと云う見方をしています。その証拠に戦争に導いたとされる封建勢力はテロや暗殺の標的にされていたことを上げています。5.15事件や2.26事件です。戦前の日本を戦争に導いた思想の担い手たちは決して前近代的な思考の持ち主ではなく、自身の主張を押し通すために直接行動をいとわない極めて近代的思想の持ち主だったと分析しています。
 また竹山は同時に、三田村の提唱した「コミンテルン陰謀論」にも懐疑的な見解を示しています。確かに、日中戦争から太平洋戦争までいたずらに戦線が拡大し、日本の敗戦後に中国は共産化され、ソ連に北方領土を取られ、国内では共産党が復活した様子をみると、誰かがあらかじめ陰謀を仕組んだようにもみえます。しかし、歴史をそのように単純化してみるとかえって実態がみえなくなるのではないか、と竹山は指摘しています。彼はまた「アジア開放」をかかげて戦線を拡大した結果、戦後にアジア諸国は独立したがそれは日本のおかげと云うよりもなりゆきでそうなったのではないかと述べています。
 竹山はノーマンの学説にしろ三田村の陰謀論にしろ、同じような誤りを犯していると云います。それは歴史を一つの観点だけで演繹的にみていることです。マルクス主義的唯物史観やコミンテルン陰謀論は確かに、議論の中身は大きく異なりますが、どちらも偶然を認めようとせず、すべてがあらかじめ決定されていると云う見方を取ります。しかし、実際に戦時中に起きたことはまったくの無計画さだったと云います。竹山は日本が戦争に負けたのは、軍事と外交がばらばらになり、明確な国家意思がなく、戦線を無駄に拡大させたせいで、封建的精神や階級支配が崩れたことで国全体が不定形な状態になったからだと結論づけています。
 他に、政治学者の猪木正道は1953年に雑誌「福音と世界」で「のどもと過ぎれば熱さを忘れる」と題した論考を発表しています。猪木は三田村のことを名指しにしてはいませんが、GHQによって公職追放を受けた国家主義者たちが公職に復帰し、反共を唱えたことに嫌悪感を示しています。猪木はありとあらゆる問題を共産主義のせいにする国家主義者に対して批判的な見解を示しています。日本を滅ぼし、中国を共産化させて東南アジアが共産化される原因をつくったのは共産主義者ではなく、共産主義の脅威を説いた国家主義者だと厳しい言葉を述べています。

 なぜ、50年代の保守系言論人は三田村の提唱したコミンテルン陰謀論に対して批判的な見解を示しているのか。それは彼らは日本が戦争に向かう過程を体験しているからです。満州事変以後の言論統制が厳しくなっていた時代を体感し、その空気に嫌悪感を抱いていたからです。竹山は戦前は一高の教師で教え子たちを戦争に送らないといけなかった立場に苦しみ、猪木は大学の師であった自由主義者の河合栄治郎が言論弾圧によって職を失い失意の中で亡くなる姿や徴兵された海軍内部でのリンチを目撃したことなど苛烈な戦争体験をしています。
 戦前の保守系言論人に共通しているのは、戦前の軍国主義と戦後の平和主義が同根の存在と云う見解だったと、政治学者の中島岳志さんが『保守と大東亜戦争』の中で指摘しています。それは保守主義は人間の理性に対する懐疑を持つため、人間の努力によってユートピアを構築できると云う思想には問題があると考えるからです。そのため、戦前の保守系言論人はアジア太平洋戦争に対して否定的な見解を示し、三田村の提唱していたコミンテルン陰謀論についても批判的な見解を述べているわけです。しかし、一方で中島さんは80−90年代になると、保守論壇の傾向が大きく変化したと云います。理由は、戦前世代が鬼籍に入ったり引退したことで、戦前はこどもだった人たちが現役世代になったからです。その人たちは41年の真珠湾攻撃のときは、10歳未満で戦前の空気を知らず、アジア太平洋戦争に対しての見解は戦後の思想形成をしたさいに出てきたものではないかと云うわけです。そのため、戦前世代の保守系言論人と戦後世代の保守系言論人の間で歴史認識をめぐる見解の論争が90年代にありました。
 私は、三田村の「コミンテルン陰謀論」を提示した『戦争と共産主義』が『大東亜戦争とスターリンの謀略』と改題されて87年に復刊されたのは、そう云う保守論壇内の世代交代があったからではないかと考えています。それは三田村が何を云ってきたのかと云う事実確認よりも目先の論争で自説を補強するために求められたと云えます。その証拠に生前の三田村は膨大な量の論考や著作を発表していますが、復刊されたのは『戦争と共産主義』のみで、同書を刊行する以前と以後の三田村がどう云う見解をしていたのかわかりません。さらに、三田村の評伝すらなく、そもそも三田村の生涯や思想の内実すらわからない状態でした。かろうじて、私が調べた範囲では出身県の岐阜の郷土史家が地元の古本屋の目録に寄稿した小論ぐらいしかありませんでした。その小論すら埋もれていた状態でした。要は、三田村本人には何の関心がなく、彼が提示していたコミンテルン陰謀論だけが独り歩きしているわけです。
 事実、戦後世代の保守系言論人の小堀桂一郎さんは前述の中西さんと2007年に対談した『歴史の書き換えが始まった!〜コミンテルンと昭和史の真相』の中で『戦争と共産主義』が執筆された経緯やその後の経過と云った書誌情報が復刊された『大東亜戦争とスターリンの謀略』には記載されていないと述べています。小堀さんはそれを戦後の言論界や報道界の情報リテラシー不足のせいにしていますが、ちゃんと調べる気があったらもう少し三田村に関する先行研究があってもおかしくなかったと思います。結局、保守論壇内での世代間闘争や歴史認識をめぐる論争の材料として三田村のコミンテルン陰謀論は使用されてきたわけです。
 なので、私の卒論研究では三田村が書いたテキストを可能な限り読み込んで、その思想の内実を探ると云うものにしたわけです。


スパイについて


 いただいコメントの中で、企画院事件や勝間田清一や革新官僚、国家社会主義官僚がスパイだったのではないかとご指摘いただきましたが、その論法でいきますと、ほとんどの人がスパイになってしまいます。
 どう云うことかと云いますと、もしスパイが大使館や諜報機関と云った公的組織に所属している人を指すならわかりやすいです。要は、公務員で税金で給料をもらっている仕事の一環で諜報活動に従事しているわけです。もちろん、尾崎のように思想的なシンパシーを持ってスパイになる人はいます。しかし、実際の尾崎はプロの諜報員ではなく、本業は文筆家です。しかも、ゾルゲは尾崎のような素人ばかりを集めてチームを組んでしまったことで、かえって諜報活動が露見してしまいました。つまり、スパイとバレている時点でかなりレベルが低いわけです。
 そう考えますと、政治家や官僚をスパイにすると云うことはプロではない素人を抱え込まないといけないリスクを背負うことになります。なぜなら、近代社会では政治家は選挙で当選しなければならず、官僚は膨大な量の業務に対処しないといけません。そう云う人たちは諜報活動をするための訓練を受ける暇がないわけです。また旧社会党の政治家がソ連のスパイだったと云われていますが、そうなりますと、自民党の政治家も同様にアメリカのスパイだったと云えます。三田村が占領期に書いたものを読むと、アメリカのスパイだったのではないかと思わせるような内容ばかりです。実際、GHQに求められて共産主義対策の提言書まで書いています。読売新聞社の幹部で正力松太郎や馬場慎吾の側近だった柴田秀利の『戦後マスコミ回遊記』を読むと、公職追放を受けた三田村が読売新聞本社に押しかけてコミンテルン陰謀論を当時の社長であった馬場の前で披露していたそうです。三田村のレクチャーを横で聞いていた柴田は半信半疑で聞いていたようですが、コミンテルン陰謀論をあることに利用します。それは戦中の社長だった正力がGHQに公職追放を受けていたことで、彼の追放解除の説得のためにアメリカ本国に向かい、コミンテルン陰謀論を説いていたことがしるされています。要は、GHQが目の敵にしていた正力のような戦前の要人たちを公職に復帰させないと、日本は共産主義化すると説いたわけです。ちなみに、柴田は頻繁にアメリカを訪れ、原子力発電やテレビ放送の技術をもらっています。
 こう書くと、三田村や柴田はアメリカのスパイだったかのようにみえますが、もちろん違います。彼らは確かに、アメリカと関係を持っていましたが、政治的な目的のために関係を結んでいたわけです。特に、政治家は選挙のために常にお金が必要です。政治資金規制法が制定された現在でも汚職が絶えない現状をみれば、50年代はもっと酷かったと考えたほうが良いと思います。一応、三田村は同郷の大野伴睦やのちの田中角栄などの有力政治家と異なり、露骨な利益誘導はしなかったそうですが、大臣のような有力なポストを望もうとしたらお金のことは無視できなかったと思います。自民党でもそうなら、社会党の政治家も政治的な目的のためにソ連と関係を持っていてもおかしくなかったと思います。問題は関係を持っていたから、ソ連やアメリカの望むように動いていたかと云うことだと思いますが、たぶん良いように使っていたのが実態だったのではないかと思います。
 その証拠に戦後日本で政権を取り続けたのは自民党で、社会党が政権を取ったのは占領期の片山哲と芦田均内閣、90年代の細川護熙と村山富市、橋本龍太郎内閣だけで、しかも社会党党首の総理は片山と村山しか出ていません。スパイが日本の世論を工作していたと云うなら、ソ連よりもアメリカのほうが成功していたようにみえますが、もちろんそんなことはなく、自民党に投票したほうが有利だったから、昭和の日本の有権者を投票していたわけです。実際、朝鮮半島と中国大陸では内戦の結果、分裂してしまい、軍事独裁や計画経済の失敗などで停滞してしまい、冷戦期は日本だけが経済的に有利な地位にいたことは誰もが認めることです。スパイが日本を操っていたら、そんなことは起きないわけです。
 また現在のウクライナ侵略で日露関係は悪化しており、ロシアが日本の世論のコントロールができているとはとても思えません。確かに、ロシアがプロパガンダを流し、真に受けている人が大勢出ているのは事実ですが、権力を持っていない人に云ってもはっきり無駄です。ロシアにとって今重要なのは、経済制裁による包囲網を崩し、ウクライナへの侵略を国際社会に認めさせることだと思いますが、岸田文雄総理はロシアを非難する姿勢を崩していません。プロパガンダの目的は自分が望む方向に相手を誘導させることだとするなら、完全に失敗していると云えます。むしろ、ロシアのプロパガンダが酷すぎて、かえってひんしゅくを買っているのが実態ではないでしょうか。


「復古ー革新」について


 あと意外と見落とされているのですが、戦中の日本ではエリート同士がお互いをスパイや売国奴よばわりしていがみ合っていたことが忘れられています。どうしてそうなっているのかと云うと、大正時代からエリートの間で日本の国家方針をめぐる路線対立があったからです。歴史家の伊藤隆さんは『大政翼賛会への道』の中で、「「復古ー革新」派」と云うかたちで叙述しています。伊藤さんはそもそも明治維新以後の日本における国家方針をめぐる路線対立は「進歩」と「復古」と云うかたちを取っていたと云います。「進歩」は文明開化による近代化を推し進めようとする勢力で、「復古」は近代化そのものを否定しないものの急速な近代化は日本らしさを失わせることではないかと考え、近代化のあり方を批判する勢力です。一番象徴的なのは、明治政府に反旗を翻した西郷隆盛による西南戦争と云えるかもしれません。
 しかし、大正時代になると、「革新」と「斬新」と云う新しい対立軸が生じたと云います。「革新」は社会のラディカルな改造を志向するのに対して、「斬新」は「革新」の提示するような改造論に懐疑を示す勢力です。ここで重要なのは、「進歩」と「復古」、「革新」と「斬新」では相手のことを悪くみていたことです。「進歩」の立場からは「復古」はアナクロニズムな「反動」にみえて、「復古」の立場からは「進歩」は外国かぶれの「欧化」にみえていました。「革新」の立場からは「斬新」は既得権益を守ろうとする「現状維持」にみえて、「斬新」の立場からは「革新」は日本を「破壊」しようとみえたわけです。
 重要なのは、2つの座標軸が交わることで、「進歩ー革新」「復古ー革新」「復古ー斬新」「斬新ー進歩」と云うような4つの勢力が出てきたことです。伊藤さんは満州事変以後は「復古ー革新」を掲げる勢力がヘゲモニーを握ることで、他の勢力が「現状維持」勢力とみなされて勢いを失っていったと指摘しています。「革新」と「復古」、今なら左翼と右翼と云うことになって水と油のように思われますが、大正時代は事情が異なりました。
 満川亀太郎と云う人物が『三国干渉以後』と云う回想録で当時の状況についてしるしているのですが、当時の右翼はロシア革命に好意的でした。日本の右翼がかかげていた「一君万民」と云う政治的理想と共産主義のかかげていたプロレタリア独裁が一致していると考えられていました。「一君万民」と云うのは、天皇の下ですべての国民が平等な「赤子」として扱われている社会のことで、記紀の時代は天皇と人々が和歌によって心を通わせ、神々に祈りその神意に従って暮らしていたと考えられていました。しかし、中国から文明を摂取するうちに、そのような牧歌的な世界が崩れ、律令制ができ、公家や武家と云った特権階級が生まれたことで、人々と天皇の間に障害ができてしまったと云う歴史観を持っています。だから、明治維新によって幕府を廃止し、四民平等を実現した明治維新は右翼の立場からは「革命」と映りましたが、明治政府と云う新しい支配層が生まれたことで反政府的な見解も持っていました。なぜなら、天皇と国民の間にはいかなる存在も必要がないと云うわけです。それは資本主義を打倒する共産主義革命を志向し、平等社会を実現しようとした共産主義と似ています。
 そのため、戦前の大正期に出てきた右翼は若いころは社会主義に影響を受けていました。前述の満川も社会主義者の本を読んでいたと回想していますし、彼と交流が北一輝の初期の著作は『国体論及び純正社会主義』で、大川周明も社会主義に影響を受けていました。思想研究では「革新右翼」と呼ばれる人たちです。彼ら革新右翼は天皇を用いながら、理性に基づいた設計主義的な「改造」を志向していました。階級の打破による平等社会の実現は共産主義と相通じるとみなされていたわけです。北の『日本改造法案大綱』は天皇による戒厳令によって憲法を停止し、超法規的措置で国家の改造を主張しています。
 なので、前述の竹山は30年代の日本を席巻した右翼は革新思想をかかげた人々だったとみなしたわけです。もちろん、社会主義にシンパシーを抱いたからと云って、即座にソ連のスパイだったわけではないです。あくまで革命を行なう主体は日本と云う理屈ですので。もっとも、革新右翼の人知に基づいた設計主義的な思想はのちに大きな反発を招くことになります。
 伊藤さんの著作では41年の真珠湾攻撃以前に大政翼賛会が設立するまでを描いていますが、重要なのはアジア太平洋戦争に突入しても上記のような「復古ー進歩」「革新ー斬新」と云った対立構造が維持されていたことです。
 歴史家の吉田祐さんは『アジア・太平洋戦争』の中で東条英機内閣が最終的に倒れた原因は「復古ー革新」が影響力を失ったことにあると指摘しています。30年代に傍流になっていた「復古ー斬新」「斬新ー進歩」が利害が一致したことで協力したにあるとみています。どう云うことかと云えば、戦時体制になれば中央政権に権力が集中します。そうなると、東条が独裁者のようにみえてしまい、「復古ー斬新」をかかげる人々が反発するようになります。事実、東条内閣では右翼による反戦運動が発生します。また戦時下での極端な統制は「斬新ー進歩」をかかげる人々の反感を買います。彼らは大正期リベラリズムに影響を受けた人々で天皇機関説を奉じ、自由主義と立憲主義を重視することで東条のように軍部が政治に影響力を持つことに違和感を抱いていました。
 また敗戦直前に近衛文麿が昭和天皇に上奏した「近衛上奏文」も上記のような対立構造が存在していたことを鑑みると理解できます。吉田さんは「近衛上奏文」の中で徹底抗戦すれば敗戦後に共産主義革命が起きてしまうと危機感を示し、満州事変以後、軍人は共産主義に操られてしまったことで戦争が拡大したと述べています。近衛は「復古ー斬新」「斬新ー進歩」の人々に担がれることで「復古ー革新」と共産党の弾圧により影響力を失っていた「進歩ー革新」に責任を押し付けたわけです。
 荒谷卓さんは『終戦と近衛上奏文』の中で三田村が戦後に喧伝した「コミンテルン陰謀論」が実は戦時中にすでに原型ができていたことを指摘しています。理由は戦時下による社会的な混乱によって生じた相互不信感があったからです。前述した通り、「復古ー進歩」「革新ー斬新」の対立軸では相手が悪くみえていました。そして、戦況が悪化するにしたがって戦争を指導していた「革新」の立場は危うくなりました。「革新」のせいで日本は滅亡に瀕していると「復古ー斬新」「斬新ー進歩」の人々はみなしたわけです。
 近衛はそう云う空気を利用していわば藁人形論法を使うことで、昭和天皇に終戦の御聖断を求めたわけです。


明治憲法の「しらす」について



 では、どうしてそんなまどろっこしい説明を近衛はしたのか。理由は当時の日本の最高法規であった明治憲法にあります。片山杜秀さんは『未完のファシズム』の中で指摘していますが、明治維新を起こした伊藤博文や井上毅などの元老たちは江戸幕府の復活を恐れていました。当時は旧幕府藩士たちや徳川慶喜が存命でいつ政権をひっくり返されるかわかりませんでした。
 そこで憲法を制定するさいに、権力が集中しないような国家体制を構築しました。意外と知られていませんが、明治憲法下では権力が分散されるようにできていました。現在の日本国憲法下では内閣総理大臣は衆参両院のいずれかに所属している国会議員から指名されます。しかし、戦前の日本で選挙が行なわれていたのは衆議院のみで貴族院は皇族か華族、勅任官が国会議員を務めていました。現在の日本国憲法では内閣総理大臣が解散選挙を行なうことによって国民から支持を受けたことで行政の長として権力を持つことが正当化されます。なぜなら、日本国憲法では行政権は内閣にあるからです。しかし、明治憲法では内閣に関する規定はありませんでした。
 ではどうやって内閣を運営していたかと云うと、天皇をいただきつつ、イギリス流の慣習法で運営していたわけです。イギリスでは憲法は明文化されていませんが、長年の慣習で国王ではなく庶民院で過半数を取った与党党首が内閣総理大臣に任命されています。建前は国王の代わりに行政権を担うわけですが、実質首相が行政権力を持つことを正当化します。明治期の日本でも同様のシステムを導入しようとしたわけです。ただ、イギリスの議会制民主主義はマグナ・カルタや清教徒革命、名誉革命などイギリス特有の歴史に由来しています。ついこの間まで征夷大将軍を世襲で担っていた徳川家を中心とした幕藩体制で運営されていた日本では慣習の歴史がありませんでした。
 結局、明治政府は議会制民主主義を導入するための屁理屈として天皇を持ち出します。明治政府が刊行した明示憲法の解説書『憲法義解』では「しらす」と云う単語が出てきます。典拠は記紀です。記紀には皇室の先祖である女神のアマテラスが孫神のニニギノミコトに「瑞穂の国を治(しら)せ」と命じ、初代天皇である神武天皇の美称が「始御国天皇(はつくにしらすすめらみこと)」だったことなどから「しらす」こそが日本古来の政治のあり方だったと主張しているわけです。天皇は日本を統治しているが力による支配ではなく、神々から命じられ、私利私欲ではなく徳で政治を行い、国民を大切にしていたと述べています。本来、「しらす」は神話の世界に起源を持つ言葉なのですが、明治政府は拡大解釈したわけです。また明治憲法での国民の名称であった臣民は古代では「おおみたから」と呼ばれていたことを根拠にし、天皇は国民を国の宝として愛し、国民は天皇に服従することで幸福であったと述べています。もちろん、記紀や古代の時代でも天皇は私利私欲を持っていたことで政争や戦争を起こしていましたし、平安時代の摂関政治や中世の武家政権のほうが日本の歴史では長いのですが、あえて触れないことで立憲主義に基づいた近代国家の正当性を天皇に担わせようとしたわけです。
 そうなると、民主主義のはずなのに、天皇がいないと機能しないと云う奇妙な事態が発生するわけですが、明治政府の狙いはそこにありました。天皇に号令をかけてもらうかたちで国家を運営することで幕府が復活することを防いだわけです。もちろん、天皇が好き勝手に決めるような国では近代国家や議会制民主主義にはならないので、天皇は日本国の本来の持ち主だが実質的な国家運営は別の人が担うことにしたわけです。それが明治維新を起こした元老たちです。元老は明治憲法では何の根拠もありません。しかし、日清戦争、日露戦争では戦争のかじ取りを行なっていましたし、大正時代まで国政に影響力を持ち続けました。云わば、明治憲法体制では元老と云う超法規的存在がいたことではじめて正常に運営されたわけです。もちろん、江戸時代に生まれた人たちが中心である元老は大正時代になれば寿命がきてしまいます。大正時代に前述の「革新」が現れ、「復古」と結びつくようになったのは明治憲法下では天皇がいないと何もできない国家体制のため、社会の改造を志向しようとすると天皇をなんとかしないといけない問題があったわけです。
 結局、天皇制打倒を主張した共産党は治安維持法で弾圧を受け、天皇をいただきつつ、国家改造を志向する革新右翼が台頭します。しかし、二・二六事件による失敗で革新右翼は勢いを失い、明治憲法を維持しながら「革新」をしつつ「復古」をしないといけない矛盾を抱えながら、日中戦争からアジア太平洋戦争に突入します。前回の日清・日露戦争と異なり、元老はいません。 首相であった東条は戦争を指導するために強権的な手法を用いたわけですが、その根拠になる法的な基盤が脆弱なため、ひきづり降ろされたわけです。
 近衛が「コミンテルン陰謀論」のようなとんでも陰謀論をわざわざ天皇に上奏したのは、「しらす」と云う明治政府が憲法を制定するさいに用いた論理が足かせになっていたからです。日本が滅亡して皇室の存続が危うくなっては憲法どころではないので、超法規的措置として天皇による御聖断を求めたわけです。


「計画制御の不可能性」と「非線形のエチカ」


 上記のような理由で、大学時代の私はコミンテルン陰謀論は歴史を記述するさいにはあまりにも根拠薄弱と気づきました。もちろん、ゾルゲ事件のようにスパイが実際にいたことは確かですが、スパイと云う言葉のあやふやさや情報の不確実性、戦前の思想状況、明治憲法の抱えていた制度的な欠陥などを無視しないと成り立たないことがわかると思います。

 では、歴史をみるための視点は何がいるのでしょうか。資料を読み込むのは大切ですが、資料を読むだけでは歴史の記述にはなりません。先行研究も細分化が進んで膨大な量になっていて読むのが大変です。

 私は歴史学をアップデートする上で重要な指針を与えているのは、経済学者の安冨歩さんの議論だと思います。もともと安冨さんは満州国の金融をテーマに博士論文を執筆し、過去の歴史の中で経済現象がどのようなかたちで展開していたのかを探求してきました。その後、経済学の枠を超えて様々な学問を猟歩し、独自の思想を展開しています。

 私は安冨さんの『複雑さを生きる』と『経済学の船出』の中での議論が大きな示唆を与えていると考えています。どちらも複雑系科学と云う分野の知見を活かしながら新しい学問のあり方を模索しています。


 まず、『複雑さを生きる』では「計画制御の不可能性」が指摘されています。同書では孫子とリデル・ハートを引用しながら、なぜ20世紀の前半にファシズムが台頭してきたのかを分析しています。ファシズムの背景には、理性に基づいた計画制御を少数のエリートに担わせようとする幻想が存在していたと云います。安冨さんは20世紀前半は社会主義以外にも自由主義もファシズムと同様に理性を信頼していたことで、ファシズムに似てしまったと云います。なぜなら、理性の欠如した大衆によって第一次世界大戦と云う未曾有の大戦争が勃発したことで理性が抱えている問題点を覆い隠そうとしたからです。前述の「革新」が大正期の日本で台頭してきたのは、日本国内の事情の他に、世界的な潮流であったと云うことができます。
 安冨さんは本文では出していませんが、理性の欠如した大衆によって自由な世界が脅かされていると云う言説は保守主義も同様に主張していました。スペインの哲学者・オルテガの『大衆の反逆』が有名ですが、前述の竹山が昭和の戦争の原因は封建的精神や階級支配が崩壊したせいだと論じているのは、理性を持っているのは一部のエリートのみで大衆はその指導に従わないといけないと云う前提を持っていることがわかると思います。そして、三田村の主張しているコミンテルン陰謀論も大衆が共産主義者にそそのかされたことで戦争と革命に突き進めらたと云う理屈で、やはり理性を欠如した大衆と云う存在を前提にしています。もちろん、問題は大衆が理性を失ったことにあるのではなく、理性に基づいた「計画制御」と云う前提が問題だったわけで、古代中国の兵法思想家である孫子が提唱した「無形」のように物事を固定化するのではないあり方が求められるわけです。歴史をみるときの視点でも「計画制御」ではなく、「無形」で物事が進んでいると考えたほうが良いわけです。はっきりとした「形」はみえないのですが、物事は進んでいる云う視点です。

 次に、『経済学の船出』では「決定論的カオス」について議論しています。安冨さんは自身の専門分野である経済学をはじめ、ありとあらゆる学問は盲点を抱えていると指摘しています。その一つが「何かを共有する」と云う発想です。哲学者のスピノザの思想を参考にしながら、西洋由来の思想や学問は「何かを共有する」と云う前提で議論をしていると述べています。その背景にあるのは、聖書の失楽園神話にある一神教的価値観だと云います。
 聖書ではエデンの園に住んでいたアダムとイヴが知恵の実を食べたことで、物事の善悪が判断できるようになり、神によって楽園を追放され、地上で自分自身の判断で暮らさないといけなくなったと云う神話が述べられています。この神話を背景に、西洋の思想では、神によって支配され何の判断も憂いもない「エデンの園」と自由が存在するが自分で判断した結果を引き受けないといけない「地上」と云う二項対立的な図式がかたちを変えながら、ありとあらゆる場面で登場すると云います。一番多いのは、前近代的な価値観を体現した「共同体」と近代的な価値観で作動している「市場」「個人」と云う二項対立と云えます。「共同体」ではそこの構成員である人々は同じ価値観を「共有」しているが、近代化が進むと人々の紐帯である「共同体」が破壊され、人々はバラバラな「個人」と化し、「市場」で生きていかないといけないと云う説明です。
 安冨さんは前述の『複雑さを生きる』では「共同体」と「個人」「市場」が対立すると云う前提が誤りであることを指摘しているのですが、その背景には「何かを共有する」と云う聖書由来の思考があるわけです。コミンテルン陰謀論も「何かを共有する」と云うのを前提にして歴史を記述しています。それは陰謀を企む人々が同じ思想を「共有」して陰謀を行なったと云う発想をしていることからもわかると思います。陰謀を企む人々の「共同体」によってバラバラになった「個人」である大衆が操られていると云うストーリーは「共同体」と「個人」「市場」の二項対立の焼き直しだと云うことがわかると思います。なので、コミンテルン陰謀論を提唱する人たちは民族主義者や国家主義者が多いわけです。悪しき「共同体」から操られている「個人」を救おうとすると、正しい「共同体」が必要になるわけです。そうなると、民族や国家と云うかたちで別の「共同体」を語らざるを得ないわけです。正しい価値観を「共有」すれば陰謀を企む悪しき「共同体」から「個人」を守れると云う理屈です。
 事実、戦前の三田村は民族主義的な言説を主張し、戦後も国内の治安維持のために共産主義者の取締を主張していました。前述の中西輝政さんも民族主義的な著作や論考を発表し、前首相の安倍晋三さんのブレーンとして活躍し、国家主義的な言説を主張しています。昨今、話題になっているQアノンがエリートや富豪を批判しているのにも関わらず、トランプ前大統領と云う権力者を救世主とみなすのは、陰謀論も「何かを共有する」と云う思考の枠組みから抜けられていないからです。
 問題は陰謀を企む人々の「共同体」の有無ではなく、社会がどのように作動しているのか、と云うことです。安冨さんは社会の作動は人間のコミュニケーションの集積にあると指摘しています。この場合のコミュニケーションと云うのは、「何かを共有する」と云うかたちのものと云うよりも人間が生きていく上で発生するものと云えます。私たちは生きる上で何らかのかたちでコミュニケーションを行なっています。それは会話に限らず、インターネットでの書き込みや商品を購入すると云うのもコミュニケーションと云えます。そう云うものの集積が社会を形づくっていると云うわけです。
 では、そんな人間のコミュニケーションの集積である社会はどのように作動しているのか。『経済学の船出』では複雑系科学の議論とスピノザの思想を融合させるかたちで、「決定論的カオス」と云うのを提示しています。安冨さんが哲学者のスピノザの思想に注目しているのは、彼がユダヤ教から破門され、伝統的な聖書解釈とは異なる『神学・政治論』を執筆しているからです。そんなスピノザの主著『エチカ』では伝統的な一神教とは異なる神の姿が提示されています。スピノザは神には人格がなく、目的や意志がなく、作動していると述べています。なぜなら、神が世界そのものだからです。そこに目的や意志はなく、自己の本性に従って作動していると云うわけです。「神即自然」と云う風に云われていますが、そうなると人間に自由意志はないわけです。スピノザは自由意志はありえないと主張しながらも、人間の自由を擁護しています。自己の本性に従って作動することこそが自由と云うわけです。スピノザは人間の本質をデカルト的な理性ではなく、コナトゥス(衝動、努力)にあると云います。目的も意志もない神は自身の本性に従って作動するように人間も自己の本性に従って作動すると云うわけです。
 安冨さんはスピノザの思想を複雑系科学に結びつけようとしているのは、彼の生前の友人であった科学者のホイヘンスの振り子時計の実験からです。科学者のホイヘンスは吊るされた2つの柱時計が同じ振れ幅で揺れることを発見します。また彼は柱時計を2つの椅子の上に置いた2本の棒の上に吊るし、振り子の振れ幅の共感を崩すと、椅子が揺れることも発見します。彼は複雑系科学で云うところの「同期現象」を発見したわけです。「同期」はホタルが一斉に光ったり、大勢の人が橋を渡ると橋が揺れたり、コンサート会場で観客が一斉に拍手をすると揃い出すなど自然界でよくみられる現象のことです。複雑系科学に関しては私も詳しくはわからないのですが、安冨さんの説明では「同期現象」が発生するのは「同じ何かを共有している」からではなく、本来は別々のものがシステムによって結ぶ付けられていることで発生している、と云うことになります。2つの異なる柱時計が揺れたのは同じ壁や棒で吊るされていたから、と云うことになります。同じように、システムによる関係性によって自然界も作動しているわけです。システムによって作動の仕方は決まっているのですが、条件が変わると作動の仕方が大きく異なるわけです。ちょうど、2つの柱時計の振り子の共感し合っている振り幅を崩すと、支えている椅子が揺れると云った具合に、システムを支えている条件をいじると状況に変化が生じるわけです。その変化が「カオス」と云うわけです。
 そう云う複雑系科学の視点でスピノザの思想を読み解くと、彼の独特な思想の理解が進むと云います。スピノザの思想では、人間の自由意志を認めていませんが、人間の自由を擁護しています。一見すると、矛盾した主張なのですが、スピノザがホイヘンスの実験内容を知っていたのなら、理解が進むと云います。実際、二人は手紙のやり取りをしており、世代も近く、オランダのハーグに住んでいました。システムとしては作動はあらかじめ決まっているのですが、支えている条件を操作すると状況が変化するのは、スピノザが『エチカ』の中で議論していた神の姿です。スピノザは神が世界そのものだと考えたのは、神は全知全能で物理法則を破るような奇跡を行なうのではなく、自己の本性に従い必然的に作動する存在であるとみなしたからです。だから、スピノザは人間には自由意志はないと考えたわけです。なぜなら、神に自由意志がないのなら、被造物である人間も自由意志がないわけです。しかし、同時に自由を擁護しているのは、スピノザは人間の努力によって自由は獲得できると主張しています。神が世界なら、その世界の一部である人間も自己の本性によって作動しており、その作動によって自由が獲得できるわけです。彼の思想は「必然/偶然」と云う二項対立的な図式で当てはめれば、支離滅裂です。
 しかし、複雑系科学の「同期現象」や「カオス」を理解しているとさほど難しい理屈ではありません。システムとしては作動は決まっているが、条件が変わると大きく状況に変化がみられるのは、決定論であるにも関わらずカオスによって絶えず変化していくわけです。その観点からスピノザの思想を読み解くと、人間の自由意志はないが、同時に努力によって自由が獲得できると考えたスピノザの哲学は矛盾なく理解できるわけです。そのため、安冨さんはスピノザの思想を複雑系科学の別称である「非線形科学」と組み合わせて「非線形のエチカ」と形容しています。
 そう云う観点で歴史を眺めてみると、確かに決定論に従って歴史は流れています。例えば、明治憲法の制約下で総力戦を戦えば、日本が戦争に負けてしまうのは当時のシステム上、仕方がないことになります。しかし、同時に戦争に向かうように当時の政府や人々が動いていたことは「革新」の議論をみればわかると思います。自由がないにも関わらず、人間が主体的に動くことは「必然/偶然」と云う視点では矛盾しているわけですが、安冨さんのスピノザ解釈でみれば何の問題もないことになります。そして、そう云う視点で歴史をみれば、システムによる必然性と人間の主体性をみることができ、そうなれば、陰謀論のように全ては黒幕によってあらかじめ仕組まれていたと云う決定論的な世界観が成り立たないこともわかると思います。例え、黒幕がシステムそのものを構築したとしてもカオスによって全てを予測しコントロールすることは不可能と云う結論を出さざるを得ないからです。

 なお、安冨さんは上記のような複雑系科学の観点から満州事変以後の歴史を記述した著作に『満洲暴走』と云うのがあります。システムとして作動しつつ、総力戦や当時の中国と満洲の社会の差、満鉄、大豆などの複数の要素から日本の敗戦に陥った過程を記述しており、歴史をみる上で重要な視点を与えていると思います。
 また近著である『生きるための日本史』では、日本の近代史は江戸時代の家を中心としたシステムから立場を中心としたシステムの移行であると云う見取り図を提示しています。そして、現在は立場から別のシステムへと以降している時期であり、現在の諸問題はそれによって噴出していると述べています。

 なので、私は歴史学をアップデートするさいは、安冨さんの思索が重要な指針を与えてくれると考えています。


最後に


 かなりの長文となりましたが、ここまで読んでいただきありがとうございます。かなり大雑把な内容でしたが、えづれさまに何らかの示唆を与えられましたら、幸いです。
 なお、まだ予定なので実際に公開するかはわかりませんが、カンパをまた募るかもしれません。今回は先行研究で、内務省と特高警察の書籍を3冊ほど読んでみたいからです。

一冊目は、黒澤良さんの『内務省の政治史』です。

二冊目は、副田義也さんの『内務省の社会史』です。


三冊目は、荻野富士夫さんの『特高警察体制史』です。


 3冊合わせて25,630円でけっこうな値段になります。前回のように、口座を公開してカンパを募るか、アマゾンの欲しいものリストを公開するのかのいずれかになると思います。もし、カンパを募りましたら、どうぞよろしくお願いいたします。

 あと、前述の安冨さんの思想にご関心がありましたら、長崎大学の技術員の野口大介さんと運営しているマガジンで書評記事を公開しているので、そちらをどうぞ。



最近、熱いですね。