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あなたもきっと「オサガリスト」

子供の頃から私は「おさがり」と共にいた。

家の中では長女だったから兄弟のおさがり的なものは無かったが
親戚や父母の知人、親しい近所の人などから
子供服だったり、おもちゃ、人形、絵本だったりの「おさがり」をもらっていた。

ただ当時の私がおさがりをもらっている意識がその頃あったか微妙だけど。

覚えているのは
従妹のおさがりのリカちゃん人形。

多分、従妹がリカちゃん人形を「卒業」したからか
または新しい人形を買ってもらっただかして、いらなくなってしまったであろう、リカちゃん。

着せ替えの服を買う余裕はないから
我が家のリカちゃんは今でいうミニマリストの先端だった。

要するに、着替えはほとんどない。

数少ない衣装は、貰った時に着ていた服と
母の手作りのシンプルな形のスカートや合羽のような袖などを省略した上着。

流石に靴は作れないので
どんな衣装にも足元は来た時から履いていた
薄汚れたピンヒール一足のみ。
それもいつの間にか裸足になっていたような・・・・。

なので、我が家のリカちゃんはミニマリストな上、なんだかちょっと、いやだいぶ野暮ったかった。

ちょっと大人になってから知ったけど
リカちゃん人形って、思ってたよりお手頃なんだよね。

しかし人形を買って、はい終わり。ではない。
人形があれば、もちろん着せ替えもしたくなるわけで、いろいろな装飾も欲しくなるわけで、お友達の人形も欲しくなるわけで、そのお友達の着せ替えも欲しくなるわけで・・・・・(エンドレス)

シルバ〇アファミリーもしかり。

みんな、商売上手だなあ・・・


何の話?

そうおさがり、おさがり!

そんな、野暮ったいリカちゃんと過ごした私だったが

高校になるとバイトもして、自分である程度好きなものが買えるようになるった。

流石にその頃になると、リカちゃんの着せ替えよりも、自分の着せ替えに気が向くお年頃で

友達と一緒に買い物に出かけたりすると、普通に流行の服やらなんやらがそこら中にあふれていた。
そうか、服って貰うだけじゃなくて、買えるんだ。そしてこんなに種類があるんだ。

子供の頃に服を買ってもらうというよりは「おさがり」に慣れ親しんでいた経験から、まっさら新品な服が店頭に並ぶ景色が、その服を買う行為が
どれも新鮮であった。

ある日、授業をサボって友達と出掛けた学校近くの商店街に
リサイクルショップがあった。
とってもテンションが上がったのをよく覚えている。

普通のお店よりも品数なんて断然少ない。
なんなら、お年頃のお嬢さんが好きそうな衣類なんて
ほんの一握りしかないような
個人でやっている的なリサイクルショップだった。

元は飲食店だった店舗なのか、小さなカウンターのような席があり
そこではお店のおばちゃんが、常連さんか、ご近所さんか分からない
数人のおばちゃんと共に、めちゃくちゃ煮物だか、なんだかのお惣菜の香り漂わせ茶飲み話に花を咲かせていた。

なんともアットホーム、、、、というかオシャレとはかけ離れた環境。
記憶があいまいだが、もしかして飲食店だったけど、その一角で古着を売っていたのかな?それにしてはどちらも中途半端なイメージだったけど。

そんなお店だったが、ここにある物は全て誰かの「おさがり」であるという事、普通に買うよりずっと安い事、新品を買う事に無意識に罪悪感があったのかもしれない私は、なんだか分からないが、その空間がとても居心地がよかった。
ちょっとした「宝探し」気分を味わえたからかもしれない。
そこは、私にとって楽しい楽しいワンダーランド。

そんな私がワクワクと躊躇なく服やカバンを物色しているのを見て、

「それ、人が使ったやつでしょ?!買うの?汚くない??」と友達が驚いていた。

驚かれたことに、むしろ、私も驚いた。そうか、そういう考えの人もいるんだ。

彼女は決して失礼ながら潔癖な訳ではなかったし、なんならいつも腰パン(当時流行っていた)してるからジーンズの裾はいつも引きずっていて砂や泥にまみれていた。

「お前が言うなよ」

と言う突っ込みが出かかったが、言わなかった。なんなら私も腰パンはしてないけど裾は引きずってたし。

誰かが一度所有していたものに対して、そんな子供でも(子供じゃないけど今の私から見たら)気にするのであれば世間の大人はもっと気にする人がいるのだろうか。それともそういう時代もあったのだろうか?

その後私がその店に一人で通ったのは言うまでも無い。
ワンダーランドは一人で行くとなおワンダーであった。

しかし、いつ行っても「この店大丈夫?」てくらい、閑古鳥&おばちゃんたちのお茶飲み場だったワンダーなランドは、いつの間にかコンビニになっていた(それも直に無くなったが)


オークションやメルカリや、個人でもおさがりを売買できるようになって久しい昨今。

誰もかれもが見知らぬ誰かの「おさがり」をもっている時代。

最近行きつけともいうべきリサイクルショップで買い物をしていたら
小学生くらいの子供が親に
「人が着た服なんで買うの?汚いよ~」的なことを大声で言って
親御さんにたしなめられていた。

親は気にしないけど、子は気にするパターン?
子よ、親御さんの懐事情考えたまえよ(まあそういう理由だけではないと思うが)あと、そんな事大声で言ったらここ(リサイクルショップ)では四面楚歌だぞ、、、、。

そんな事もあり、遥かかなたのリサイクルショップデビューした頃の記憶が蘇ったのかもしれない。

考え方は人それぞれ。


おさがりは衣類に限った事ではない。

本も同じで、最近はもっぱら古本派の私だけど
それはお金の面の理由も多大にあるが

新刊が欲しい訳でなければ古本屋の方が、ちょっと昔の本など普通の本屋さんにはない目新しいものがあって(古本なのに目新しいって変だけど見かけないという意味で)宝探し気分も味わえるのだ。

これは、いつかのワクワクに似ているぞ。そう、あの閑古鳥リサイクルショップ。

大人になり新たなワンダーランドをまたしても見つけてしまったのである。

古本には思わぬ「おまけ」がついてくることがある。
購入したお店のレシートだったり
新聞の切り抜きだったり
メモだったり
なんだか面白いしおりだったり
文章に線が引いてあったりする事も。

そんなの何が楽しいんだと言われそうだが、以前の持ち主の「痕跡」が見つかるのも古本を買う楽しみのひとつなのだ。

レシートだったら、この時間帯にこの店で買ったのか~とか
思わぬ地元ではない都会の書店だったら「君は新宿から来たのか~」とか
レシート一枚でも、本を読む前に想像が広がる。

まあ、それの何が楽しいかは繰り返すが説明できないけれど。

「おさがり」は時に姿を変え「手作り」とセットになって
私たちの身近にいてくれた。

両親は20代で3人の子持ちになって、実家住まいでもなければ、高給取りでもなく、3姉弟を食べさせていくのに必死なギリギリの生活を送っていた。

当然、流行りの洋服を都度買う等もってのほか
おもちゃも、ゲームも、着せ替え人形も
手の届く代物ではなかった。

「うちは貧乏だから」と言いながらも
どこかでみじめさを感じなかったのは、両親がそれでも貧乏を逆手に取り
子供たちを楽しませてくれていたからだと思う。

「お金がないからダメ!」
「お金がないから買えないの!!」
ではなく

買えないなら、作ればいい。
買えないなら、別の手を考えればいい。

試行錯誤の繰り返しだったと思う。

私が母に、野暮ったいリカちゃんの衣装をこしらえてもらっているのと同様に、父は弟たちに流行りの戦隊ヒーローのグッズを、職場で出た木の残材を使い作ってあげていた。

それは、レーザー光線も出なければ、カッコいい効果音もならない素朴な、どちらかと言えば工芸品チックな武器。
プラスチックのような軽さは無いが、ずっしりと重く、なんなら本物の「武器」になりかねない代物だ。

光線は出ないが、弟たちは素朴な武器を振り回し、効果音は自作自演。
リカちゃん人形の衣装も、既定のサイズではないから、ウルトラの母にも着せる事が出来たし、世代、性別どころか、星をまたいで着まわせるワールドワイドな活躍ぶりを見せた。

父と母が時間と愛情と執念で作ったレプリカたちを
子供ならではの想像力、柔軟性、あとちょっとはあったかもしれない
妥協心がうまく調和して、我が家は貧乏と上手に渡りあってきた。


そんな訳で、長きに渡り「おさがり」と「手作り」は私たち家族のよき友であった。

もちろんこれからもきっと。

だからずっと気になる事がある。
「おさがり」って言うと下に下がっている、価値の下がったもの、使い古されたものみたいなイメージが強いのではないだろうか。

確かに真新しいものに比べたら、そうなのかもしれないが
なんだかこの「おさがり」って言葉、私はずっと好きだった。

もっと、プラスなイメージにならないか?おさがりさん??

!!

そういえば

ミニマリストがいるのなら、「オサガリスト」だっていてもおかしくないじゃない?

ある日ふと、そう思ったのだ。

だって

言わないだけで、自覚しないだけで、世の中にはきっと「オサガリスト」が
あふれている。

私はまだまだ道半ば。

いつかの、誰かの、思い出たちと過ごす「オサガリスト」達に
もっとスポットが当たりますように。


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