多摩川の話

住宅地の広がる風景が、列車が川を渡った途端にビル街に変わり、視界が急に狭まる。

線路と垂直に交わるその川の名は「たまがわ」。今は多摩川という表記が主だが、玉川と書けば忽ち古人の川に対する思いが泛びあがってくる。
玉は宝、そして魂。

肥沃な土をもたらし、丘陵を作り、物を運ぶ水の路として農業や生活を支えてきた。
今は、河川敷が憩いの場として整備され、スポーツのグランドになり、川に沿いサイクリングロードが延びて。

でも、なんの目的がなくて訪れるとき、
川が運んでいるのは水だけではない。
列車で渡るとき、無性に次の駅で降りたくなるのは、昔の歌の文句ではないが「川は呼んでいる」からだ。
朝日を浴び、夕映えに輝きながら流れていく水面に思いを乗せて、自分を空っぽにする時、私の魂は確かに川と響きあっている。

秋の日、この青空のどこから雲が現れるのかと車窓を眺めていると川に出て、その上流の消失点の辺りに靄が白く薄く溜まっているのが見えた。
海からではなく山からの雲は穏やかでいいなぁと視点を上げると、微かだがはっきりと富士山のシルエットが見てとれた。
魂の川の上流に不死の山。
何度でも何度でも循環する水の性を体内の六割以上溜めている私も残りの四割である肉体以外は輪廻するのかもしれないと、信じられるような気がする。

既に次の世にいるであろう人々を懐かしく思い出し、同じ海にたどり着くことを夢見ながら下車駅までをまどろみつつ。