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人毛

 髪を切るプロ用のハサミは一般には販売されていない。ハサミ職人が作るものを専門の業者が取り扱っているため、規模の大きなホームセンターや雑貨屋なんかでヘアカット用のハサミを目にすることがあったとしても、そのほとんどは素人向けの量産品の域を出ない。
 サロンワークの美容師が仕事で使うプロユースのハサミは、価格としては1丁あたり4,5万円〜7,8万円あたりが最多販売価格帯だろうか。もちろんそれより安いもの(1万円前後)も高いもの(10万円以上〜無限大)もあるが、そんなハサミを現場のプロは最低でも4,5丁は必要とするし、常時10丁以上を用途に応じ使い分けている人も珍しくない。最近ではシザーケースと称し、ハサミの入れ物を肩からハスにかけたり腰につけたりすることがサロン美容師のスタンダードになっているが、あのケースの中にはかかった金額だけではなく、技術者としての思い入れが財産として入っている。

 一般にウィッグと聞くと、カツラのことだと思う方が多いかと思うが、美容師が技術の練習を行う上で欠かせないマネキンの頭部も、我々はウィッグと呼ぶ。一般の人からは生首みたいだと気味悪がられるし、初めの頃はあの独特の存在感に慣れなかったものだが、しばらくしない内に愛着がわいてくるから不思議だ。仲良くなりたくて風呂に一緒に入るかと思えば一緒に寝る奴もいたりする。私の友人には名前を付けて可愛がっている女性までいた。植えられている毛は、紛れもない人毛である。誰の髪の毛だったのかは知る由もないが。
 昔 バスの中で美容学生のカバンからウィッグが転がり出て 周囲の乗客が驚く という設定のCMを打ったことがあったが、ちょうどその時 猟奇殺人事件が世の中を騒がせており、残念ながら放送自粛になったことを覚えている。

 話は変わって、あまり知られていないが、漆器にうるしを塗る刷毛には昔から人毛が使われている。人毛である理由は色々あるが、最も大きな要素は同じ太さのままで長さを確保できることだ。人の毛髪は他に類を見ないほど長くなるのである。ひと度頭皮からこの世に生まれ出た毛は、全く切らなければ最低でも50〜60cmにはなる。こんなに真っ直ぐの毛が長くなる動物は他にはない。強いていうなら馬の尻尾の毛がそれに準ずるのみだ。
 職人や取り扱い関係者以外でうるし刷毛の構造を知る人は少ないとは思うが、他の刷毛の類いとは全く違い、うるし刷毛は2枚の薄くて細長い板の間に毛髪が挟まれた構造になっているから、長方形で平たい形状である。20cm以上ある板の中に挟まった人毛は、一本一本全ての毛が刷毛の長さに足りることが必要になる。毛が消耗すると板ごと切って、挟まっていた部分の毛を順次使っていくのだが、塗っている時に刷毛の毛が切れたり抜けたりすると一大事だから、完璧な道具の出来上がりが要求される。
 信憑性の程はわからないが、うるし刷毛の材料に使う人毛は昔から海女さんの髪の毛が良いらしい。長年海水にさらされて適度に油気が抜けているからうるしの含みが良いんだそうだ。
 漆器の世界はそれを完成させるまでの道具類も含め、残念ながら私とて詳しく知っているわけではないが、伝統の世界、職人の世界である。きっと他の業界の人間は知らない苦労や涙があるんだろうなと推察する。

 我々美容師も塗師同様にプロとして毛髪を扱っているが、塗師と違うのは道具としてではなく、毛そのものの造形こそ仕事なのであり、毛との戦いを繰り広げることで仕事が成り立っていることだ。毛をどう切り、曲げ、伸ばし、どんな色に変えて手なずけるのか。毛のヤツらは本当に手ごわい。なかなか素直にこちらの言うことをきいてはくれない。真剣に自身の向上を目指している美容師の中で、一人の頭に乗っている10万本の毛髪を前に、上手くいかずに悔し涙を流さなかった人はいないだろう。そんな地団駄や歯ぎしりの経験がない美容師は、カッコ良さだけを求めていて簡単に夢をあきらめて離職するタイプか、滅多にお目にはかかれないが 天才的に器用であるかのいずれかだと思う。

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