【第1話】 川崎で育つ
道路にはガムがこびりつき、近くを流れる多摩川は茶色く濁り、早朝にはホームレスのおじさんたちが唐揚げ弁当の配給のために列をなす。幼少期の川崎の記憶は、だいたいそんな感じだ。
川崎の北側は静かな住宅街が広がっている。対して南側は、重工業で発展した町だ。日本国内だけでなく、アジア諸国からも労働者が出稼ぎにやってくる。海にせり出した埋立地には、工場が所狭しと広がっている。夜でも昼のように明るく、煙突はいつも煙をもくもくと吐きだしている。私は川崎の最南端で育った。治安? お察しのとおり、悪い。
私たち家族の川崎の歴史は、祖父母の代まで遡る。祖父母は沖縄からこの土地にやってきた。第二次世界大戦後期、唯一民間人を巻き込んだ地上戦が勃発した沖縄。子どもの祖母はそのど真ん中にいた。なんとか生きのびたが、戦争で家と父を失う。幼いころに母とは死別、兄たちは出征、姉はすでに家庭をもっていたので、小学6年生でひとりになった。見渡す限り焼け野原になった沖縄を出て、内地(本州)に丁稚奉公に出ていた祖父と結婚した。それから仕事を求めて移り住んだのが、川崎だった。
やがて母が生まれ、その母もまた川崎で家族を築いた。私たちは木造のボロボロの戸建てで暮らした。よくねずみが出た。大通りをトラックが通ると、家ごと揺れた。近所にはヤクザ、大所帯のブラジルからの移民、なにか訳がありそうな家族がいた。そんなことはお構いなしに、子どもたちは家の前で、ケンケンパやゴムダン(ゴム跳び)をして遊んだ。
子どものころは無邪気で、だれだってみんな友だちだったが、中学校に上がるころから変化が訪れた。同級生がひとり、またひとりと学校に来なくなるのだ。いわゆるドロップアウトである。校内には毎日のように非常ベルが鳴り響き、廊下をバイクが走ることもあった。窓ガラスもよく割れた。
ある朝、登校すると、昨日までいた同級生が転校した、と先生から告げられる。家族ごといなくなったんだ、「夜逃げ」だ、とだれかが言う。ほんとうかどうかはわからない。でもその子は戻ってこなかった。別にワルってわけじゃなかったのに。
大人がどこか頼りなく見えた。たいてい問題児といわれる子たちのことを腫物に触るように扱う。今ならわかる。問題はそのとき突然現れたのではなく、何世代にもわたって受け継がれてきてしまったものだ。解決はむずかしかっただろう。でもそのころの私には、大人が無責任に見えて仕方がなかった。だれかが何かをしなければならないんじゃないのか。自然と教員になりたいと思うようになっていた。中学2年のことだった。
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