脱「キモオタ」計画〜オタク継続しつつキモ部分だけ捨てたい人間の戦いの記録〜 ①生育歴(コミュニケーション編)

はじめに

 この記事では、「自分が大変キモい言動をしていること」と「一般にオタク的であるとされるコンテンツを好んでいること=オタクであること」を切り離し、キモい言動を改善するために何をしてきたかを振り返り、「コミュニケーションの手法」と「身だしなみ」の二面から整理していきます。
コミュニケーションが不得手であることや見た目について他人にとやかく言われようとも、自分では不満がないという人にとっては不要なものであり、場合によっては不快になることがあると思いますが、コミュニケーションの取り方や見た目が非オタク向きでないことを糾弾したり、揶揄する目的ではないことをご承知おきください。

1.「オタク」だけど、「オタク」じゃなかった

「オタク」とカテゴライズされる人間になったのは、中学生の時だった。
いわゆる「オタクコンテンツ」とされるアニメや漫画雑誌を好んではいたが、熱量もそれほど高くなく、詳しくもなかったため、つるんでいた友人からは「お前はオタクではない」と言われていた。

 コミュニティ外の人間からの「オタク」という呼称はレッテルであり、つまるところ「なんか挙動がおかしくて、ニヤニヤしながら私たちのよくわからない話ばかりしている人」を区別するためのものだった。

 対して、コミュニティ内(「オタク」を自認している友人たち)にとって、「オタク」は称号だった。素晴らしい作品を高い熱量を持って愛し、鑑賞や考察、収集などの行為に励むことは、彼女らにとって誇らしいことなのだ。
私は彼女らと、テレビで放映されていたアニメの話題が共通していたために一緒に行動していたが、私がアニメを観ていたのは、「オタク」でない子らが小学校で卒業していたコンテンツをそのまま楽しみ続けていたという、ただそれだけのことだった。
アニメのストーリーの内容については会話できたが、それ以外のことになると何を言っているのかさっぱりわからなかった。

 故に私は、「オタクだ」と言われても、「オタクじゃない」と言われても、「まあ、そうなんでしょうね」と思っていた。

2.オタクじゃないけど、キモオタではあった

 私が中学生から高校生にかけて過ごした時代は、
「『オタク』は『非オタク』から迫害されるもの」
という空気が蔓延っていた。
「2ちゃんねる」文化の全盛期であり、そこを起点とした犯罪行為が話題となって、報道などによって「オタク」に対するイメージが「犯罪者予備軍」に近いものとして醸成されていたこともあるし、2ちゃんねらー自身にも、「非ヲタ」を「自分たちを虐げるもの」として嫌悪しており、その認識のもとにいくつものスレッドを立てている人が少なくなかったように思う。
私は「非オタク」と「オタク」の両面から確立されたそれらの「オタク像」を内面化し、「非オタク」への怯えと侮りを育てた。

 高校生になってもオタクコンテンツは楽しんでいたが、やはりオタク文化はよくわからないままだった。
それでもノリが「オタク臭い」ことは自分でもよくわかっていて、それを直したい気持ちもあったが、「オタクであることを恥じることは、自分や友人たちを恥じるべき存在と言うにも等しいこと」と思いこんでもいた。

 小学校も中学校も、畑や田んぼに囲まれ、通学路には牛がいたような地元ののどかな公立学校で過ごし、そこでも自分がなんとなく浮いている自覚はあったものの、クラスメイトにはそれなりに受け入れてくれる子がいると感じていた。
 違和感を覚えたのは、高校に入学した時のことだった。

 都内の私立校に進学し、春休みの暇つぶしに勉強していたらクラス分けテストでうっかり特進クラスに配置されてしまった私は、精神的に大人びた生徒ばかりの中で「あれ?なんだか今までと全然雰囲気が違う」と戸惑っていた。
同じクラスには親しい友達ができず、同じようにクラスで浮いている子や、成績別で下の方のクラスの(自分がいたのが特進クラスであることは聞かされていたが、他のクラスも成績順であることには二年くらい気づかなかったため、「なんかみんなやたら教室遠くて困るな」と思っていた)オタク女子たちとつるんでいた。

 私はこの高校を第一志望に据えて入学したが、どうやら私のいたクラスは皆もっとハイレベルの学校を志し、滑り止めのこの高校に入った子ばかりであったらしい。
ずっと上を見てきたのにこんなところに、と少しやさぐれていたあの子たちと、通学路でザリガニやカエルを採りながら中3まで過ごした私とでは全くもってテンションが噛み合わなかったのだ。
 クラスが成績順で下の方になるにつれて、勉強に入れ込みすぎていないためそういう緊張のない、肩の力の抜けた子が多くなる。そのため、私は休み時間になると廊下の端の教室から反対側の端に駆けていき、スカート丈の短く化粧っけのある女子の中に混じってガニ股ではしゃいでいた。

 高校三年生になった頃だっただろうか。
以前の記事にも書いたが、同じクラスの非オタク女子たち(いわゆる陽キャ・ギャル)と接してみて、
「あれ、この人たち、とても優しい。すごく話しやすくて、素敵だ」
と気づいた。

 そこから彼女らの会話にこっそりと耳を澄ませ、内容ではなく、声のトーンや相槌のタイミング、話題の展開のさせ方を分析し、それを真似るようにした。
すると会話の途中で相手が変な顔をすることが少なくなり、
「あ、もしかして私がキモがられてたのって、オタクだからじゃなくて『そこ』だったの?」
と、考え方が切り替わったのだった。

3.大学デビューは力まず

 大学デビューはだいぶ力んで失敗した。しかし共感性羞恥で人死にを出したくないので、具体的に何が起こったのかは割愛する。
要は、自己紹介や関係構築初期からテンションを上げすぎた。
 ある程度関係性のできた中、落ち着いて話をする訓練は高校で重ねたつもりだった。だが、新しいコミュニティを形成しようという時に、全力で我を押し出しすぎたのだ。
初手でドン引きしても離れずにいてくれた人々には受け入れてもらえたが、やはり「オタクのキモいテンション」が嫌いな人からは距離を置かれた。
当初は「自分を出して嫌われたのだから嫌われたままでいい」と思っていたが、「オタクのキモいテンション」を出しても受け入れてくれる人には、「寛容な人」と「自分もオタクのキモいテンションな人」がいる。前者は趣味が異なっても共通点を見つけて会話することができるが、後者は趣味が異なってもずっと「同志なればこれが理解できるはず」とマシンガントークを浴びせてくるため、「オタク」の熱量を持たない私にはついていけないことがわかった。

4.コミュニケーションは相互作用

 会話において自分の話す分量は三割程度に、というアドバイスを耳にして、まずは自分が話したい気持ちをグッと堪えるところから始めた。
聞き役に徹するつもりで話しても、やはり自分のことが話したくなるので、それでやっと四割というところだった。

 「話すのは三割」を意識したことにより、それまで分量を考えずに話していて「今日は会話が盛り上がった!」と思った時に自分がしていたのは、「会話」ではなく「話題泥棒」であったことに気づき、床をのたうち回るほどの恥の自覚に襲われた。
 「会話というのは、相手がAについて話した時、相手の話そうとしていることを展開させ、ある程度展開した時に自分もAに関して話すことでさらに話題を発展させることである」というのが、私が観察によって得た定義である。
ところが私は、相手が「昨日Aということがあってね」とひと段落話してすぐに「Aといえば私は〜」と自分の話に持っていってしまい、会話を全く広げず、全て自分の土俵に持っていった挙句殺していた。
それに気づいてからは親しくない人と会話をすることが恐ろしくて仕方なく、しばらく美容院に行くたびに強い緊張に襲われていた。しかしそこで逃げていては対応策がわからないままであるから、美容院は定期的な会話レッスンと思って(たまに帰りの電車で泣いたりしながら)通った。
聞き役に徹すること、相手がAについて話したら「それってXだったっていうことですか?」と相手の話した内容を受けることなどを体感的に学び、大学を卒業する頃には美容院でアシスタントについてくれた人に「話しやすくて嬉しいです」と言ってもらえるまでになった。

よろしくお願いします!