見出し画像

幸せのカケラ⑥

≪侑輝の章≫

男子トイレのドアを開けたら、床にはいつくばって
雑巾をかけている人がいた。
『あ、ごめん。』
反射的に言ってから頭にはてなマークが浮かぶ。
あれ、ここ、男子トイレだよな。
『あ、ごめん。』
と、その人もオウム返しに同じ言葉を口にする。
『ごめん、ごめん、あまりに汚かったから。』
そう言って雑巾とバケツを持って立ち去ろうとする人が、
なっちゃんだった。
なっちゃんはいつも作務をしていた。
僕の信仰している神様の、お祈りの 場所 を掃除してい る 。
詩織と別れてから僕は予備校を辞めて雲水修行に入った。
午前中に雲水としての作務を終えると、教学処で
神様の書いた本を積み上げ片っ端から読んでいった。
夕飯の時間が近づいて、ふと顔を上げるとなっちゃんが
ゴミを回収していた。だから夕飯を一緒にどうですか?と
聞いてみた。なっちゃんは少しびっくりした顔をして、
『いいですよ。』
と笑った。いつかどこかで見たような懐かしい笑顔だった。
いつかどこかで。 ずっと遠い昔。
『アタシのことは、なっちゃんて呼んでね。』
ハンバーグを食べながらなっちゃんがそう言った。
『なっちゃん。』
『そう。なっちゃん。』
『なんかそういうオレンジジュースありましたよね。』
『よく言われる。』
そう言って笑うなっちゃんを可愛いと思った。
おそらくずっと年上の彼女のことを。
それから毎日一緒に作務をして、
お昼を一緒に食べて、午後は一緒に御法話のDVD 聞いたり、いろいろな話をした。なっちゃんといるとすごく楽しくて安心できた。
一心不乱に食堂のシンクを磨い ているなっちゃんを見ていると、
幸福感が僕を満たした。
『侑輝 君、手、止まってるよ』
と、額に汗のつぶを浮かべてこっちをにらむ。
『あ、はい』
僕もスポンジを持ってシンクを磨く。理由もなく笑い出したくなる。
『なんで笑ってんの?』
と真剣に怒ったように聞くなっちゃんの前髪に洗剤の泡がついている。
僕は手を伸ばしてその泡をとろうとして、
手についている泡が髪についてしまう。
『あ、ごめん、よけいに泡が・・』
そう言いながら、なっちゃんの前髪を触った途端に、
僕の頭の中に映像が広がる。
紺色の光が。濃い紫色の光が。下から上に向かっている。
キラキラと光りながら。
『侑輝 君?』
なっちゃんが不思議そうに僕に聞く。
『あ・・いや、あ、ごめん。髪に泡がついてた。』
『ありがとう』
にっこり笑うとまたシンクを磨きだす。今の映像・・なんだったんだろう?あの光の先には 何があるんだろう?
その答えがわからないまま時は流れ、
僕は神様の作った大学に合格して、寮に入る日に 、
なっちゃんが自分も大学の手伝いが出来るようになったと言った。
『ホントに!?』
『うん。ただのお手伝いだけどね。あとは今みたいに作務して・・』
『すごく 嬉しい。また毎日会えるんだね。』
『毎日は無理かもしれないけど。侑輝 君、勉強しないと。』
『たし かに。』
僕はそう言って笑った。
なっちゃんといる時だけ、僕は僕のままでいられた。
今にも雨が降りそうな日に、なっちゃんが海に行かない?とお昼を食べながら聞いてきた。 神様の大学は海のすぐそばにあるから、
入学したばかりの頃は珍しくてみんなよく 行って いたけど
2か月もすると飽きてしまって、
そこに海があることすら忘れそうになった。
『いいけど・・雨、降りそうだよ』
『降りそうだけど、まだ降ってないよ。
これから晴れるかもしれないじゃない。』
『なるほど。たし かに。』
そう言って僕達は海の方に歩き出した。
なっちゃんがユートピア実現記念碑のところで写真を撮りたいと言いだした。僕はスマホを持つ手をいっぱいに伸ばして、なっちゃんと記念碑が入るようにして写真を撮る。僕だけを撮った写真を送ってと言う。
『二人のじゃなくて?』
『うん。侑輝 君のだけでいい。御守りにするんだ。』
『御守り?なんのご利益あんの、僕の写真で』
『うーん・・・。侑輝 君みたいに痩せますように?み たいな?』
『なんだよー、それ』
そう笑いながらなっちゃんの手を握る。柔らかくて温かいなっちゃんの手。
海は波が荒く風も強くて、少し力を入れて足を踏ん張っていないと、
飛ばされそうだった。僕はなっちゃんの手を握り、
コートのポケットに一緒に入れた。
『温かい。私のいるところはとても寒いの。
寒さも感じないくらいに冷たい場所。』
『なっちゃんの部屋?』
『ある意味では、そうね。』
なっちゃんは、いつもの優しいまなざしではなく、
何かを見据えるように海の向こうを見ていた。ほとんど瞬きもしないで。
僕はなっちゃんの手をポケットの中で強く握り返した。
『僕はそばにいるよ。』
『え?』
『僕はなっちゃんのそばにいるよ。ずっとこうしてそばにいる。』
『そうね。そう出来たらいいね。』
『できないの?』
『わからない。未来のことなんてわからない。一緒にいたいと思っても、
一緒にいられないことなんてよくあることだし・・・。
侑 輝君 は、それを神様の与えた試練だと、その哀しみさえも受け入れて
生きていこうとする。 そして忘れていく。忘れることが受け入れることなのかもしれない、と自分を納得させて。そんなわけないのに。
忘れないでいることは 、 ずっと哀しみと共に 生きていくと いうことなのに。 でも 哀しみと共に生きていくなんて無理なのに。だってそれは 幸せ じゃないもの。』
『なんで?僕はたとえ、 なっちゃんと別れても、忘れないよ。なっちゃんを忘れない。ってか、それより、なんでずっと一緒にいたらダメなの?ずっと一緒にいられないの?』
『だって・・わからないんだもの。本当に。』
『ウソでもいいから、今は一緒にいるってなんで言ってくれないの?』
『ウソだからじゃないかしら・・・』
『なっちゃん・・・。』
『ウソはつけない』
『なんか僕、今、とても哀しい。』
『ごめん。ごめん。でも、私、侑輝 君のこと好きだよ。』
『僕もなっちゃんのことが好きだよ。』
『ありがとう。ねぇ、今こうして、 こうやって一緒にい られ る奇跡があって、それでここにいる私達がお互いを好きで、手をつないでいるっていうだけで、神様に感謝したくなるよね。』
『うん。』
『それでいいんじゃないかな。ちょっと前までは知らない人同士だった私達が、ほんのちょっとの偶然で出会えて、一緒にいられるその時間が、例え一瞬だったとしても。それだけで、未来への約束とか、そういうのがなくても幸せだと思えないかな?』
『でも!でも・・僕は・・明日も明後日もなっちゃんに会いたい。それで、その約束があればきっと生きていける。例えばそれが一年後の日付だったとしても。その日のために 、どんなに辛いことも耐えられる。その約束が僕を幸せにしてくれる。』
『私も。私もそうだよ。ありがとう。侑輝 君。キミに出会えて本当に嬉しかった。』
『なんで過去形?』
『意味はない』
『ないのかよ!』
そう言って僕達は笑った。今にも雨の降り出し そうな天気の中で。
あの時の 、 僕の心の中の幸福感を言葉にするのは難しい。
もしも天上界に帰る時 の記憶 があるのなら、それはあんな気持ちかもしれない。


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?