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目的のない買い物

ほぼ日主催「生活のたのしみ展」に行って、少し寂しさを感じたはなし。

イベント自体は、出店の充実ぶりは言わずもがな、店員さんとお客さんとの垣根が低く、どこか一体感のある感じが心地よい、素晴らしいものだった。

けれど自分に関して言えば、以前のように自由に買い物を楽しめなくなっていることが明らかになって、それを寂しく感じてしまったのである。

準備は万端だった。会場の丸ビルに行く道すがら、特設HPでどんなお店があるのか予習をし、目的のお店の目星もつけて、クレジットカードが使えることもチェック済み。ワクワク。

(余談だけど、特設HPのこちらの記事では桐島かれんさんの"物に対する思い"にとても感銘を受けた)

そして実際にお店を訪れて物に触れて、いいなー欲しいなーと何度も思ったにも関わらず、色んな意見が邪魔をして、結局私は何も買えなかったのだ。

「これがなくても生活できる」
「同じ機能のもの持ってる」
「きっと飽きてしまう」
「これにこの値段は(自分にとって)贅沢すぎる」

こんな感じで、「好き」「かっこいい」「使えそう」というポジティブな気持ちをバシバシと打ち返してしまった。 

思えば昔はもっと直感で物を買って、無目的な買い物を楽しめていた。

「シンプルな暮らし」に身を置くため、理性を磨いてきた結果、その無目的な買い物ができなくなってることに改めて気づかされたのだ。

そうやって作った今の暮らしが好きなんだから、理性を働かせるのが間違ってると言いたいわけではない。

否定しなければいけないことばかりで今日の買い物を楽しめなかったことに、うっすら寂しさを感じたことを、きちんと自覚しようと思っただけ。ほんとはあれもこれも、持って帰りたかった。

好きなものや美しいもの、手元に置いておきたい!って強く思うことばかりだけど、そんな時はスナフキンのこの言葉を思い出してる。少し落ち着く。

何でも自分のものにして持って帰ろうとすると難しいものなんだよ。ぼくは見るだけにしてるんだ。そして立ち去るときにはそれを頭の中へしまっておくのさ。そのほうがかばんをうんうんいいながら運ぶより、ずっと快適だからね。 

買い物をしないわけではない。例えば「目的ある買い物」なら楽しめるのだ。

生活の中で何かがどうしても必要になったら、その何かを探しに行く。世の中で一番いいと思えたその何かを見つけたら、買う。それはとても理性の優った買い物で、きっと満足度も高い。 

そうは言っても、1年に1回とかでいいんだけど、運命的に出会ってしまった何かを「えいやーっ!」と買ったりすることも、自分に許してあげたいなぁ、と思ったのでした。

あの頃えいやっと買った物の中には、失敗ももちろん多かったけど、今でも宝物のように大切にしている物だって、いっぱいあるんだから。

#生活のたのしみ展
#日記
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