2019年9月25日の日記 「徹夜で釣りに行きませんか?」

「先輩、徹夜で釣りに行きませんか?」

という誘いを、大学の後輩から受けたのは3週間ほど前の事だった。卒業して遠くに住んでいる後輩が、9月の3連休に大学へ遊びにくるらしい。僕は今、実家に戻ってきて、その大学へ通える範囲にいるので声をかけれてもらえたようだ。優しい後輩に頭が下がる。

なぜ徹夜なのかはよくわからなかったけれど、「普段からそうやって遊んでるのか」と思って深くは聞かなった。寝ずに遊ぶなんてしばらくやっていないし、僕は8月末から働いていないので、ちょっと無理な遊びも気が楽だった。その他、今でも大学近くに住んでいるメンバーを含め4人で海へ向かった。

集まったメンバーの中で、いわゆる「正社員」である人は誰もいなかった。僕は今仕事がないし、一人は仕事を辞めてアルバイトをしていた。僕に声をかけてくれた後輩は、そもそも就職せずに卒業して、今はアルバイトで食いつないでるようだ。最後の一人は獣医師なのだけれど、正直、働いているのかなんなのかよくわからない。NPOを立ち上げたようだが。

海へ向かうといっても、大学から目的の海までは車で3時間ほどかかる。夜の7時に出て、着いたのは10時ごろだったが、そこへ向かう車内では、最近どうだとか、見たアニメの話をしていて、具体的に徹夜で何を釣るのかは誰も語らなかった。でも、彼らにとっては何回もやっていることのようで、共通の認識があるようだった。

「徹夜で釣り」と聞かされていたけれど、実際は「徹夜でエビや貝を掬う会」だった。見落としそうなくらい小さい漁港や水路をいくつも廻り、釣りを始めるかと思いきや、夜10時から波止場のコンクリに付いている小さな半透明なエビ(テナガエビ?)をタモで捕まえてていく。他にも食べられるらしい(大きめのタニシみたいな)貝を採り、海藻や小魚を掬ったなら図鑑でその種類を識別した。夜明けとともにやっと釣りを始めだけれど、だけど結局1匹も釣れなかったし、陽が登ったら眠たい奴は車内で寝始めて、鳥を見たい奴は双眼鏡で野鳥を探し始めた。僕は、なんでもいいから釣りたいと、凪いだ漁港にひたすら竿を投げていた。

我々4人は、グループとして他のメンバーに合わせているようで、合わせてなどおらず、やりたいように他のことをしていた。やっていることも、しばし意味不明で、でもそれはなんだか楽しく「徹夜で釣り」と表現されても良さそうで、どこか心地よいもだった。寝不足が嫌いで滅多に徹夜をしない僕ですら、そこでは受け入れられる充足した眠たさを味わった。

あぁ、こんなくだらない意味不明なことを、僕も学生の頃は何度もしていて、最近は全くしていないのだな

と、その時に気がついた。僕の場合は同期達と、大学の至る所(芝生や、研究のベランダや、屋上)に七輪も持って行ってはサンマを焼いたり、屋上にコタツを運び上げて夜に闇鍋をやったりした。ロープワークを覚えてツリークライミングをしたり、自作のハンモックを持って構内の木々で昼寝をしたりした。アイディアと行動力から生まれる面白いけれどくだらないものを体現したくてうずいていた。


そんな「愛おしいくだらなさ」にエネルギーを未だに注いでいるメンバーが、僕をそれに誘ってくれたことに感謝し、彼らのエネルギーを羨ましく思った。

何度も場所を変え、僕は何度も竿を投げ、メンバーの一人は浅瀬にいるウミウシを探し、たまに虫を探し、そしてついに誰も魚を釣ることはなく、僕らは半透明のエビと謎の貝を持って帰路につき、それをその日の夕飯とした。帰宅後に眠い中調理をするのは、ひたすらにめんどくさかったし、そもそもエビや貝がアレルギーである僕は食べることすらなかったが、エビを食べるメンバーを見ながら、その有り余るエネルギーを分けてもらえたことが、ただ懐かしくうれしかった。

あのエネルギーは、その仲間たちがいるから湧き起こる物だと思った。
同じ志や価値観のある仲間がいるとき、それはお互いの傷を舐め合うことなく、楽しい何かに向かって僕らを焚き付けてくれる。やる意味はなく、労力もかかるものに僕らを突き動かし、エネルギーを消費するはずのそれが、次のエネルギーをもたらしてくれる。一人でもできるけれど、それでも他の誰かがどこかで同じ志を持っていることを感じていたいと思った。

自分が行き詰まった時、感傷に浸る誘惑を、時にはグッと抑え、自らエネルギーを使うことで、次の活力を得ないといけない。その思いっきりを、今、自分が自分に課すことができるだろうか。


それを思い出させてくれた「徹夜の釣り」だった。