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書くことの意義と自分の思考

先日何気なく書いた自己紹介に関する投稿が今までの記事の中で1番見られていて、教育実習よりも卒論よりもこれなのか…と少し驚いています笑 たくさん見ていただけて嬉しいです。さて、社会人生活のリズムにもだいぶ慣れてきて、まだまだすぐに疲れ果ててしまうけどはじめと比べると肩の力を抜くことができるようになってきた気がしている今日このごろです。何よりのストレスは毎朝の満員バスで、あの空間が苦手すぎて毎朝いったん体調不良になるという生活を送っていたのですが、ちょっと早く出て遠回りするバスに乗ることにして事なきを得ました。このバスも最終的には満員になるのですが、私が乗る時点では座ることができるので音楽を聞いたり寝たり読んだり書いたりしています。というわけで、今日は朝の通勤バスの30分強を使って、自分がなぜ書くのか?いつ書くのか?ということを分析した結果を書いてみたいと思います。

友達に自分のことを“書いて言葉にすることでストレスを解消するタイプだよね”と言われて確かに、と思ったことがあります。私は元々文章を書くことを苦に思わないタイプで、学校で課される日記とか作文というような課題もどちらかといえば好きな方でした。それに、こうやって言葉にすることでたしかに思考を整理しているところがあります。
先日SNSを見ていたら、考えるときは言葉を使うのに、言葉ができる前の人はどうやって考えていたの?と小さな子どもが聞いたという投稿が話題になっていました。コメント欄を見ると、確かに言葉がないと考えられないという人もいれば、考えるときはイメージがメインだから別に言葉がなくても大丈夫という人もいました。飼っていたわんこや動物園で見るお猿さんなど、言葉は喋らないけどどう見ても色々考えてるように見える動物を知っているので、思考に必ずしも言葉が必要なわけではないということには私も同意します。だけど、私は明らかに文章を用いて考えるタイプだと思います。今日のご飯何食べようとか、明日何をして過ごそうとか、何気ないことを考えているときも基本的に脳内で文章を用いて喋っているようなイメージです。トマト系のパスタを食べよう!とか考えるのにイメージもちろんイメージも使うけれど、私の思考の材料は圧倒的に文章だと気が付きました。

何か無性に書きたい気分でnoteを開いて、でも開いても特に書くことがない、そんなことが時々あります。そうかと思えば、書きたい言葉がどんどん溢れ出してきてしまうこともあります。この違いは何なんだろう、と考えました。基本的にいつも頭の中は言葉でいっぱいだから、課題のようにテーマを与えられてさあ書いて、と言われたらたぶんいつでも書くことができます。一方で、特にテーマが決まっていないこのような場所では、書きたいけど文章が出てこないというような現象が起こります。なぜだろう、と考えたときにたどり着いたのが、冒頭の“書いて言葉にすることでストレスを解消する”ということでした。
悩み事やストレスがあるとき、頭の中はそれに関する文章で溢れています。でもそれを整理してこの場にまとまった文章として書く事ができるようになるのは、ある程度頭の中の文章を整理して、消化して、校正したあとなのではないかと思いました。書いては消し、書いては消し、という過程を頭の中ですることで繰り返すことで、溢れるように一気に文章を書き出すという瞬間が訪れるのだと思います。これまでに、毎日日記をつけてみようと試みても続いたことがなかったのはそういうことだったのか、と思いました。誰とあった、何をしたという記録だけを書いても面白くないけど、かといってその先の文章は毎日出てくるわけではないのです。だから私にはこうやって不定期でnoteを更新する形が合っているのかもしれません。

大学の先生が、国語教育を学ぶ者だからこそ、文章を書くことをやめてはいけないと言っていたのが印象的でした。就職して、ペンとノートを使って文章を書く機会はより一層減ってしまったけど、手書きでなくともこうやってまとまった文章を書くことは何かしらのパワーになっているのではないかと思います。自分の思考と消化の特性をなんとなく理解できたからこそ、そして、大学で国語教育を学んだ者であるからこそ、これからも言葉のアウトプットを大事にしていきたいと考えました。

さて、そろそろバスを降りないといけないので今日はこのへんで終わりにします。
今日も1日元気に乗り越えましょう。

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