極楽へのお迎え
あ〜極楽極楽・・・。寒い外から家に帰って風呂に入った時なんかには、一定以上の年齢の方々なら子供の頃から慣れ親しんだ定型文である。でもこの極楽とは一体どこにあってどんな所なのか?
阿弥陀経をはじめとする各経典によると、極楽では目に入る景色は全て金銀宝石に満たされていて、空腹になれば自動的に美味しそうな食べ物が現れ、満腹になったら同様にそれらは消えるという。同じように必要なものや欲しいものは目の前に自動的に現れるから執着というものがない。何処からともなく心地いい音楽が聞こえ、常にちょうどいい気温でそよ風に包まれてる。『一切の苦しみがなく ただ楽のみある場所』がテーマだからね。そりゃ死んだ後は地獄なんかよりここが良いわなぁ。
我が世の春を謳歌し 華麗な生涯を全うした、藤原北家のヒーロー道長氏。しかし晩年は病に苦しんだという。死を覚悟した彼は、印を結ぶ九体の阿弥陀如来像の手と自分の手を糸で繋ぎ、釈迦の涅槃像のように横になって、北枕で西側に向いて横たわったという(そういえば私も右側を下にして寝る。どうでもいいが ww)。僧侶たちの読経の中、阿弥陀様が西方浄土にいざなってくれるよう、自身も念仏を口ずさみながら62歳で往生したといわれている。この世を自分の好きにしたといっても過言ではない道長にとっても、次に自分が転生する世界が地獄という運命は何がなんでも避けたかったのだろう。
当時の全ての人はマジで自分の死後についてビビっていた。1つは単純に 輪廻・転生に関して微塵も疑いを持たなかったから、自分が死んだ後に次は地獄に転生するんじゃないか?と年寄りなんかは特に気になって気になって 夜も眠れなかった程だ。またもう1つはお釈迦様が亡くなって2千年が経つと、有難い仏教の救いは効力が失せ、不幸や良くないことが続くと信じられていた『末法思想』のせいだ。なんでも1052年が釈尊の死後2千年の期限が切れた初年度だったらしいのだが、平安時代はそんな暗黒の時代の真っ只中だったのである。
悪いことをした人は皆地獄に落ちる。地獄には怖い獄卒(ま、鬼ですね)がいて、針山に登らせるわ、釜茹でにするわ、ベロを引っこ抜くわで、これがホントの『地獄の苦しみ』なのである。でも自分のしてきたことを振り返った時、人々が恐れたのはおそらく自分が『殺生』したからじゃないのかなと思う。蚊や蝿、ゴキブリなんかは誰でも殺していたわけだからね。そんなこともあって、人々は皆 自分は地獄に落ちるかもしれないとビビってたんだろうと想像する。
しかしそんな罪深い人であっても、阿弥陀仏=阿弥陀如来はただ『南無阿弥陀』と唱えさえすれば極楽浄土に連れて行ってくれる。カニツアーバスのように途中で色々なところで待ってる人を拾いながらではなく一直線だ。極楽には行ったことないから想像だけど。
もっともお迎えから極楽までのいざないには厳然たるランクがあって、最高級から最下級の9つのお迎えパターンが存在している。最も信仰心が篤かった信者には、25名の菩薩たちがそれぞれ楽器を奏でながら雲に乗ってブンチャカ賑やかにやって来る。もちろんそのバンドメンバーを率いるのは阿弥陀如来である。しかし逆に最下級だとどうなるのか? その場合には菩薩もバンドも来ない。阿弥陀仏直々のお迎えなんてとんでもない。どんな罪人であっても『南無阿弥陀』の一言で極楽に行けるという、なんともズルいシステムなので文句は言えないのだが、最下級の者どもには、誰も来ない代わりにお迎えの車だけは配車されるのだという。しかしそれでも極楽には行けるのだ。人々がこの教義に飛びついたのもうなずける。
私は仏像鑑賞が趣味なので少々紹介すると、楽しそうに楽器を奏でる25菩薩(雲中供養菩薩)の像はあちこちに残ってはいる(新しいものも多い)ものの、京都は宇治の平等院鳳凰堂(10円玉のデザイン)のものが最も有名だし完成度も高いと思う。
また藤原道長が臨終の際に自分の手を糸で繋いだ九体の阿弥陀如来像は今は現存していないものの、京都の浄瑠璃寺には同様の意図で造像された九体阿弥陀像がある(テーマ画像がそれである。当時の作で九体揃った阿弥陀像は全国でもここだけにしかない)。
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