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どこに住むか誰と住むかの権利

梅宮アンナがお父さんが終の棲家と考えていた物件を売ったというニュースがあって、なんとなく「あんなに意気込んでいたのに」とか「前にもマラソンを完走せずにリタイアした」とか批判的な表現で書かれていた。
私は梅宮アンナの気持ちがわかる気がする。

その記事に書かれている家や家族の状況が事実だとしたら、眺望の良い高台にある豪奢な家、4階建てだけどエレベーターはない、母は高齢のために車の運転は止められている…となれば、快適な暮らしは出来ないと思う。
若いものだけで暮らすのであればいいと思う。けど、高齢の母と共に暮らすのに、母が1人では出かけられない、4階を昇り降りして家の中を整えなくてはならないとなれば、どんなに気に入った思い入れのある家でも手放すことを考えるのは自然だ。

生活はきれいごとや思い入れだけでは続けられない。
私も父が残してくれた家を離れて、母と新しい暮らしを始める決断をしたばかりだから「処分する側」の人間だ。
他人から「お父さんの思い出の家を処分するなんて」という感傷的なことを誰かに言われたとしたら、「母と私の余生をあなたは責任もてますか」と言いたい。母がいつまで2階の自室で眠れるだろうか、雪かきや庭の手入れなどの管理を私が働きながらできるだろうか、そんなことを考えたとき、私たちはより楽に楽しく暮らせるためには、一軒家でなくともいい、この家でなくてもいいという結論を出したのだ。
私たちの決断を父は絶対に批判しないという自信もある。きっと、父が今まで生きていたら、「マンションか、いいな」というに決まっている。なぜなら、病弱な父は生きていた時からすでに2階の寝室に行くことすらしんどくなっていたからだ。
「お父さんの思い出の家を処分するなんて」と批判する人は、きっと知らないのだと思う。
人間が自分の家の2階に昇る事すらできなくなることを。自分の親が、自分の家で快適に暮らせなくなるくらい老いていくことを。そして、今は若い自分自身が老いていくことを。
他人の暮らしに「いちゃもん」をつけるものではないと思う。
どうでもいいじゃないか、家族でもない他人がどこに住もうと。
過去に何を言っていたとしても、考えや状況が変わるのに。

私は今のところ、新居への引っ越しを祝福しかされていない。
本人が喜ぶ以上に周りから「良かったね」と言われて、「そうか、良かったんだな」と再確認している。
梅宮アンナも新しい生活をお母さんとともに楽しんでほしい。家が売れてよかった。本当に。敬称略でごめん。

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